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第6話

 約束の日曜日。  季節は梅雨真っ只中であったが、今日は中休みの晴天だ。雅也は鞄の代金を封筒に入れて、鞄のポケットに入れた。那央の家をもう一度スマホの地図で確認し、家を出た。  那央の家までは実際に走ってみると10分もかからない距離だった。車をパーキングに停めてから那央に到着の連絡をした。那央の家は二階建てのアパートで、傍まで近づくと、二階の端部屋の玄関扉を開けて、手を振っている那央の姿が見えた。 「雅也さぁん。どうぞ入ってくださぁい」  雅也はアパートの前で受け取るつもりであったが、那央のウェルカムの様子を見ると、笑いながらアパートの階段を上がって行った。 「暑いところ、すいません。冷たいお茶でも飲んでください」  「じゃあ、お言葉に甘えて」  畳二間に小さな台所があるアパートであったが、人が来るから急に片付けたのではなく、普段からきちんとしている生活ぶりが窺えた。  那央はどうぞ、と言って小さな丸テーブルの上によく冷えてそうなお茶を出した。 「ありがとう。いただきます」  雅也は出されたお茶を一気に飲み干した。那央はクスッと笑って、お茶を注ぎ足した。 「ごめん。美味しかったから一気に飲んだよ」 「雅也さん違いわかってくれます?これね麦茶の粒を煮出して作ってるんです」 「そうなんだ。どうりで美味しいわけだ」  二杯目を飲みかけた時、片付いている部屋の一角にパソコンを置いている周りだけプリント用紙が置きっぱなしになっていることに気付いた。作業の途中だったのかもしれない。 「作業の途中だったね。ごめんねお邪魔して」 「いえ。たいしたことじゃないんです。バイトの点数付けです」  那央は生活費のために学習塾でバイトをしていると言った。両親の影響で教師になりたくて教育学部に入ったが、入学した年の夏にパニック障害になったらしい。那央の大学の教育学部は難関だ。雅也もそれは知っていた。 「休学してもうすぐ一年になるんです。なんとか今年中には復学をしたいと思ってて…心療内科の先生も、だいぶ良くなってきてるって言ってくれるんですけど、この間みたいなことになると、あぁまたかって…」 「その、発作は乗り物とかの空間に左右されるの?」 「うぅん…どうかな。電車乗ったの十ヶ月振りだったし」 「十ヶ月?…えらくチャレンジしたね」 「…どうしても、会って話したい人がいて…でも結局喧嘩して別れてしまったんですけどね」  雅也はあの時、駅のホームで見たキスマークを思い出した。 「パニック発作になったのも、その人が関係してるの?」  那央はドキッとした様子で雅也の顔を見た。 「あっごめん。立ち入ったことを聞いてしまって」 「雅也さんには聞いてもらおうかな…」  那央は自分の指先を見ながら話し始めた。 「高校の時からの友達っていうか、付き合ってた人なんですけどね…大学は別々だったしバイトもあったしなかなか会えなかったんですけど、去年の夏休みに一緒に遊びに行った先で、彼が交通事故に遭ってしまって…」  雅也はまた発作が出るんじゃないかと心配したが、那央は平然と話した。二人で自転車に乗っていた時に彼は左折するトラックに巻き込まれた。左脚と鎖骨を骨折する重傷を負ったが今は全く普通の生活ができている。が一方那央は事故直後に彼の名前を呼んでいる最中に彼が意識を失ってしまい、死んでしまったと思い違いをしたことがパニック障害のきっかけになったんだろうと医者に云われたと言った。 「最初はね、急に息苦しくなったりドキドキしたりして、落ち着こうとして深呼吸すると過呼吸になるし、息をするのを少なくすると酸欠になるし、どうやって息してたんだろうって、それすらわからない時もあったんだけど…今はちゃんと呼吸もできるようになりました」  那央は自傷気味に笑って見せた。雅也はどう言おうか迷っていると、その様子を察した那央は立ち上がって紙袋を持ってきた。雅也に渡す鞄がきちんと入れてあった。 「ごめんなさい。暗い話しして」 「いや、聞いたのは俺の方だから」 「じゃ、これ。雅也さんに使ってもらえてよかったです」 「こちらこそ、ありがとう」  雅也は代金が入った封筒を渡した。 「麦茶ご馳走様。じゃあ無理するなよ」  那央はパーキングまで見送りに来てくれた。 外は西陽になりかけの強い陽射しが容赦なかった。雅也の車の中は恐ろしいくらいの温度になっていて、すぐに乗り込むことができなかった。 「雅也さん、干物にならないようにね」  那央はクスクス笑った。 「ほんとだよ」  雅也もうんざりしながら笑った。  最初は鞄の受け渡しだけのつもりであったが、那央の病状を聞くだけではなく、もう一度会って話しをしたいと雅也は思った。 「車だとさ、俺の家から10分もかからないんだ。だから夜とか、もしなんかあったらすぐに来られるから連絡して。まぁ、なんかなくてもいいんだけど…俺からも連絡していい?」 「もちろん!じゃあ、ほんとに何もなくても雅也さんの声が聞きたいって電話しますよ」  「おぅ。待ってるよ」  雅也は車を出した。 ルームミラーにいつまでも手を振っている那央の姿が映っていた。雅也は那央のパニック障害は付き合っていた彼の事故が原因だとすれば、喧嘩別れなどせずに何故もっと寄り添ってやれなかったのかと他人事ながら薄情な奴だと思った。

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