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第8話
ケランに厳しい言葉を浴びせて以来、ケランはアルスカに話しかけてくることはなくなった。しかし、彼の姿を見ない日はない。ケランはいつもフェクスの家の前にじっと立って、アルスカの出勤と帰宅を見ていた。
アルスカはケランを不気味に思った。それは、フェクスも同意見であった。
ケランはたびたびフェクスにアルスカについて仲介してほしいと依頼しに来た。フェクスが首を振ると、ケランは烈火のごとく怒鳴り散らした。フェクスはその様子を見て、尋常ではないと思った。
2人は相談して、憲兵に窮状を訴えることにした。
「なんとかしてください」
アルスカは憲兵に向かってこう頼んだ。しかし、異邦人であるアルスカを救おうとする憲兵はいない。アルスカは歯がみした。
貧しい東方出身のアルスカと、裕福なガラの出身であるケランでは、アルスカの分が悪い。これが、もし彼がか弱い女性であったなら、または彼がメルカ人であったならば、また違った対応をされたのは間違いない。
しかし、その不平等を叫んだところでどうしようもない。差別というのは差別される側ではなく、差別する側の問題なのだ。アルスカにどうにかできる性質のものではない。
「……しばらく、仕事は日が落ちる前に切り上げろ。俺も迎えに行くから」
憲兵に訴えに行った帰り道で、フェクスはそう言った。彼はアルスカの身を案じていた。いまはどこに行くにしてもアルスカとフェクスは一緒に出歩いている。これがアルスカひとりになったら、一体どうなるのかわからなかった。
しかし、アルスカは首を振った。
「それは申し訳ない。それに、そんなに早く仕事は終わることができない。いま、補佐官の中で私が一番翻訳が遅いんだ」
「命とどっちが大事だ」
アルスカは黙った。彼はどうするべきかわからなかった。安全を優先するならばこのままフェクスに送り迎えを頼むべきだ。しかし、いつまでも気のいい友人に迷惑をかけるわけにもいかないと思っていた。
また、最後がどうであったにせよ、14年も共に暮らしたケランが自分に対してそこまで無茶はしないだろうという驕りもあった。
その日、アルスカはひとりで帰路についた。アルスカは朝から咳をしながら仕事をしていて、みかねた上官に帰宅するよう命じられたのだった。まだ日が高く、アルスカは油断していた。
道の真ん中に立ちふさがる人影がある。その人物の顔は逆光で見えない。それでも、アルスカは14年のつきあいでその人影がケランであるとわかった。
「あ……」
怒鳴りつけて追い払おうとしてしかし、声が出なかった。その人物は異様な雰囲気を発し、ゆらゆらと上体を揺らしている。
アルスカは無意識のうちに一歩後退した。
ケランは笑い出す。ケタケタとした無機質な声だ。アルスカの背中に汗が噴き出した。
「なんで、わかってくれないんだ」
そう言って、ケランは大きく一度揺れた。アルスカは嫌な予感がした。それは身の危険を伝える第六感のようなものなのだ。ようやくアルスカは叫んだ。
「こっちに来るな!」
このとき、アルスカはケランの右手に銀色の輝きを見た。
それがナイフであると気が付くより早く、アルスカはケランに背を向けて走り出していた。逃げなければならないと思った。脳内では警鐘が鳴り響いている。しかし、恐怖が足の動きを阻害する。
――間に合わない。
そう思った。アルスカはすべてが緩慢に見えた。世界はゆるやかに動き、ナイフを構えたケランの足音が大きく耳に響く。
アルスカは目をつむった。
そして次に目を開けた時、彼の目の前には返り血を浴びて呆然と立ち尽くすケランと、その足元に倒れ込むフェクスがいた。
フェクスはアルスカを迎えに来たところだった。そして、ナイフを持つケランを見て、アルスカを庇って飛び出したのだった。
アルスカは絶叫した。
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