61 / 86
第58話 稜巳の記憶:優しさという狂気①
ただひたすらに走っていた。
ここが何処だかなんて、わからない。
あの場所から逃げられるなら、どこでも良かった。
「ねぇ、そんなに急いで、どこ行くの? 迷子?」
声を掛けてきたのは人間の女だった。
(え? 人間? この女、本当に人間? というか、女ですらない)
よくわからない生き物が近付いてくる。
目の前に立つと、目線の位置まで屈んだ。
「もしかしなくても妖怪だな。こんなところにいたら、確かに危ないね。よしよし、安全な場所まで、連れて行ってあげよう」
その生き物が手を出した。
「私の名前は霧咲紗月、人間だよ。霊力はあるけど、貴女を殺したりしないと約束する。貴女の名前は? ていうか、名前ある?」
妖怪の中には名前を持たない者も多い。
だがそんなこと、普通、人間は知らない。
慣れているんだなと思った。
「……稜巳」
「そっか、稜巳。お腹空いてるでしょ。ご飯が美味しいカフェを知ってるんだ。一緒に行こう」
妖力がほとんど尽きているのを感じ取られたのかもしれない。
得体の知れない生き物についていくのは危険だ。
また何をされるかわからない。
だけど、この生き物からは、嫌な感じがしない。
差し出された手を、稜巳は握った。
連れていかれた場所には、何かの畑があった。
強い匂いがして、思わず鼻を摘まむ。
「そっか、ハーブの匂い、ダメか。モノによっては虫よけとかにもなるしねぇ。蛇もハーブ、嫌いなんだね」
「嫌いじゃない。ビックリ、しただけ」
「そっか」
紗月が屈託のない笑みを向ける。
白い壁についた赤い扉を開く。
緩やかな長い髪を一つに束ねた娘が、振り返った。
「あらあら、可愛らしい子を連れてきたのね、紗月ちゃん」
「英里さん、アポなしで、ごめんね。しかも夜に、ごめん」
「良いのよ、気にしないで。ちょうど奥で、皆もご飯を食べている所よ」
娘が歩み寄り、目の前に屈んだ。
「こんばんは、可愛いお嬢さん。といっても、きっと私より年上ね。お腹空いてるでしょ。まずは何か食べましょうね」
英里が稜巳の頭を撫でる。
この娘も霊力が強い。言葉に霊気が乗って聞こえる。
とても心地の良い、まるで歌声のような話し声だと思った。
「重ちゃん来てるの? 邪魔しちゃった?」
「そんなことないわよ。お邪魔虫さんなら桜ちゃんが先だもの」
クスリと英里が笑う。
「酷いなぁ、英里。僕は今後、シゲと英里のカフェの上客になると思うけどね」
奥から男が顔を出した。
あの男も霊力が高い。何か特殊な力を使う人間だ。
「入り浸ってるだけのくせに。ハーブティだけで何時間長居しているのさ」
呆れる紗月に、また別の声が飛んだ。
「来てくれるだけでもありがたいよ。ウチはお世辞にも繁盛しているとは言えないからね」
「重ちゃんは桜ちゃんに甘すぎる。もっとぼったくりなよ」
「俺たち、曲がりなりにも警察官だよ」
男が呆れた声を出す。
「これからも毎日通うとするよ。そういえば、二人は正式なバディ契約もするんだったね? そうなれば英里は13課の正職員、僕らの正式な仲間だ。ワクワクするね」
桜ちゃん、と呼ばれた男がとびきりの笑顔を見せる。
「何にワクワクしてんの? 英里さんは重ちゃんの奥さんだよ。桜ちゃんはさっさと律と結婚しなよ」
「それならさっちゃんは、さっさと清人と入籍してバディ契約するんだね」
桜ちゃんと紗月が睨み合っている。
二人を宥める男がいた。シゲとか呼ばれていた男だろう。
稜巳の姿を見付けて、笑いかけた。
「やぁ、こんばんは。ここに座るといいよ。今、飲み物を用意するね」
立ち上がった男から、嗅ぎ慣れた匂いがした。
自然界には絶対にありえない薬品と機械の匂い。この男の体から、霊元から、直霊から、あの匂いがする。
稜巳は思わず後退った。
「や、嫌だ。もう、戻りたくない。助けて……助けて!」
走って逃げたいのに、足が縺れて動けない。
蹲るしかない体を、優しい温もりが包み込んだ。
「大丈夫よ。ここにいる人たちは、誰も貴女を傷付けたりしない。もう何も、心配はいらないわ」
耳に流れ込む声は、歌声のように心に沁みる。
昔に聞いた子守歌に似ていた。
花の匂いがする髪と、さっき嗅いだハーブの匂いがする手が、稜巳を柔らかく包んだ。
力が抜けて、稜巳は英里に凭れ掛かった。
「きっと、たくさん怖い思いをしてきたのね。これからは、私が貴女を守るわ」
気休めの言葉でも、嬉しかった。
この人間が命懸けで稜巳を守ってくれるなんて、夢にも思ってはいなかった。
けれどその手の温もりは、今まで会った誰よりも、安心できると感じていた。
ともだちにシェアしよう!