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第17話
表札をみて初めてナオトが『横溝 直澄』だと知った。
扉をノックすると「どうぞ」と聞き慣れた声が返ってきた。ゆっくり開けるとベットヘッドに背を預けている直澄の姿がある。
窓の外の満月を眩しそうに眺めている。薄青色の病衣は直澄の線の細さを感じさせた。
月光が直澄の白い肌を溶かしてしまいそうで急に怖くなった。
直澄は新をみやると薄い笑みを浮かべた。
「バレちゃったのか」
「莫迦」
直澄の胸に飛び込んで、愛しい体温に触れた。消えないように、いなくならないように、背中に腕を回す。
子供みたいだな、と声が降りてきても新は構わず力を込めた。
「どうして、おまえは」
言いたいことはたくさんある。それなのに嗚咽しかでてこない。次から次へと涙が頬を伝う。
それを親指で丁寧に拭いながら直澄は口を開いた。
「病気を知ったとき、自分で死んでやるって思ったんだ。散々患者には「希望をもってください」と最もらしいこと言ってたくせに、いざ自分がなったら怖くなったんだ」
シーツを握る直澄の指が色を無くす。小刻みに震えている。
「でもそのとき新の歌を聴いたんだ。そんなこと言うなよ、もう少し生きてみろよと励まされたんだ」
まだおまえが歌うだけのロボットの話だよ、と直澄は目を細めた。
記憶を辿るように、直澄はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「新がアイロイドとして覚醒して誰もが喜んだ。ハカセの研究は報われたんだって。でもおまえは喉を壊して天使の歌声を失い、自分で記憶も消した。ずっと引きこもっててみているこっちが辛かった」
「だから俺を励まそうとヒューマロイドのふりをしたのか?」
「そうだよ。医者を辞めてハカセに無理を言って新の傍にいたんだ。でも人間がヒューマロイドの真似をするのは難しいな。すぐにバレると思った」
「……全然気付かなかったよ」
ヒューマロイドは人間を手助けするために作られたのに、その逆をする直澄が直澄らしいと思った。
いわばただのものに愛情を注いでくれていたのだ。
「でも俺はただのロボットだ。そこまでする必要ないだろ?また一から作ればいい」
「新は新だよ。もう一回設計図通りに作っても同じ新は作れない」
例えばさ、と直澄はボールペンを取り出した。
「これは俺が学生のときから使っている何の変哲もないペンだ。何年も使い続けているとものに魂が宿ると昔からの言い伝えがある。だからこれにスピーカーを付けたら話し始めるかもしれないだろ? ものに自我が芽生えないとは誰にも否定できない」
「つまりどういう意味?」
「たくさんの人に愛されて新という人格は生まれた。誰の一人でも欠けたら、新は新じゃないんだよ。ってつい難しく言い回しちゃうな」
直澄は子供のようにくしゃりと笑った。
「新のことを好きになったんだ。最初はまた歌って欲しい一心だったけど、歌に対して真摯なところとか寂しがり屋なところとか一緒にいるうちに愛しくなった」
どんなに辛く当たっても直澄は傍にいてくれた。励まされた、と言われたが新の方が充分に救われている。
「もっと一緒にいたかったけど三ヶ月が限界だった。病気は進行する一方だったし。だからかっこよく新の前を去ったのに」
「全然かっこよくない。俺がどれだけ、寂しかったか」
「ごめん。このまま別れた方が傷が浅くて済むと思ったんだ。俺の病名訊いたか?」
首を横に振った。
「若年性アルツハイマー」
新の頭の中が高速に回転する。ネットに繋がれた脳は様々な情報を送り込んでくれる。アルツハイマーとは何か、治療薬はないか、ものの数秒で調べきった。その、圧倒的な絶望を前に言葉が出てこない。
「もしかして検索したのか?」
「でも、そんな、直澄が」
「今の科学では治療薬はない難病なんだ。仕方がないことだよ。でも進行を遅らせる薬はある。それが関の山ってところかな」
「何の気休めにもならないじゃないか!」
つい語気が荒くなってしまう。
昨日まで覚えていた記憶が失われていく。
家族も、友人も、恋人も忘れて顔も思い出せなくなっていく、焦燥感。
ありふれた日常の宝物たちが砂のように指をすり抜ける。
今まで直澄が抱えてきたものを思うと切なかった。
「心が死んでいくんだ。ゆっくりと、でも確実に忘れていく。忘れたことも忘れてしまう。明日になったら新のことを忘れているかもしれない。それが怖い」
直澄の身体は小刻みに震えていた。新はぎゅっと力を込めて抱きしめる。
大丈夫だ、という言葉がこんなに不釣り合いな場面はない。
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