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第9話

 黒光りする庫裏の廊下を歩いて行く。  足裏にひやりと触れるのは磨き込まれた床板である。  ささくれた心を少し宥めてくれる。  本堂の方から鈴や木魚の音が鳴り、やがて読経の声が流れて来た。法要が始まったらしい。  どこかで誰かが「音羽亭松吉」と言っている。思わず足を止めてしまう。  きょろきょろ辺りを見回して、居間らしい部屋のテレビが点いているのに気がついた。  寺の住職の住まいである。勝手に覗き込むのは失礼である。  そう思いながらも、落語家の松吉がテレビに出ている?   と思っただけで、強張っていた心がにわかに緩んだ。  顔までにやにや緩めながら、扉が開けっ放しの居間をつい覗き込んでしまう。 「……の踏切で立ち往生した車に列車が衝突しました。このため弁慶西線(べんけいさいせん)は現在不通となっています。  車に乗っていたのは近くに住む音羽亭弦蔵(おとわていげんぞう)さん、音羽亭松吉(おとわていまつきち)さんの二人です。  病院に運ばれましたが、意識不明の重体です」  家屋全体に染みついた抹香臭さがにわかに不吉に感じられた。  直己はそのまま寺の玄関に足を向けていた。  また上がり框で加藤駅長が靴を探している。 「弁慶西線が……」  思わず声をかけると、 「そうなんだよねぇ」 と加藤は靴を履きながら頷いた。 「あれが止まるとねぇ。うちの線に振り替え輸送になるから大変なんだよ」 「誰か死んだのか?」 「いいや。幸い列車の乗客は軽い怪我ばかりらしいよ。急ブレーキで転んだりして……」 「じゃなく、車に乗っていた方は?」 「さあねぇ? 重体らしいけど……すぐ駅に戻らなきゃ。タクシーは?」 「送ってく」  直己は駅長より早く靴を履くと、その腕を強引に引っ張るようにして駐車場に連れて行った。 〝重症〟と〝重体〟は違う。  音羽亭弦蔵と音羽亭松吉は〝重体〟だと言っていた。 それは〝重症〟とは違い、限りなく死に近いという意味である。  直己の国産車の助手席で加藤はもたもたとシートベルトを着けようとしている。 「何なの。このレトロな車?」  と四苦八苦しているのを、身を乗り出してシートベルトを装着してやる直己である。  松吉にもそうしてやりながら、ちょいとキスをしたのはいつのことだったか。  などと思うだけで意識が遠のきそうになる。

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