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第72話 屈折 あるいはブルース

 そして上梓された『凍てついた夜』。 凪は惨いいきさつを書いた。もちろん虚構だ。  それでもあのショーンを刺した事件の真相ではないか?と読者が飛びつく。  凪はもう疲れていた。書いても書いても、自分の本当の気持ちを書ききれていない。もどかしい。凪は作文が好きなのだ。文章を綴るのがこの上ない喜びだったのに・・ ーー寒くて暗い真夜中のアスファルトにワインの瓶を叩きつけて割りながら歩く。  彼の声はまるでそんな響きがする。ブルース。 彼は歌う。心の叫びを、魂の底からふり絞るように。  彼の声はブルースを歌うためにある。 彼がブルースだ。  歌詞は何でもいい。けれど、歌詞が無ければ歌えない。  言葉の一つ一つに揺さぶられて、魂は、ブルースになる。  彼は歌う事が好きだ。人前では滅多に歌わなかった。本当に歌いたいのはブルース。  ホストをやっている。生きるため。 子供の頃から、容姿をチヤホヤされて来たから、それを利用した。美少年だった。  背が伸びた。185cm。体を鍛えた。全ては、ホストとしてモテるため。つまらない人生だ。  それでも虚構の人生を演じるのは面白い。人はなぜ、愛だの、恋だの、が好きなのか?  つまらない人生に一瞬の夢を見る。 「いらっしゃいませ。」 一度名刺を渡せば、客は次から必ず指名してくれる。会員制ホストクラブのこの店は、身元の確かな太客ばかりだ。  毎週の売上でNo.が決まる。彼は入店当初からNo.を駆け上がって来た。No.3から落ちた事はない。  系列店のキャバ嬢が、みんな彼と付き合いたがる。片っ端から手を付けて捨てた。  老舗ホストクラブのこの店は、客の顔ぶれも凄い。彼女たちは、その時々で、お気に入りが変わるから、ホストは戦々恐々だ。  有名な女性実業家が多い。オーナーも不動産会社の女社長だ。

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