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第6話
「ラスティ!」
名前を呼ばれて、意味もなく心臓がドキリとした。
待ち合わせ場所にはすでに久秀が到着しており、いつも通りの笑顔を見せていた。
「すんません。お待たせしました」
「お待たせされてないよ。だって、まだ約束の十五分前じゃないか」
久秀はそう言って、腕時計を見せる。確かに彼の言うとおりに、約束の時間までまだ余裕があった。
「久秀さんを待たせたら、なに言われるかわからんやろ」
「あ、ひっどいなぁ。俺はそこまでうるさい男じゃないよ」
できるかぎり、いつも通りに振る舞おうと努めているラスティに対して、久秀はどこまでも『いつも通り』だった。
先日の告白などなかったかのように、まったく態度が変わらない。
いつも通り、久秀は気さくで面倒見がよい男だった。これまで幾度も食事をしたり、買い物をしたり、カラオケに行ったりしているのに、今回に限って、妙に久秀を意識してしまっている自分がいた。
「今日はどこ行くん?」
「そうだな。映画とかどう?」
「映画かぁ。ええな。何の映画?」
「バスケアニメの映画とかどうよ。俺、あの原作好きなんだよなぁ」
久秀と出かけるのは楽しい。だが、ふとした瞬間に心がざわつくのだ。
久秀はあの日のことを口に出そうとしない。
(――ほんまは、夢やったんかな)
久秀が告白してきたことも、キスも夢だったのではと考えてしまう。
もちろん、あれは夢ではない。それはラスティの記憶にも唇にもしっかりと刻まれたことだ。しかし、久秀の態度は変わらないのでまるで嘘のようだと感じてしまうのだ。
だからラスティは自分からそのことを話題にはしようとしなかった。口にすれば、あれがやはり現実だったのだと自覚してしまいそうで。
ただ、一緒に遊ぶのは楽しかった。映画も食事も、以前となんら変わりがない距離感。それだけで満足だった。
だから、これでいいのではないかと思っている。あの日の出来事をなかったことにとまではいかないが、このままでもいいのではないか、とラスティが思い始めた頃。
「あ」
久秀が足を止めた。なんだ、と思ってラスティも倣うように足を止める。すると、久秀がじっとこちらを見つめてきた。
それがやけに真剣な眼差しだったので、少々たじろいでしまう。
「な、なに?」
「お前さ、なんか俺に言いたいことがあるんじゃないのか?」
その瞬間、心臓が飛び上がったかと思った。
思わず声がひっくり返りそうになったが、グッと堪えてなんとか平静を保つ。だが、心臓がバクバクと大音量で鳴り響いていた。
「な、なんのこと?」
「今日ずっと俺を避けてる気がする」
確信している口調だった。ラスティが久秀を避けていることを察しているのか、と冷や汗が流れた。
しかし、なぜそう思ったのか、それを訊く勇気はなかった。もし万が一にも、どうして避けるのか、と問い質されたときのために用意しておいた言い訳を脳ミソから引っ張り出す。それでも上手く口から出てこない。
そうこうしているうちに、久秀が先に口を開いた。
「もしかして、この前の告白のせい?」
ひゅうっ、とラスティの喉から空気が押し出された。図星だった。
「ち、ちがくて……」
慌てて首を振る。その慌てふためきようこそ、そうだと言っているに等しいことはわかっているが、ラスティはなんとか話を逸らそうと言葉をつづけた。
「ちょっと……具合が悪いっていうか」
もごもごと言葉が尻すぼみになってしまう。さすがに嘘が下手すぎると思ったが、久秀はそれを信じたのか心配そうに表情を曇らせた。
「大丈夫か? いつから具合悪かった?」
そうすることが当たり前かのように、久秀はラスティの額に手を当て体温を測る。
嘘をついてしまっているのに、嘘だと気付いているはずなのに、久秀はどこまでも優しい。
「熱はないみたいだな。吐き気とかめまいはするか?」
「う、ん。へいき……」
熱はない。吐き気もめまいもあるわけがない。ただ、一つあるとすれば寝不足ぐらいだろう。前日は、余計なことをぐるぐると考えてしまって、ろくに眠れなかったのだ。
もちろん、そんなこと言えるはずもない。理由を聞かれてしまったときに、うまくごまかせる自信がないからだ。
「あの、悪いんやけど、今日は帰るわ」
お疲れ、と言ってそそくさと逃げ去ろうとすると、腕を掴まれる。
「送っていく。今のお前を一人じゃ帰せないよ」
そんな言い方をされてしまっては、嫌だと突っぱねることができるわけがない。久秀は本当にラスティを心配しているのだ。彼の善意を無下にすることはさすがに不躾だった。また、断るだけの理由も見当たらない。
ラスティはぎくしゃくと頷きながら、彼の厚意に甘えることにした。
タクシーを止めてくれて、ラスティの自宅まで同乗してくれる。その間も、寒くないかとか気分は悪くないかと気にかけてくれて、ラスティはそれが嬉しくも申し訳なくも思っていた。
自宅についてからも、久秀はあれこれ世話を焼いてくれる。
「キッチン、借りるぞ」
そう宣言されては断る理由もなくて、久秀の背中を見送っているとしばらくしてから彼が戻ってきた。その手にはマグカップが握られている。
「熱いから気をつけて」
「おおきに……」
礼を言って受けとると、温かな湯気と一緒に優しい匂いが鼻をくすぐる。はちみつ湯のようだった。
(ほんまに……なんやねん)
どこまでも優しいこの男が、どうして自分などを好きなのか不思議で仕方がない。なぜ自分にそこまで優しくしてくれるのか、それがわからなかった。
「なんで……」
「ん?」
マグカップに落としていた視線を上げて、久秀を見つめる。なぜ自分のことを好いてくれたのかが訊きたかったのだが、それはさすがに口にできなかった。
「ラスティ?」
なにか言いたいのだろうと察した久秀が首を傾げる。
「……なんでもない」
「そうか。まぁ、今日はゆっくり休んでろよ」
風邪とかじゃないなら良かったよ、と久秀は安堵したように笑った。その表情に、胸がぎゅうっと締め付けられるような感覚がする。
そんな顔、せんでもええのに、とラスティは思った。久秀が自分を心配して優しくしてくれるほど、自分は彼になにも与えていないのに、と。
本当はなにか欲しいものがあるんじゃないのだろうか。あるとするならそれはなんなのだろうか。
「じゃあ、お大事に」
そう言って玄関扉に向かう久秀の背に、ラスティはハッとした。慌てて手を伸ばす。
「あ……っ」
ガチャン、と音を立てて閉まった扉が反動で少しだけ戻ってくる。それを片手で押さえて、久秀はラスティを振り返った。
「どうした?」
驚いて目を丸めている彼に、ラスティは視線を彷徨わせながら、言葉を詰まらせた。
(どうしよう。なにか言わんと……)
お礼とか、別れの挨拶とか、なにかを言わなければと思うのだが、言葉が上手く出てこない。
うろたえるラスティを不信に思ったのか、久秀は完全に戻ってきて傍に腰を下ろす。
「やっぱ、どっか具合悪い? 今から医者行くか?」
「そ、そうやなくて……」
だからラスティは意を決して口を開いた。久秀に迷惑ばかりかけるわけにはいかないのだ。
「あ、あのさ……」
「うん?」
ようやく話す気になってくれたのかと嬉しそうに笑みをこぼしながら、久秀はそっと耳を傾けた。それに促されるように、ラスティは続けた。
「久秀さんは、その、オレのこと……好き、なんやろ」
「ああ、好きだよ」
迷うことなく久秀は頷く。そこに嘘や偽りはなさそうだ。
しかし、
「でも、なんつーか、普通やん」
「それは俺がお前みたいに意識してない、ってこと?」
久秀の指摘に、ラスティの顔がカッと赤くなる。彼には全てお見通しだったのだ。今日ずっと、ラスティが久秀を意識していたことを。
「そ、ういうわけじゃ……」
「いや。なんかお前の様子を見てたらそうなのかなって思ったんだけど」
違った? と問われてはラスティも首を振るしかなかった。実際、久秀の言うとおりなのだ。意識していないわけではないのだ。ずっとソワソワしているし、ドキドキだってずっとしている。
ただそれを悟られたくなかったというか、隠そうとしていただけなのだが久秀にはバレてしまっていたようだ。
そのいたたまれなさに顔を真っ赤に染めていると、手を引っ張られた。反射的に体勢が崩れて、久秀の胸に飛び込むような形になってしまう。
「うわっ」
ぎゅうっと強く抱きしめられる。それはほんの一瞬だった。すぐに引きはがされて、額を合わせられる。
「一応さ、俺はもう告白したわけだし、前よりもちょっと強引でもいいかなって思ってるんだけど、どう思う?」
そう問われるように見つめられては、ラスティもどうしたらいいか分からなくなってしまう。
視線を彷徨わせていると、頬を掴まれて固定されてしまった。逃げ場はないと言われているようで、息が詰まりそうになった。
普段とは違う雰囲気をまとった久秀。
怖い、と思ってしまった。
「お前が好きだ」
切羽詰まった声で囁かれ、ラスティは動揺する。顔どころか首筋まで赤くしながら視線を泳がせていると、久秀がちゅっと額に唇を落としてきた。
そして、ラスティの耳元に唇を寄せてさらに続ける。
「キスしたい。それ以上のこともしたい」
そう言って舌で耳を舐められる。それがくすぐったいような、気持ちがいいような感覚でぞくぞくした。
「お前が信じられないって言うなら、もっと分かりやすくするよ」
「……な、に」
「俺が本気だってこと。このままお前のこと抱くよ」
そう言うと、久秀はラスティの顎をすくい取った。彼の視線が肌に刺さるようで痛い。背筋がピンと張って、喉の奥がヒッと音を漏らした。呼吸が苦しい。胸がドキドキしているのがわかる。心臓が破裂してしまうかもしれないと思った。
久秀の顔が近付く。その時、ラスティは無意識に瞼を閉じた。
唇に彼の体温が重なる。柔らかくて、温かい感触に頭が真っ白になった。
(う、わ……)
キスしているという自覚にやっと至り、唇から意識が離れると今度は久秀の舌が口の中に入ってきたことに驚いてしまう。ぬるぬるした舌先が上あごを擽ってくる感覚に思わず体を仰け反らせた。反射的に離れようとするのだが、顎をとらえられた状態では逃れることができない。逆に腰を抱かれて引き寄せられてしまったので更に密着してしまった。
「んっ、んぅっ……っふ」
くらくらする。体にも力が入らない。浮遊感に襲われているような感覚だった。くちゅくちゅと湿った音が脳内に直接響いているようだった。
(き、もちいい……)
未知の感覚に身を委ねていると、ぬるりとしたものが口のなかに入ってくるのを感じた。それが彼の舌だと気が付くのに数秒かかるほど、頭が働いていないというのに、本能で反射的にそれを追いかけてしまう。
まるで親の後ろをついていく雛鳥のように久秀の舌を追い、ねだるように舌先でつついた。すると彼の舌が動き回って口の中がめちゃくちゃに犯されるような感覚に襲われる。
「んふっ……んぅっ……んんんっ」
気持ちいい。ふわふわして、気持ちがいい。思考が溶けていってなにも考えられなくなってしまうほどだ。
ちゅぷっと水音を立てて唇が離れる頃には、ラスティはすっかり腰砕けになっていた。それを抱きかかえてベッドへと運ぶ久秀はすごく頼もしく見えたのだった。
唇を押しつけ合うようなキスをしながらベッドに倒される。
「ラスティ」
掠れた久秀の声と余裕のない顔にドキリとする。夢の中で何度も見た光景だ。
当たり前のようにキスをされ、舌を入れられる。離れたかと思ったら、次は耳や首筋に口付けられる。生暖かい舌がべろりと舐め上げてきて、体が震えた。
そこで、ゴリっとナニかが当たる感覚に、ラスティは我に返り、久秀の体を突き飛ばした。
「イヤや!」
押し倒され、キスをされ、そして久秀が自分に欲情しているということを自覚した途端、怖くなってしまったのだ。
硬い感覚は、久秀の勃起したそれだった。
自分相手に性的に興奮しているさまを、夢や妄想ではなく現実として受け入れられるほど、ラスティは大人ではなかった。
嫌な沈黙だ。ラスティは久秀の顔をみることができずにいる。だから、彼がどんな表情をしているのか分からない。
時間にして数十秒ほどだろうか。長く感じられた沈黙は、久秀のため息で締めくくられた。
「……悪かった」
バクンッと心臓が跳ねる。
「謝って済むようなものじゃないよな。本当にすまなかった」
反射的に久秀を見ると、彼は頭を下げていた。
そして頭を上げた久秀の顔は、無理をして表情をつくっているような、不自然なものだった。
悲しいような、寂しいような、苦しいような今にも泣きだしてしまいそうな表情。
「こ、こっちこそ……ごめん」
小さな声で謝ったのは無意識だった。それでもちゃんと久秀の耳には届いたようで、彼は目を見開いてから小さく微笑む。その微笑みが切なくて胸が苦しくなった。
「忘れてくれ」
久秀が言う。
「俺がお前に好きだって言ったこと。もう忘れてくれ」
「なん、やの……それ」
思わず抗議の声が漏れてしまう。
「だったら、なんでキスしたん。なんで、オレで興奮してんの」
「悪かった」
もう一度、久秀は謝る。
ズキッと胸が痛んだ。じくじくと痛みが広がっていくような気がしてラスティはそっと胸を押さえる。
その痛みはなんだろうか。怪我をしているわけではないのに、なぜか痛くて苦しい。心臓が止まってしまったみたいだと思った。
「ちがう」
ラスティは首を横に振って、もう一度そう言った。違うのだ。謝ってほしいわけじゃない。そんな泣きそうな顔で、声で、体で謝られても嬉しくない。
自分がそんなことを望んでいるわけではないのはちゃんと理解しているからだ。
だからそうではないのだと伝えたかったのだがうまく言葉が出てこない。どうしていいか分からないまま、でもなにかを言わなければと焦っていると久秀が口を開いた。
「怖がらせて悪かった。もうしないから……安心しろよ」
そう言って笑ってみせる彼の姿は痛々しくて見ていられなかった。そんな顔をさせているのが自分のせいなのだと思うと胸が張り裂けそうに痛む。
「久秀さん……」
悲しませたくないと思った。そんな顔で笑わないでほしい。そう言葉にしようとしても上手く出てこない。不甲斐ない自分に腹が立つほど、心がバラバラになっているような気がした。
「ごめんな。ラスティ」
最後にそう言うと、久秀は荷物をもって部屋を出ていく。バタンッと閉まった扉がやけに寂しい。
自分の行動が原因だとは分かっているのだ。
だが、彼の好意を拒んでしまった。怖いと思ってしまった。自分などがそれに応えられるはずもないと分かっていたはずなのに、応えたいと思ってしまった。
きっともっと上手くやれる方法もあったかもしれないのに。でも、どうしてもできなかった。だから久秀にあんな顔をさせてしまったのだ。
「あ……あぁ……」
自分のせいで彼にあんな顔をさせている。そのことに強い罪悪感を覚えて、ラスティは涙をこぼした。ポロポロと落ちていく涙の粒がシーツに染みを作る。
「久秀……さんっ」
ごめん、と何度繰り返したか。届くことのない言葉を言いながら泣き続けた。
彼が居なくなった部屋。彼の温もりを失ってしまって、せっかく淹れてくれたはちみつ湯はもう冷たくなっていた。
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