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第13話 そばにいたくて

まんじりと眠れぬ夜を過ごし、朝9時になるのを待ちかねて泉はホテルをチェックアウトした。規定のチェックアウトは11時までと余裕があったが戻るのも億劫に感じ、昨日出社したのと全く同じ格好のまま、寝不足が続いている頭でただ一心に音川の顔を思い浮かべて、喫茶がある北通り商店街まで早足で向かう。 喫茶のドアを開けるとすぐに、店内の奥のテーブル席にいる音川と目が合った。ソファの背に片腕を乗せ広い胸を開き、反対の手には新聞を持ったままで、泉に向かいにっこりと微笑んでいる。 毎朝、最初に目が合う瞬間は心臓がドクリと動き、それは日を追うごとに大きくなっているように思うが、今朝のそれは格段に大きかった。身体ごと跳ねるかと思うほどに心臓が動き、一気に全身へ血液を送り出す。 「音川さん!」 「ん?おはよう」 勢い付いている泉に対して音川は普段よりゆっくりと発声し、それに合わせてほほえみも次第に強くなった。 泉が座ってまもなく、「おすそ分け」と喫茶のママがテーブルに、メロンが入ったガラスの器を置いた。よく熟れてつやつやと輝いている。今朝は、そんなことでも泣きそうになるほど嬉しい。 「4連休、なにするの?」 泉は自分の体の細胞一つ一つに、音川の低く滑らかな声に乗ってメロンの甘美な果汁が染み渡っていくのを感じながら、柔らかい果肉を口内で押し潰した。 「いえ、何も予定は無いです」 「俺のも食べて」 音川が器を泉の方へやると、「嫌いなんですか」と聞かれる。特段好きも嫌いも無いが、「俺、スイカ派」と軽口で応えた。 目前の泉に見蕩れていることを気取られなければなんでもよかった。軽く目を閉じるように微笑み、じんわりと味わっている様子をながめ続けられるのならば、喫茶のママにメロンでも何でも注文するのに。向かいにある青果店で仕入れてでも。 「もうすぐ夏季休暇だしね。そのためにも今は休息第一だな」 「音川さんは?」 「実家に帰るよ。1泊のつもりだけど、どうなるかわからん」 「僕も祖父母の所へ行こうかな……家は姉がいて大変だから。でもこう暑くちゃ、遠出する気にならない」と顔を窓へと向けた泉の首筋が、音川の目下でかなりあらわになる。 そこに奇妙な痕を見つけて、もっとよく見ようと無意識に眉根を寄せた。 赤いミミズ腫れのような筋が2,3本。 そして、記憶が確かなら、泉は昨日と同じ服装のようだった。外泊したのか。 首筋がよく見えるのはTシャツの襟首が大きく伸びていて、左右のバランスも崩れて左側は鎖骨までむき出しだ。しかも、ところどころに赤黒い染みがある。いつも小綺麗にしている印象の泉だから、その汚れに気が付いていないのはおかしい。 昨日よりはるかに疲れた顔。目の下の隈。充血した目。泉から感じられるのはひりついた空気で、どう見ても普通の外泊のような——たとえば恋人との甘い夜を過ごしたような名残や、友達と朝まで楽しく呑んだような明るい疲労感は、一切無かった。 だからと言って、部下のプライベートに口を挟むべきでないのは百も承知だ。 しかし、一度湧いた心配は拭えない。見て見ぬふりが正解だとはどうしても思えなかった。 深く入れば閉ざされる可能性もある。 どう聞き出すか、このまま口を閉じているか。 音川は一瞬迷い、そしてまもなく運ばれてきたアイスコーヒーを一口飲んで、急激に乾いた口内を潤し、息を吐いた。鼻から抜ける水出しコーヒーのアロマに背中を押して貰う。 「家、帰ってないの?」音川は、端的だができる限り柔らかく聞こえるように注意して口火を切った。 「……はあ、まあ」泉には珍しい歯切れの悪い反応。 「そういう日は、俺とのモーニングなんて来ちゃだめだよ?」 「どういう意味ですか」 「朝起きて彼氏がいなかったら、恋人が悲しむだろ」 「なっ……!何言うんですか!」 音川の予想よりも大きく動揺し立ち上がりかけた泉を、手の動きだけで静止する。 「違います!そんなことあるわけない」絞り出すようにそう言い、泉は俯いた。 事情を知られたくはなかったが、音川にそんな風に誤解されるのはもっと嫌だった。 「ああ、そう。じゃあ何、その傷」 泉は、今まで聞いたことがないほど低く無機質な音川の声に、驚いて顔を上げる。 グリーンの瞳がゾッとするほど冷たく光り、石矢のように泉を貫き見据えている。 こんなに冷淡な顔をした音川を、泉は知らない。 「あ……これは、」泉はいままでになく口ごもった。どう続けてよいのか言葉が出てこない。 音川は、泉の首をさらにじっと観察し、自分の唇を硬く噛み締めた。 前側から首を周りこむように線状の細かい内出血がある。明らかに圧迫痕だ。Tシャツの伸び具合からみて、胸ぐらを思いっきり掴まれて締め上げられたとしか考えられない。 無理に聞き出すことはしたくない。しかし、転んだとか、そういう適当なごまかしを泉がしてこないところに、音川は自分が介入できる兆しを見出した。 泉が求めてくれれば、力添えは惜しまない。一体、誰が。何の目的で、こんな……。 音川は、自分の中に芽生えた暗い感情を治めたくて、大きくため息をついた。 これは怒りだ。 人を恨むこと、嫌うことを徹底して排除してきた音川にとって、今まで囚われた覚えのない、どろりとした悔しさのピークのような—— 眼の前にいる泉は、もう果汁の甘みなど無かったかのように黙々とトーストをアイスコーヒーで流し込んで、とにかく完食するためだけに手を口を動かしているように見えた。 それは音川も同じだったろう。 そのまま無言で食事を終えて喫茶店を出ると、泉は、「じゃあこれで」と俯いて告げるやいなや音川に背を向けて一歩踏み出した。 音川は手を伸ばし、去ろうとする泉の手首をぐいと掴んで、自分の方へ引き寄せた。 ハッと振り返る泉に、「うちにおいで」と言い放ち、そのまま商店街から駅前通りへと引っ張っていく。 「ど、どうして」 「マックスが会いたがってる。それに、」そんな傷付いた姿で外を歩いて欲しくない、と言いかけてやめる。私情から湧き上がる言葉だからだ。 「予定、無いんだろ」 「ですが……」 泉の顔が今にも泣き出しそうにくしゃりと歪んだ。音川はそれを、自分に掴まれている手首の痛みのせいだと思い、急いで手を離した。 「ごめん」 「違うんです……。あの、僕、家に帰れなくて、」 「今はいい。おいで」 音川は有無を言わさず、さっと手を挙げてタクシーを捕まえた。 *** マックスは泉を見るなりニャーンと大きく鳴き、急かすように脱走防止柵に身体をぶつけてくる。「退いてくれないと開けられないから」と音川が困ったようになだめるが、なかなか聞き分けがない様子がまるで親子のようで、泉は微笑んだ。 そうだ。音川の傍にいる自分は、いつだって笑っている。 そのことに気がついて、「嬉しい」と思わず泉が呟くと、「嬉しいのはマックスさんの方だよ。あれから、ずっと泉のことを探して……」 カチャリと軽い音を立てて柵が開き、「待っててくれたの?」と泉が話し掛けると、マックスは待ちかねて泉のすねに身体を擦り付ける。 「リビングにいて」と音川は泉とマックスに告げてから、バスルームでざっと湯船を洗い、湯張りのボタンを押す。 次に、寝室のクローゼットから適当な着替えを見繕ってくると何かで貰ったままだった未使用のバスタオルの上に置いて、浴室を後にし、そっと玄関から外へ出た。 家には、ミネラルウォーターの在庫すら心もとない。 音川は何も考えず、ただ自分がやるべきだと感じたことを行うことにした。意義だとか、泉がどう思っているかなどは家に置いて、とにかく最寄りのコンビニエンスストアへ赴き、思いつく限りのものをカゴへ放り込んだ。 消毒液、絆創膏、入浴剤、着替え、飲み物、菓子、氷、酒。 それらが入れられた袋をガサガサ鳴らしながら帰宅し、冷蔵庫に仕舞っていると、給湯が終わったと自動音声が流れた。 「休日の朝風呂はいいぞ。ほら」とマックスを抱いてキッチンへ来た泉に買ってきたばかりの入浴剤を差し出した。夏用で清涼感のあるものだと青いパッケージが表している。 泉は、「いいんですか」と遠慮がちに小首を傾げた。 「うちにあるものは全て好きに使っていい。自分の家だと思って寛いで。いいね?」 「あの……」 「ん?」 「何も聞かないんですか……?」 「まず、お風呂でのんびりしておいで」 ありがとうございます、と細く礼を述べ俯いた泉の瞳から、ぽたりと一雫の涙がフローリングに落ちたが音川はそれを見ていないことにした。 泉は顔を上げるとうるんだ瞳のままで音川に小さく笑顔を返し、抱いているマックスに、「ドアは開けておくね」と仕事部屋の並びにあるバスルームのドアを開いた。 「じゃあ頃合いを見て……」 「えっ、音川さんも?あ、でも、狭っ、いや、広いですけど」 「マックスが湯船のお湯を飲みに行くと思う」 慌てる泉の頬や首がカッと赤くなるのが分かった。気分が変わってきたかと安心する。猫の力は偉大だ。 「からかわないでくださいっ」 ははは、と音川は大きく笑って見せ、同じく猫のためにドアは半開きにしたままで仕事部屋へ入った。 社用PCに向かい早速朝のルーティーンを開始しながら、泉を連れて来て正解だったと確信する。喫茶を出た時は暗い霧の中にいるようだった泉の瞳に、輝きが戻るのが分かった。落とした涙は悲しさが生み出したものではないはずだ。 帰れない、というのは家族の問題か、地元であることから友人関係か。 なんであれ、音川は自分が介入できる可能性に言いようのない喜びを感じていることを認めたが、それは新たな疑問を引き連れてきた。 ——俺は、一体あいつの何になりたいんだ。 思考がそちらへ囚われそうになる直前で踏みとどまり、仕事モードへ切り替える。課長の件は大体の道筋を立てたから、先方との会議日程を調整して、それまでに解決への工程を資料化して内部と意思疎通だ。 先方にお伺いのメールを送り、さて資料か……面倒だな。 「音川さーん?」 浴室独特のエコーを響かせた泉の声に仕事部屋から返答すると、「ちょっと来て」と呼び出される。 「なんだよ、俺は資料を……」ぶつぶつ建前を述べながら行き、浴室のドアの20cmほど空いていた隙間に手をかけて、勢いよく全開にした。 マックスが、湯船のへりを器用に歩き回りながら澄んだ水色の湯に顔を近づけ、それを湯に浸かっている泉が「入浴剤が入ってるから」と捕まえようとしているが、湯船で滑って体勢が安定しない。 浴室に満ちている蒸気がまるでぽわりぽわりと楽しげに弾んでいるようで、音川はドア縁にもたれかかり、繰り広げられる愛らしい攻防戦をしばらく鑑賞することにした。 「音川さん!笑ってないでマックスを捕まえてくださいよ。落ちちゃう」 「からかわれてるんだよ」 「そんなあ」 「大丈夫。飲まないし、落ちないよ。水が好きなんだ」 「変わった猫だなあ、キミ」 「放っておくとそのうち隅で落ち着くから」 音川はそう言いながら、Tシャツの襟を引き上げて、頭から抜き取るように脱いだ。 マックスは子猫の頃から音川が湯船に浸かる時も必ず浴室に入ってきては、バスタブの縁へ飛び上がってきていた。一度ならず足を滑らせて落ちたこともあるが、その際に上手く猫かきをして平然と泳いで見せた。成猫になってからは落ちなくなったし、浅く湯を残しておくと、これ幸いと足湯を嗜みにくる。 「腹筋、すご……」湯船から音川を見上げた泉が感嘆の声を上げた。 「そうでもないけどね」 スウェットパンツに手をかけたその時、仕事部屋から通話の着信音が鳴り、音川はハッと我に返った。一体何のつもりでシャツを脱いだのか、自然とそうなったようにも思うし、意図があった気もするが、一度仕事のことを思い出すともう何の手がかりも見つからなかった。 ただ、理性が働いていないという自覚があるだけだ。 「今のは見てないことにして」 そう言い残し、脱いだシャツに頭を通して着直しながら部屋に戻った。

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