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第26話 黄昏旅館
やっと本来の目的を果たせそうだ。
花子の毛をどのようにカットするかをひとりでじっくり考えたいスミに、体よく追い出されたとは思ってもいないニケと思っているフリーが、二区の通りを歩く。
街並みが十二区とは雲泥の差である。なんだか空気もきれいな気がした。
笠(かさ)を被っているフリーはしきりに汗を拭っている。きつい。日差しが。
「炎天を過ぎれば暑さ引っ込むと思い込んでた。……油断した。キミカゲさんが言ってた残暑ってこのこと?」
ニケも笠は被っているが、フリーほど汗はかいていない。
「辛いならスミさんの家で休んでろよ」
「ニケを一人にするくらいなら死にます」
「うん。お前さんの気持ちは分かっているが、僕がお前さんの心配をする気持ちも、汲んでくれると嬉しい」
「……」
ニケを一人にさせまいとしてくれるフリーの気持ち。フリーの体調を心配してくれるニケの気持ち。互いが互いを想っていると衝突が起こる。でもそれはしょうがないことであって、どちらかが譲ったりできるものではない。少なくともニケはそう思っている。
フリーは軽々とニケを抱き上げ、汗だくの頬をニケの頬につける。
むいっ。
フリーの歩く速度がわずかに速くなった。
「はあはあ。むちむちだね! こうやって元気を注入しながら歩けばいいんじゃね? 俺、天才じゃね?」
変態式の元気になり方であろうと、フリーが生き生きしているならもうそれでいいやと、ニケは青い空を見上げた。
フリーとニケは、存在感を放つ建物前で足を止める。
広大な土地に本館と塔。斑や赤、白、金の鯉が舞うように泳ぐ池。その水面に浮かぶように建つ荘。水がさらさら流れ舟も浮かべられる川が建物をぐるりと一周し、その縁には紅葉や椿といった季節を彩る木々。小さな村ほどの面積はあろうかという全室和室の旅館。
「……」
ちらりと目を横に向けると看板に『黄昏(たそがれ)』と明記してあるので、ここが地図に記載されている黄昏旅館で間違いなさそうだ。
圧倒されたように、田舎者丸出しで見上げているふたりに、二区在住のマダムたちがほほ笑ましそうに通り過ぎていく。
見上げたまま、ニケはフリーの顔をぺちぺちと叩く。
「よし。着いたし、下ろせ」
「は? ニケほっぺと離れるとか、大金貰ってもごめんですけど?」
そう言ってさらに頬を押しつける。
ニケだって別に離れたいわけではないが、フリーは道中二回ほど転んでいるのでそろそろ下りたい。
「今すぐ下ろさないと、夜一緒に寝てやらんぞ?」
「ぐっ。そ、そんな脅しに……屈するっ……」
血涙を流しそうな声でじわじわとニケを地面に下ろす。名残惜しむにもほどがあるだろう。と、思ったが「一日中ニケと触れ合っていたい」と公言する変……そういうやつなので仕方ないなこれは。ふりふり。
本当に仕方がないやつだ。ふりふり。
ふりふりと左右に動いて喜びを表現しちゃう尻尾を鷲掴み、ニケは『庭園見学の方はこちらからどうぞ』と書いてある小さな勝手口から入る。別に求められて嬉しいとかではない。尻尾が勝手に動いてしまうだけだもん。
「勘違いすんな!」
「何エ?」
いきなり怒鳴られ、頭上でハテナがダンスしているフリーの着物を握り、ずんずん奥へ進んでいく。
石畳の上を歩き、植えられている花や苔を踏んづけないよう注意する。すると首から名札を吊り下げた係の人が近づいてきた。名札といっても、香り高い木の板に旅館名と名前が彫ってあるオシャレなものだ。
「いらっしゃいませ。黄昏旅館にようこそ。見学のお方でしょうか?」
柄のない質素な着物だが、中古ではない輝きを放っている。頭から生えたねじくれた角には、係の人の瞳の色に合わせた布が巻いており、美意識とお客様をけっして傷つけないという覚悟と配慮が伺える。
一係員がこの品質なのだ。女将さんクラスになると、会話するだけで料金が発生するのではないか。など、銀座の一流のようなことを考えてしまう。
たじろいだ表情のニケが珍しく何も言わないので、フリーが一礼する。
「はい。素晴らしい中庭があると聞いてやってきました。どうか庭を見せてください」
係のヒトはくすっとほほ笑む。
「かしこまりました。ではこちらに、お名前をお願いいたします」
木の板に張り付けられた紙と筆を渡される。紙には訪れた者の名がずらっと書いてある。
ミミズがのたくったような字で名前を書き、ニケに差し出す。
「はい」
「ん」
力強い筆致で名前を書き、係の者に返す。
「書けました」
「ありがとうございます。では、黄昏の中庭をお楽しみください」
お辞儀する係のヒトに見送られ、大きな松の横を通る。
芝生が美しい中庭では、一般市民が大勢集まっている。好奇心で訪れている者や、「俺、ここの所有権者(オーナー)の友人の知り合いなんだ」と、謎の自慢を連れの女性に聞かせている者。手を繋いでほっこりと散歩を楽しんでいる老夫婦など様々。
ニケは唸りながら腕を組む。
「うむむ。建物の中を見たいのだが」
本館への立ち入りはご遠慮ください、と書いてあるため近づけない。ちらっとでも中を覗けるかなと期待していたのだが、当てが外れた。
「むむむっ。そう都合良くはいかんか」
まあ、せっかくフリーと来たんだ。あの老夫婦を見習ってのんびり散策でもするのも一興だろう。もしかしたらどこかに旅館の中が覗けるスポットがあるかもしれない。前向きに考えよう。
「よし。フリー。ひとまず池を見に行こう。鯉がいるぞ、鯉」
ルンルン気分で歩き出そうとしたニケの着物を、フリーが摘まんで引き止める。
「ん? どうした?」
見上げたフリーの顔は、真っ赤だった。
「お、おい! お前さん」
「ご、ごめん……。ちょっと気分が悪いかも」
暑さで顔は赤いのに上半分は青ざめているという奇妙な状態になっている。
くそ、油断していた。日照り病になりかけている。
(そういえばこやつ、『百合華』と『ジャバウォック』。それと荷物を取り返す時に、魔九来来(力)を使ったんだっけ)
代償である運動機能の低下と平衡感覚の乱れ。それと力を使ったことによる純粋な疲労。加えて連日の暑さ。
ニケは頭を抱えた。
(ああああっ。ここに来るまでの道でフリー、いっぱい汗かいてたっけ……! 気付くべきだった。無理やりにでもスミさんの家に戻れと言うべきだった)
フリーはしゃがむと、ニケの顔を覗き込む。
「ニケ? どうした? ニケも頭痛いか?」
そっと額に手を添えられ、地団太を踏みたい気分だった。
(僕の心配してどうすんだオアアン?)
そうだ。後悔している場合ではない。フリーを木陰に連れていかないと。
手を引いて、さっき通った大きな松の木の下に座らせる。
「ふうっ。ここなら日向よりはマシ――ん?」
地面を見ると、数匹の毛虫が蠢いていた。考えるより先に、フリーを抱えて松から遠ざかる。
「こ、この毛虫が! びっくりさせんな。誰の許可得て存在しているんだコラァ」
翁から、人は毛虫に刺されると腫れると聞いたぞ。洗濯の邪魔をするだけでなくフリーにまで危害を加えるとか、こやつらは敵だ!
毛虫に怒鳴る幼子に、さきほどの係のヒトが駆け寄ってくる。
「あ、あの苔の上は歩かないようお願いします。……どうかなさいましたか?」
ニケはぴょんと、石畳の上に戻る。
「申し訳ありません。連れが暑さにやられてしまったようで」
木陰で休息を――と続ける前に、係の女性は深刻な表情を見せた。
「い、今すぐ広間(ロビー)でお休みください。冷やすものを持ってまいりますので」
――え? 建物の中に入れる?
(って、馬鹿。そうじゃないっ)
頭を振ってフリーを抱えたまま女性についていく。
従業員専用勝手口らしき小さな戸口から入り、座る面が畳になっている椅子に座らせる。羽が地べたに着くことを嫌がる翼族用の椅子だが、今はそんなにヒトもいないしいいだろう。
すると、黒の帯に黄昏色の着物を着た女性が小走りで駆け寄ってくる。
「これ。なにをしているの。ここは予約したお客さま以外……」
係のヒトを叱ろうとしたのだろう。だが、椅子でぐったりしている青年の様子を見ると、すぐに奥へと引っ込んでいく。
その間、係のヒトはニケの容態と、こうなった経緯を詳しく聞いてきた。
二十秒もしないうちに、黄昏着物の女性――女中(接客などを担当する人)さんだろうか――が戻ってくる。
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