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第7話
『大至急、集合!』
そんな無遠慮なメッセージに、一稀靖は思わずチッと舌打ちをした。送り主は高校時代からの女友だちで、今は靖の所属する事務所の一階でカフェを営んでいる。
彼女と仲が悪いわけでも、嫌っているわけでもない。
ただ、こういったメッセージを送ってくるときは、だいたいが共通の友人であるラスティ絡みのときである。
ラスティは明るく陽気な性格の男ではあるが、人一番繊細で、ごくまれに憂鬱をこじらせてしまうときがある。そんなときに彼が行くのが、彼女が経営している『喫茶Musa』であった。
普段であれば、仕事かなにかで悩んでいるのであろうと推測できるが、今回はきっとおそらく確実に違うと断定できる。『恋の悩み』だろう。
「あぁ、めんどくせぇなぁ」
そんな本音が口から出てしまった。話を聞いて欲しいだけならば、彼女だけで事足りるはずだ。ああ見えて聞き上手なところがある。
そんな彼女がわざわざこちらに連絡を寄越してくるとなると、よほど手に負えない状況なのだろう。
「めんどくせぇ」
もう一度同じ呟きが漏れた。大きすぎるため息とともに。
そんな靖の様子を、ハラハラとした様子で見ている男がいる。彼は東風亭京楽。若くして真打に昇進し、今やお茶の間でその名を知らない者はいないぐらい、有名な落語家だ。歳は三十五歳。髪は落語家らしからぬツーブロックで、襟足が靖の髪色と同じパープルアッシュ、耳にピアスをいくつもつけており、ワインレッドのアウターコンクもおそろいである。
京楽は靖と『そういう仲』であり、彼の出演する舞台には必ずといっていいほど、ひときわ大きなフラワースタンドを贈ることでも有名であった。
そんな二人は今日、久しぶりのオフなのでドライブに出かけようと、車を走らせているところだった。
「せっちゃん、どうした」
「すみません、京楽さん。ちょっとクソみたいな用事が入ったんで、事務所に寄ってもらえますか?」
「ええー! せっかく俺ちゃん楽しみにしてたのに!」
ハンドルを握りながら京楽は不満そうな声を上げた。
車を路肩に停めて、そのやや薄い眉を顰める。
「なに、仕事?」
「仕事じゃないですよ。どうでもいい恋愛相談です」
「え、それ一番せっちゃんに向いてないやつ」
じゃん、と言いかけたところで靖のデコピンが飛んできた。容赦ない一撃に京楽は涙目になる。
「なにすんだよぉ。せっかく覚えた噺を忘れるだろうが」
「落語家が噺を忘れたら、ただの人。アナタなんてただのバカなチャラ男でパリピですよ」
いつも辛辣な物言いだが、今日はイラついているらしく、かなり刺々しい。これは相当だなぁと、京楽は苦笑いをして靖のスマートフォンを覗き込んだ。
「そんで? 恋愛相談をしたいっつーのは、この人のこと?」
「まさか、アタシの友人ですよ。ほら、あのオレンジ頭の」
「ああ。あのやたらイケメンの」
合点がいったのか、京楽は大仰なしぐさでポンと手を打った。しかしすぐにまた眉をひそめて、分からないと首をふる。
「解せないなぁ。なんでラスティくんの恋愛相談なのにこの人が出てくんの?」
「……道すがら説明します」
だから早くと急かす靖。すでに彼のなかで京楽とのデートは、すでになかったことにされているらしい。
お互い忙しい身での、久しぶりのデート。自分たちが愛だの恋だのとは程遠い関係であるのは間違いないのだが、それでも一応はそんな仲だ。めくるめく夢のひと時を楽しみにしていた京楽からすれば、泣きたくなる事態である。
気難しい靖が身内を大事にする性格なのはよく知っている。それならば、自分も大事にしてほしいと思うが、それを言うと確実に怒られるだけでは済まないのでぐっと堪えた。
道中、靖の友人であるラスティアス・ライジェルについて話を聞かされた。
といっても、男性の先輩役者に告白されてどうしたらいいか分からないということだけだ。さすがにマスターベーションのアレコレについては靖も友人の名誉のために黙っていたが。
「脈ありだと思うんですけどね」
一通り話し終えてから、靖はポツリと呟く。
キスされても拒まなかった。夢で見るだけでなくマスターベーションの材料にしてしまうなんて、どう考えてもあの高野久秀に『そういう感情』を抱いているとしか思えない。
それをラスティは自覚していないのだからタチが悪い。あるいは自覚しているけれど、していないフリをしているのか。
どちらにせよ面倒なことに変わりはなくて。
「それで脈がなかったら怖いっつーの」
黙って聞いていた京楽も困ったように笑うしかなかった。
車を白金台まで走らせると、白い八階建ての建物が見えてくる。『OFFICE HONOR』と書かれたそれは、靖やラスティが所属する芸能事務所のビルだ。喫茶Musaはその一階にあり、現在は通りに面したウインドウにブラインドが降りている。
併設されているお客様用駐車場に車を停めて、京楽と靖はカフェに向かう。入り口には『クローズ』の看板が出ていた。
「これやってないんじゃね?」
「やってますよ」
心配する京楽をよそに、靖は勝手知ったるという風にドアを開けた。カランコロンとドアベルが鳴り、それを聞きつけた小柄な恰幅のいい女性がバタバタと走ってきた。彼女は増田三紗。ラスティと靖の友人であり、この喫茶Musaのマスターだ。
「せっちゃん! やっときてくれた!」
「急に呼んでおいてそれはないでしょう。ちゃんと埋め合わせはしてもらいますからね」
などと憎まれ口を叩いているが、先ほどまでのイラつきが嘘のように穏やかである。
「ああっ、もしかして京楽師匠! すみません、急にせっちゃんをお借りして」
「こんな人どうでもいいんですよ。それよりも、うちのバカはどこですか」
「せっちゃん……、それはないって」
靖のあまりの態度の違いに、京楽はがっくりを肩を落とした。
三紗に促されるまま、一番奥のテーブル席に歩を進める。そこには明らかにどんよりと沈んでいるラスティの背中があった。
「おら、来てやったぞ」
完全に油断しきっているその背中を、靖は容赦なくバシッと叩いた。
なんの警戒もしていなかったラスティは、ウグッと悲鳴をあげて飛び上がる。
「……あ、靖」
「あ、靖。じゃないですよ。アナタ、なにしけたツラしてるんですか」
許可も取らずラスティの正面にどっかりと腰を落ち着けた靖は、三紗に飲み物を要求した。自分と京楽の分のコーヒーを二つ、ラスティにはホットレモネードを。
テーブルの上には使用済みのティッシュ箱とおしぼりがいくつか散乱していた。
飲み物が届くまでのあいだ、靖はチラリとラスティの様子を観察する。泣いていたのか、目が赤く充血していて少し腫れぼったくなっている。くわえてもともと色白の肌も赤くなっていて、見るからに悲壮感を漂わせていた。
「ええっと、ラスティくん。久しぶりじゃん。前に高座に来てくれたよねぇ」
京楽が気を遣ったように明るく話かける。ラスティはうつむいたまま小さく「お久しぶりです」と呟いて押し黙った。
「この店ってアレなんか。事務所が管理してるカンジ? サインとかポスターとかすっげぇあんじゃん」
わあわあと騒ぎ立てながら、興味深そうに店内を見渡す京楽。しかし、それもラスティはもちろん靖もノッてこないのだからむなしいものになる。
人を話でひきつけてこその落語家だ。しかし、今日の『高座』は真冬のシベリアのように冷え切っている。
落語家としてのプライドが傷つき泣きそうになっていると、膝の上にあたたかくて柔らかいものがトンと乗った。黒猫である。
「あ、ムサ!」
アカンでしょ、と三紗が窘める。ムサと呼ばれた黒猫は、それをすっぱり無視して、膝の上で丸くなった。
「すみません、うちの飼い猫です」
出来上がった飲み物を三人の前において、三紗はムサを京楽から遠ざけた。ムサはこのカフェの名前の由来になった雄の黒猫だ。年齢は十二歳と、人間でいえば六十代のおじさんである。
「ああ、看板猫なんだね」
猫に助けれらた、と顔にでかでかと書いている京楽が、また別の意味で泣きそうになっている。
そんな京楽をよそに靖は黙ってラスティを見ている。
「とりあえず、飲んだらどうですか」
「……うん」
乱暴に靖に促され、ラスティはホットレモネードを一口すする。レモンとハチミツの優しい味に、少しだけ心がほぐれたような気がした。
「ほかならぬマスターの頼みで、しかたなくデートを切り上げてきたんですけど」
「うん、ごめん」
「別にそういうのはいいんで、なにがあったのか話してくれます?」
トントンとテーブルを指で叩く靖に、京楽は素直じゃないなとこっそり苦笑する。
心配しているのなら、もっと優しい言い方をすればいいのにと思うが、そういうところが実に靖らしいと言える。
ラスティもそれを分かっているのか、もう一口レモネードを飲んで、舌で唇を舐めてから訥々と話し始めた。
久秀に告白されてから、気持ちの整理がつかないまま一緒に映画を見に行った。でも、久秀は告白なんてなかったかのように振舞っていた。気にしているのは自分だけ。きっと、彼からすればキスも告白も大したことはないのだろう。
それを思うと胸が苦しくなった。
具合が悪いという嘘に気付いていても久秀は優しくて、家まで付き添ってくれたという。
そのまま、優しさに甘えていればよかったのに、つい口に出してしまった。
どうして普通にしているのか、と。
そこから久秀に迫られてしまった。キスされてベッドに押し倒されて、自分に欲情しているさまを見せつけられた。
怖くなったのだ。『優しい久秀さん』ではない久秀を知ってしまって。
そして、拒んでしまった。傷付けてしまった。
「嫌われたかもしれへん」
久秀はなにも悪くないのに、謝らせてしまった、とラスティはぽつんと呟いた。
じとっとした沈黙が訪れる。
「……誰に嫌われたかもしれないんですか」
その沈黙を最初に破ったのは、靖の低い声だった。
「だから、久秀さん……」
「その久秀さんはどの久秀さんなんです? アナタの敬愛する高野久秀さんのことですか? それともアナタが恋慕している高野久秀さんですか?」
靖の言葉にラスティは絶句する。じわりと空色の瞳が揺れた。
「靖……」
たまらず京楽が窘める。さすがに追い詰めすぎだ。いくら高校以来の親友同士であっても、言っていいことと悪いことぐらいある。
「尊敬という感情なら、キスだって拒めたでしょう。なんで拒まなかったんですか? ましてや、オナニーのおかずにするなんて。それが性愛という感情じゃなかったらなんだっていうんですか」
「靖!」
バンッとテーブルを京楽は叩く。とんでもない言葉が聞こえた気がしたが、それにツッコミをいれるよりも、靖の無遠慮さを咎める必要があった。
しかし、そんな京楽の気持ちを知っていてもなお、靖は冷たい視線を送るだけで謝る様子すらない。それどころか、ますますラスティを追い詰めるような言葉を重ねる。
「ねぇ、本当は期待したんじゃないですか? 夢みたいに高野さんに抱かれるの」
「お前さぁ、いい加減にしろよ!」
京楽が怒鳴る。
「いろいろ気になるところはあるけどよ、お前、さすがに言い過ぎじゃねぇの。配慮が足りなすぎるわ」
この場にいる最年長者として、力づくでも止める必要があった。靖の胸倉を掴んで凄んでみせる。
「お前ごときが偉そうに、愛とか恋とか言えた立場か?」
京楽の言葉に、靖は顔を不快そうに歪める。そして、彼の手を振り払いトイレに行くと言って、押しのけた。
靖がトイレに入ったのを見計らって、京楽がラスティに声をかける。
「ごめん。せっちゃん、なんか機嫌悪いみたいだわ。あとで厳しく言っとくから、許してちょんまげ」
ジョークを交えてそう謝ると、ラスティはうつむいたまま緩く首を振った。
グズッと鼻を啜る彼に、三紗が追加のおしぼりを持ってくる。
「せっちゃんはねぇ、悪いヤツじゃないんだけど。ちょっと言い方キツイことあるよねぇ」
苦笑いを浮かべて三紗はラスティの隣に座った。ムサもついてきて、ぴょんとテーブルの上に乗るとラスティに擦り寄る。
「だいじょうぶかー、だって」
「……おおきに」
小さな友人からの気遣いに、ラスティは少しだけ嬉しそうに頬を緩めると、その柔らかな毛並みに顔を埋めた。
「さて、せっちゃんはトイレ長いし。鬼の居ぬ間にいろいろお話しよう」
トイレにまで聞こえるような声で京楽が言う。落語で鍛えた発声をこんなところで使うことになろうとは。おそらくトイレの中では、靖が盛大に舌打ちをしていることだろう。
「それで、ええっと、結局ラスティくんはその高野さんとやらのことが好きなの?」
京楽は優しい声で問う。問い詰めるのではなく、あくまで世間話をするかのような気楽さで。
その気楽さに救われたのか、ラスティは少しぬるくなったホットレモネードを一口飲むと、俯いたまま首を縦に振った。
「それは……その、そういう感情として?」
今度は首を縦にも横にも振らなかった。
「……そっか。まぁ、そういうこともあるさな」
京楽は頷いてコーヒーを飲もうとして、中身がないことに気が付いた。靖がラスティを糾弾しているあいだに飲んでしまったらしい。
「あ、おかわりご用意しますね」
三紗はすぐに立ち上がり、キッチンに向かった。
あとに残った京楽とラスティは黙ったまま、テーブルの上でぐねぐねと体をくねらせるムサを見ていた。
「京楽さんは、靖のこと好きなんですか?」
ラスティがおもむろに質問をする。その問いに京楽は難しそうに腕を組んだ。
「どうだろ。嫌いじゃあないと思うし、好きかと言われたら、好きな気もする」
しかし、恋愛感情かと問われれば、ハッキリとは分からない。
「せっちゃんだって、俺ちゃんに恋とかしないでしょ」
それはお互い様だから。と京楽は笑って答えた。
「俺らはね、利害が一致してるだけだから。ガチでお互いが好きで一緒にいるわけじゃねぇのよ」
愛や恋、そういう感情ではない。いわゆる、性欲処理と芸の肥やしというものに近い。けれど、その関係が居心地いいのでズルズルと続いている。
京楽が靖を選んだのも、喜慈猫亭での出会いがあったからこそ。お互い趣味が合い、気があった。
そして男性同士ということもあり、肉体関係があったとしても妊娠の心配もない。そういう後腐れのない距離感が、楽でいいのだ。
「まぁ、俺ちゃんとしては、もっと踏み込んだ関係になりたいと思ってる」
京楽の言葉に、ラスティは顔を上げた。
「あのじゃじゃ馬の手綱を握れるのって俺ちゃんぐらいだし。それに、俺ちゃん以外のヤツに甘えてるのなんて、癪に障るじゃん」
いつの間にか運ばれていたコーヒーのお代わりを啜って、京楽は優しく微笑む。
「今の関係より先に進みたい。自分だけのものにしたいっつー高野さんの気持ち、俺はよく分かるなぁ。もちろん、ラスティくんの気持ちもわかる。今の関係が壊れるのもイヤだよなぁ」
でも、と京楽は言葉を続ける。
「もし、その人がラスティくんのことを本気で好きだと思ってて、それに応えたいって思ってんなら、応えちゃえばいいんじゃねぇかな」
ラスティの空色の瞳が揺れる。戸惑いと、不安。でも、だけど、という言葉が、ラスティの頭の中を駆け巡る。
「もちろん、簡単じゃねぇと思う。そんだけ思い詰めてるってことは、よっぽど気持ちに整理ついてないんだろうし。でも、想いに応えてもらえたらきっと高野さんも幸せになれると俺ちゃんは思う」
京楽が言うとラスティは頷いた。
黙ったままテーブルの上のムサを腕に抱き寄せると、頭をそっと撫でる。小さな黒猫は甘えたような鳴き声をひとつ上げると、気持ちよさそうに目を細めた。
「ま、悩むこったな。恋なんて落ちたら負けなんだし。俺ちゃんから言えるのは、後悔だけはぜってぇしたらダメ」
そう真面目な顔で言ってから、京楽はおどけるようにニカッと笑った。
「以上、京楽師匠の恋愛講座でした! ってな」
「なぁにが、恋愛相談ですか」
話が終わったのを見計らったタイミングで、靖がトイレから帰ってくる。あんなに悪かった機嫌はマシになったようで、すっかりいつもの靖に戻っていた。
そして、ラスティの隣に座って背中をポンッと叩く。
「ま、アナタが意外とうぶ思考なのはよく分かりました。言いすぎたことは謝りますけど、一度落ち着いて自分の気持ちについて考えたほうがいいですよ」
「うん。そうやな」
ラスティは鼻を啜って頷いた。
この感情は恋慕なのか敬愛なのか。今は分からない。
靖の言う通りに、久秀からのアプローチを拒むことはできたはずだ。
しかし、それをしなかった。
その理由も今の自分には理解できないが、いずれわかるときがくるのかもしれない。
ラスティはもう一度小さく頷いて、三紗が新たに入れてくれたあたたかいホットレモネードを飲んだのだった。
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