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第58話 稜巳の記憶:優しさという狂気①

 ただひたすらに走っていた。  ここが何処だかなんて、わからない。  あの場所から逃げられるなら、どこでも良かった。 「ねぇ、そんなに急いで、どこ行くの? 迷子?」  声を掛けてきたのは人間の女だった。 (え? 人間? この女、本当に人間? というか、女ですらない)  よくわからない生き物が近付いてくる。  目の前に立つと、目線の位置まで屈んだ。 「もしかしなくても妖怪だな。こんなところにいたら、確かに危ないね。よしよし、安全な場所まで、連れて行ってあげよう」  その生き物が手を出した。 「私の名前は霧咲紗月、人間だよ。霊力はあるけど、貴女を殺したりしないと約束する。貴女の名前は? ていうか、名前ある?」  妖怪の中には名前を持たない者も多い。  だがそんなこと、普通、人間は知らない。  慣れているんだなと思った。 「……稜巳」 「そっか、稜巳。お腹空いてるでしょ。ご飯が美味しいカフェを知ってるんだ。一緒に行こう」  妖力がほとんど尽きているのを感じ取られたのかもしれない。  得体の知れない生き物についていくのは危険だ。  また何をされるかわからない。  だけど、この生き物からは、嫌な感じがしない。  差し出された手を、稜巳は握った。  連れていかれた場所には、何かの畑があった。  強い匂いがして、思わず鼻を摘まむ。 「そっか、ハーブの匂い、ダメか。モノによっては虫よけとかにもなるしねぇ。蛇もハーブ、嫌いなんだね」 「嫌いじゃない。ビックリ、しただけ」 「そっか」  紗月が屈託のない笑みを向ける。  白い壁についた赤い扉を開く。  緩やかな長い髪を一つに束ねた娘が、振り返った。 「あらあら、可愛らしい子を連れてきたのね、紗月ちゃん」 「英里さん、アポなしで、ごめんね。しかも夜に、ごめん」 「良いのよ、気にしないで。ちょうど奥で、皆もご飯を食べている所よ」  娘が歩み寄り、目の前に屈んだ。 「こんばんは、可愛いお嬢さん。といっても、きっと私より年上ね。お腹空いてるでしょ。まずは何か食べましょうね」  英里が稜巳の頭を撫でる。  この娘も霊力が強い。言葉に霊気が乗って聞こえる。  とても心地の良い、まるで歌声のような話し声だと思った。 「重ちゃん来てるの? 邪魔しちゃった?」 「そんなことないわよ。お邪魔虫さんなら桜ちゃんが先だもの」  クスリと英里が笑う。 「酷いなぁ、英里。僕は今後、シゲと英里のカフェの上客になると思うけどね」  奥から男が顔を出した。  あの男も霊力が高い。何か特殊な力を使う人間だ。 「入り浸ってるだけのくせに。ハーブティだけで何時間長居しているのさ」  呆れる紗月に、また別の声が飛んだ。 「来てくれるだけでもありがたいよ。ウチはお世辞にも繁盛しているとは言えないからね」 「重ちゃんは桜ちゃんに甘すぎる。もっとぼったくりなよ」 「俺たち、曲がりなりにも警察官だよ」  男が呆れた声を出す。 「これからも毎日通うとするよ。そういえば、二人は正式なバディ契約もするんだったね? そうなれば英里は13課の正職員、僕らの正式な仲間だ。ワクワクするね」  桜ちゃん、と呼ばれた男がとびきりの笑顔を見せる。 「何にワクワクしてんの? 英里さんは重ちゃんの奥さんだよ。桜ちゃんはさっさと律と結婚しなよ」 「それならさっちゃんは、さっさと清人と入籍してバディ契約するんだね」  桜ちゃんと紗月が睨み合っている。  二人を宥める男がいた。シゲとか呼ばれていた男だろう。  稜巳の姿を見付けて、笑いかけた。   「やぁ、こんばんは。ここに座るといいよ。今、飲み物を用意するね」  立ち上がった男から、嗅ぎ慣れた匂いがした。  自然界には絶対にありえない薬品と機械の匂い。この男の体から、霊元から、直霊から、あの匂いがする。  稜巳は思わず後退った。 「や、嫌だ。もう、戻りたくない。助けて……助けて!」  走って逃げたいのに、足が縺れて動けない。  蹲るしかない体を、優しい温もりが包み込んだ。 「大丈夫よ。ここにいる人たちは、誰も貴女を傷付けたりしない。もう何も、心配はいらないわ」  耳に流れ込む声は、歌声のように心に沁みる。  昔に聞いた子守歌に似ていた。  花の匂いがする髪と、さっき嗅いだハーブの匂いがする手が、稜巳を柔らかく包んだ。  力が抜けて、稜巳は英里に凭れ掛かった。 「きっと、たくさん怖い思いをしてきたのね。これからは、私が貴女を守るわ」  気休めの言葉でも、嬉しかった。  この人間が命懸けで稜巳を守ってくれるなんて、夢にも思ってはいなかった。  けれどその手の温もりは、今まで会った誰よりも、安心できると感じていた。

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