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第64話 稜巳の記憶:優しさという狂気⑦
それからの優士はまるで中身が空っぽの人形のようだった。
一日中寝ているか、椅子に掛けて呆然としてる。
毎日、桜ちゃんや紗月が尋ねてくるが、会おうともしなかった。
「優士、お水、持って来たよ」
ただ、稜巳が話し掛けた時だけは、反応があった。
振り返り、ほんの少しだけ笑んで、唇を濡らす程度の水を含む。
夜になると、屋根に上って星を眺めた。
どうすれば優士が元気になるのか、わからなかった。
(そうだ。私の中に在る反魂香で、英里の魂を呼べばいいんだ)
理化学研究所と集魂会で散々使いまわされた反魂香。
英里と優士と暮らすうちにすっかり忘れていた。
早速、稜巳は優士に提案した。
「反魂香、か……」
優士が驚いた顔をしている。
きっと優士も、稜巳が反魂香をとりこんだ妖怪である事実を忘れていたのだろう。
俯いて動かなかった優士が顔を上げた。
「稜巳、おいで」
腕を広げる優士に抱き付く。
膝の上に乗せてくれた。
「優士は、英里に会いたい? 会ったら、元気になる?」
「会いたいよ。会えたら、嬉しい」
「じゃぁ、使っていいよ。私の中の反魂香」
優士が黙って、稜巳の頭を撫でた。
「稜巳は俺を心配してくれてるんだね。ありがとう。でも、ダメだよ」
「どうして? 英里に会えたら、元気になれるでしょう? 私も、英里に会いたい」
稜巳の言葉に、優士は撫でる手を止めた。
「反魂術は、人の世じゃ禁忌の術式なんだ。それに、稜巳の反魂香を使って呼んだなんて英里にバレたら、きっと怒って出てきてはくれないよ」
英里がどうして怒るのか、わからなかった。
「私は英里に会いたいのに? 私が使っていいって思っても、ダメなの?」
「ダメだよ。いいかい、稜巳。どんなに誰かに強要されても、反魂香を使ってはいけないよ。俺と英里との約束だ」
優士が小指を出す。
真似をして同じように指を出した。
優士が稜巳の短い指に指を絡めた。
「ゆーびきーりげんまん。嘘、吐いたら……。嘘吐いたら、罰は何にしようか」
どうやら優士は稜巳に、今後も反魂香を使わせない約束をしているようだ。
「約束、破ったら、もう二度と、優士に会わない」
稜巳は優士を見上げた。
「最後に一回だけ、反魂香を使う。それで英里を呼ぶ。そうしたら、サヨナラ」
稜巳が優士の膝から飛び降りた。
「何言ってるんだ。絶対にダメだ。稜巳!」
優士とは距離を取って振り返る。
「優士、大好き、英里、大好き。三人で暮らせてすごく楽しかった。幸せだったの。だから、優士に、これからも幸せでいてほしい」
稜巳は大きく息を吸い込んだ。
「違うんだ、稜巳。それじゃダメなんだ。それじゃ、人は幸せにはなれないんだ」
優士が稜巳の口を手で塞いだ。
「反魂香を吐き出しちゃダメだ。稜巳がそんなことしたら、きっと英里は悲しむよ」
膨らんだ頬を、稜巳は戻した。
優士が稜巳を抱き締めた。
「心配かけて、ごめん。一人にして、ごめん。でも俺、どうしたら立ち直れるのか、自分でもわからないんだよ。英里の霊元を貰って、英里の能力と記憶が俺の中に入ってきた。俺が知らなかった英里を、今更たくさん知って、俺……」
稜巳の小さな体に英里が凭れた。
「俺のために苦しんで傷付いて、稜巳のことだって、俺は何も知らなかったんだ。理研で産まれて、集魂会にいたのに。もっと英里の力になってやれたはずなのに」
優士から溢れる感情は後悔と自責、何より深い愛情だ。
きっと優士は、生きている英里からその話を聞きたかったはずだ。
それはもう二度と、叶わない。
(どうして、こうなっちゃったんだろう。どうして英里は、こんなに思っている優士をおいて、死ななきゃいけなかったんだろう)
「反魂儀呪……」
凡そ人とは思えない、呪物のような女の姿を思い出す。
(あいつらが優士と私から、英里を奪った。幸せを奪った。憎い、殺してやりたい。そうだ、私がアイツらを殺してやろう)
どくん、と心臓が下がって、鼓動が徐々に早くなる。
体が重くて、熱い。
頭の中で、誰かが稜巳に囁く。
『それが角ある蛇の本能だ。人を恨め、憎め、殺せ。我らの居場所を搾取した人間は総て我らが敵だ』
すでに亡き同朋の声が、稜巳の本能を刺激する。
記憶の奥底に沈んでいた記憶が戻ってくる。
「稜巳? 稜巳! ダメだ、負の感情に呑まれたら、稜巳は只の妖怪に、人に害をなす13課の処分対象になってしまう」
優士の声が、遠い。
あの幸せな時間はもう戻ってこないんだと思った。
『幸せを、諦めないでね、稜巳』
耳元で、声が弾けた。
大好きな、もう聞けない英里の声だ。
優士が言霊を飛ばしたのだとわかった。
「英里は死ぬ直前まで稜巳を心配してた。俺たちは稜巳を自分の子供みたいに大事に思ってるんだ。一人でどこかに行くな。これ以上、俺を一人にしないでくれ」
優士の懇願は切なくて、もう何もかもが取り返しがつかないのだと悟った。
『今まで以上に幸せな気持ちになれる時が、きっと来る。稜巳が幸せになれる場所が、きっとあるわ』
優士が投げてくれた言霊は、英里が稜巳のために残してくれた言葉だ。
(人間が私を不幸にした。それ以上の幸せをくれたのも人だった。また人に幸せを奪われた。私は、人が嫌いで、大好きだ)
何が正しいのか、わからない。
自分がどうしたいのかも、わからなくなった。
そっと目を閉じて、力を抜いた。
稜巳の体を植物の蔦が這う。木の根が体を包む感覚は温かくて、もうそれでいいと思った。
「稜巳! 稜巳、行くな。稜巳!」
優士の呼ぶ声が、どんどん遠くなる。
(眠ってしまおう。眠ってしまえば苦しくも悲しくもない。憎まなくても誰も責めない。幸せでなくても、悲しくない)
英里と優士と暮らした幸せな場所には大きな木が茂って、稜巳を思い出の場所に繋ぎとめた。
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