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第4話
ACT 2
ラウルの居城であるルスキニア城は、降り続ける雪の中に佇んでいた。薄明るい雪空に突き刺さるような尖塔がそびえ立つ美しい白亜の城だ。石造りの城内はひんやりと冷たいのだが、逆に保温性はよく、一度あたたまってしまえば、そのぬくもりを逃がすことはない。
「ここをおまえの部屋にする」
ラウルはマントに包み、抱き上げて運んできた青年をとさりとベッドに下ろした。
「隣が私の寝室と執務室だ。あまりそこにいることはないが、用があったら、一応声をかけてみればいい」
「意味がない」
ぼそっと言ったアレクシスを軽く睨んでから、ラウルは青年の髪を軽く撫でた。
「おまえ、名前は?」
尋ねるラウルに、しかし青年はふるふると首を横に振る。
「おまえ、私の言葉がわかるのか?」
ラウルの問いに、青年は少しためらってから、こくんと頷いた。
「僕は……誰?」
掠れた声が白く乾いた唇からこぼれた。彼はコホコホと小さく咳き込んでから、栗色の大きな目を見張って、ラウルを見上げた。ラウルは黒革の手袋を外すと、その指先で青年の頬に触れる。
「おまえは……どこから来た? ルスキニアの言葉がわかるということは……この国の生まれなのか?」
「わからない……わかりません」
青年は優しく澄んだ声で、少し哀しげにつぶやいた。
「言葉は……わかります。話すことも……できます。でも……僕はなぜ自分がここにいるのか……どこから来たのか……どこに行こうとしていたのか……何もわからないんです」
「なんだか、不思議な話だなぁ」
カーテンの端をめくり、また激しくなってきた吹雪を眺めていたアレクシスがゆったりと振り向いた。
「君、どのあたりから意識があるの?」
「……森を歩いていた……あたりから。気がついたら……森番の女の子に手を引かれていて……」
彼がつぶやいた。
「ひどく寒くて……何もわからないから怖くて……」
「名前、思い出せないの?」
アレクシスの問いに、彼はゆるゆると首を横に振る。
「わからない……もしかしたら……名前なんて、最初からないのかもしれない……」
「名前がないって……」
アレクシスが呆れたように言った。
「そりゃないでしょ。名前がないんじゃ不便だよ」
「……ルシアンだ」
低く響く声が聞こえた。青年がはっと顔を上げる。
「ルシアン……」
「それがおまえの名前だ」
ラウルは青年の身体を包んでいたマントをさっと振ると、ふわりと大きく回して身にまとった。
「今日からおまえはルシアンだ」
「僕は……ルシアン……」
青年は噛みしめるように新しい名前をつぶやく。ラウルはマントの襟元を軽く指先で直しながら、クールな口調で言った。
「文句があるのか?」
「いいえ……っ」
彼はふわりと嬉しそうに……本当に嬉しそうに微笑んだ。そんな彼からすいと視線を外して、ラウルは退屈そうな親友に視線を移した。
「アレクシス、暇なんだろう? ルシアンの面倒を見てやってくれ」
カツンとブーツを鳴らして、踵を返したラウルだったが、ふいに足を止める。
「ルシアン」
ラウルがため息混じりに言った。彼……ルシアンの華奢な手がラウルのマントの端を掴んでいたのだ。
「放せ」
「……」
ラウルに拒否されても、ルシアンは首を横に振る。細く長い指でラウルのマントを掴み、栗色の瞳で見上げる。
「もう……少しだけ」
「おまえがいいってよ」
アレクシスが笑った。
「この吹雪じゃ、城に来る者もそういないだろ。少しつき合ってやれよ」
「そんなことを……」
ラウルが見下ろすと、ルシアンは真っ直ぐな瞳でじっと見つめ返してくる。
「……おまえは」
「国王……陛下。もう少しだけ……」
ベッドから立ち上がると、ルシアンはすっと床に膝をついた。ラウルのマントの端を両手でそっと持ち、軽く唇を触れる。
「どうか……」
「へぇ……」
アレクシスが少し驚いたような顔をしている。
「ルシアン、君、やっぱりルスキニアの人じゃないの?」
「……ああ」
きょとんとしているルシアンに、ラウルも頷く。
「マントやドレスの裾に口づけるのは、忠誠の証だ。おまえ、なぜその仕草を知っている」
「え……」
ルシアンははっとしたように身を引き、耳まで真っ赤になった。
「忠誠の……証」
確かめるようにつぶやいてから、ルシアンはこくりと小さく頷いた。
「あの……国王陛下」
「どうした」
ラウルはルシアンの前に立った。そして、その手を取って、立ち上がらせる。長身のラウルよりも、ルシアンは頭一つ分くらい小柄だ。ほっそりと華奢で繊細な目鼻立ちはまるで少女のようだが、知的な光を宿した栗色の瞳と真剣な表情は、凜々しい青年のそれだ。
「図々しいお願いとはわかっていますが……あの……僕を陛下の……召使いにしていただけないでしょうか」
「ルシアン……」
ルシアンは再び、ラウルの足元に跪く。
「どうか……僕をお傍に置いてください……っ」
乾きかけた栗色の髪には、柔らかいウェーブが戻っていた。彼の髪と瞳はほぼ同じ色だ。典型的なルスキニア人は、アレクシスのような金髪碧眼や銀髪、緑眼だ。ルシアンの栗色の髪にも幾筋かの金髪が混じり込んでいる。しかし、その顔立ちの優しさや穏やかな栗色の瞳は、純粋なルスキニア人というよりも、どこか他の血が入っている感じである。
「ルシアン」
アレクシスがなだめるような口調で言った。彼はすっと窓際から離れると、ルシアンの傍に片膝をつき、優しく肩のあたりを撫でる。
「国王であるラウルの側仕えになる者は、身辺を厳しく調べられる。それこそ、何代も前までな。身元がしっかりしていないと駄目なんだよ。ラウルはこの国を統べる者だからな。君のことは俺が引き受けるから……」
「いや」
アレクシスの言葉を遮ったのは、ラウルだった。彼はすらりと腰に差した剣を抜いた。
「ラウル……っ」
ぎょっとして飛び退くアレクシスを無視して、ラウルはその剣に軽く唇を触れた。祈りを捧げるように顔の前に掲げてから、その剣を跪いたままのルシアンの左肩に軽く置く。
「ルシアン」
ルシアンが無意識のうちに、深く頭を垂れた。
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