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第8話

 愉快なことになっているな、と虎雄は思った。  普段は飄々としていてあまり裏が見えない、高野久秀が面白いぐらいに凹んでいるのだから、これを愉快と思わずになんとする。  本人には申し訳ないが、常と今のギャップに笑ってしまいそうになるのをなんとか堪えて、つとめて神妙な顔を作った。 「高野、お前はバカだよ」 「……おっしゃる通りです」 「無理強いとか迷惑かけたらダメって言っただろ」 「返す言葉もございません」  百八十五センチの大きな体を小さくして頭を下げる久秀に、虎雄はついに苦笑いを浮かべてしまった。  久秀から連絡をもらったのは数日前のこと。  飲みに行きませんか、との誘いを受けた虎雄は、芝居と並行している小説の仕事も一段落していたので、二つ返事で了承した。  久秀がセレクトしたのは銀座にあるバーだ。カウンター席とバーには珍しく個室のある静かな店で、いかにも久秀の好きそうな雰囲気だ。  虎雄としてはカウンター席でもよかったのだが、迷わず久秀が個室を選択したので、ああこれはなにかあるなと察する。  さしずめ『仔猫ちゃん』のことだろう。あれから何か進展があったのかもしれない。  少し楽しみにしながら、それぞれ酒を注文し軽く乾杯をする。 「それで、ラスティとはどうなのよ」  マティーニをちびちびやりながら、虎雄がそう促す。聞かされるのは惚気かはたまた違う何かか。  果たして久秀の口から飛び出たのは、残念ながら後者のほうであった。 「嫌われたかもしれない」 「……ん?」  ぼつりと呟かれた言葉に、虎雄は目を瞬かせる。 「なんだって?」 「だから、ラスティに嫌われたかもしれない」  頭を抱えて呻く久秀は、ついには突っ伏してしまった。普段ならそんな醜態を晒すことは決してしないはずの男が、である。よほど落ち込んでいるらしい。  そんな久秀の様子に虎雄はさらなる困惑を重ねたが、すぐに持ち前の聡明さを発揮した。おそらく事情があるのだろうと判断して、詳しく問うことにする。 「嫌いって言われたのか?」 「いや……。いや、そうかもしれない」 「どっちだよ」  要領を得ない久秀に虎雄は首を傾げた。 「ちょっと、逸り過ぎたというか」  そこから久秀は何があったのか正直に打ち明けた。ラスティとデートをしたこと。彼が具合悪いというので家まで送ったこと。告白なんてなかったかのように振る舞われたというラスティに迫ったこと。そして、拒絶されたこと。  虎雄は彼からの告白に、やっぱりな、とにやけそうになる頬を内側から噛んだ。  そもそも、だ。  こちらが気を利かせて、相談に乗る応援するといった時点で、あのような独占欲をみせてきたのだから、おとなしくしているわけがない。  長年の付き合いで、この高野久秀という男の性格はよく分かっている。温厚で優しく面倒見がいいが、その内面は意外と熱い男だ。芝居にかけてもそうであるし、きっと恋愛に対してもそうなのだろう。 「馬鹿だなぁ」  はは、と虎雄は笑う。久秀はくしゃりと顔を歪めた。 「虎雄さん」 「いや、すまんすまん。高野があまりにもバカだからつい」  虎雄は、軽い調子で笑ったことを謝罪する。それから腕を組んでうぅんと唸る仕草をした。 「まぁでも……だいぶきっついことしちゃったなぁ」  素直にそう告げると、久秀は唇を噛んだ。いじけている様子にまた笑いそうになるのを堪えて話を続ける。 「そのー、なんだ。それでも好きなんだろ、ラスティのこと」  虎雄の質問に久秀は答えなかったが、それが何よりの答えだった。 「好きです。誰にも渡したくない」 「でもラスティの気持ちは?」 「アイツも俺こと憎からず思ってるはずなんです」 「すっごい自信だなぁ」  どこからその確信が湧いてくるのか、虎雄は不思議で仕方なかった。  確かに、出会った当初に比べればだいぶ良好な関係は築けている。とはいえ、それはあくまでも仲間や友人としてであり、恋愛的な『好き』ではないのではないか。  虎雄はそう思っていたが、どうやら久秀のほうは違うらしい。  ラスティは自分に少なからず好意を持ってくれていると、確信しているらしい。その根拠はなんだと言うのだろう。 「なんの確証があってそんなことが言えるの?」 「アイツが俺に惚れてるのはもう分かってるんです」  虎雄は、はぁ? と声を上げた。一瞬聞き間違えたのかと思ったが、久秀は力強く頷いた。間違いないという様子だ。 「どこでそんな自信がついたのか知らないけど、それは高野の勘違いじゃない?」 「絶対です」  キッパリ言いきる久秀に虎雄は苦笑いをした。『絶対』とは随分と大げさな言葉が出てきたものだ。  確かにラスティが彼のことを憎からず思っている節はあるかもしれないが、それだって友人の域を出ないものだろう。 「絶対、とは言い切れないだろ」  虎雄がそう言うと、久秀は顔を上げてじっとこちらを見つめてきた。色素の薄い茶色の瞳が強い意志をもってこちらを見るので、虎雄はドキリとする。  その真剣な様子に一瞬息が止まったのだ。虎雄はそんな自分に気づかないふりをして続ける。 「いいか? 高野のそれは単なる独占欲だ。好きな相手を自分だけのものにしたいっていう子供の独占欲と一緒なんだよ」 「俺はラスティを誰にも渡したくない」 「相手が嫌がってるのに、強引に迫ってダメになったケースなんてよくあることだろ。今回の場合は高野の好意がバレてるわけだから、そりゃ相手だって抵抗するに決まってる」  虎雄の言葉に久秀はグッと押し黙る。確かにそれはその通りだと思うし、だからこそ先ほどの拒絶の態度も納得できるものだった。 「でも」  久秀はグイっと酒を煽って否定した。 「俺はアイツをずっと見てました。アイツほどわかりやすいやつはいない」 「それが根拠だって? じゃあ、いつからラスティがお前に惚れてたって気付いた?」 「ロミオとジュリエットのあとぐらいですね」  こちらも自信満々に言うものだから、虎雄はどんな顔をしていいか分からない。過去に共演したことがあるとはいえ、ここまでラスティとは親密ではなかった。  芝居以外の話題は出なかったし、彼の嗜好やプライベートのことはさっぱり分からなかった。  もちろん、そんな状態で惚れているだのなんだのを、見極められるほどの器量は持ち合わせていない。  それなのに久秀は断言している。惚れた腫れたに関しては勘で言っているのか、などと虎雄は思ったが、いくら何でもそうではないはずだ。根拠なくここまで言い切るとは思えないからだ。 「あの子のどこがそんなに好きなんだよ」 「例えば目ですね」  そう答えるとまたグイっと酒を煽った。急にアルコール度数の強い酒を入れたためか、一瞬喉を焼くような感覚に襲われたが、久秀は意に介した様子もなく話を続けた。 「アイツの目がいい。純粋でまっすぐな目だ。演技してるのも好きだけど、素の状態で輝く目はもっと美しい」  虎雄は、じっと真剣に語る久秀の顔を眺めた。酒の力もあってか熱っぽい視線でラスティを語る久秀の様子から目が離せなかった。 「声も好きだな。あのちょっと高めの張りのある声はよく届くんだ。役者としてまさに理想的ですよ」  久秀の目は真剣で、何ものにも揺るがない強さがあった。 「それはいいだけどさ、高野」 虎雄はあえて冷たく突き放すように言った。それに久秀は不服そうな顔をしたが、虎雄はあえてそれを無視した。 「お前さ、ラスティが好きなんだよな?」  核心に迫ると、久秀は一瞬驚いたように目を見開いた。そして視線をそらして軽く目をつぶる。自分の中の意思を確かめるように一呼吸置いたあと目を開き静かに口を開く。 「……はい」  静かな空間のなかにあっても聞き逃してしまいそうな小さな声だ。それほど押し殺した声だった。 「お前のその好きっていうのは、役者としてのラスティに向けたものか? それとも、ただのラスティに向けたものか?」  虎雄の問いかけに久秀はきゅっと唇を引き結んだ。それからしばらく考え込むような間をあけたあと、口を開いた。 「両方です」  答えるまでに長い時間を要したくせに、答えは簡潔だ。彼はもっとじっくり考えたいというような空気を滲ませてはいたが、決して考えることが嫌なわけではないのだろうと虎雄は察した。  恐らく好きの方向性を考えて答えを出そうとするほど、すでに意識はラスティに向かっているのだろう。 「じゃあ、お前が脈ありだというラスティはどうだと思う?」 「えっ」  虎雄からの質問に、今度はすぐ反応を示した。分かりやすく目を泳がせたあと、更に答えを詰まらせる。  その行動がすでに答えだなと虎雄は感じた。そんな虎雄の心情など気づかないまま、久秀は視線を彷徨わせた後うつむいた。 「俺には、分かりません」  うなだれるように下を向きながら答えたその姿は、なんとも哀れで胸が詰まるようだった。  恋は人を愚かにするというがまさにそれだ。ましてやこの高野久秀がその例から漏れずとなると、虎雄は複雑な心境になった。 「ただ、アイツに俺以外の好きな相手がいるのは嫌です」  言ってから恥ずかしくなったのか、久秀は酒を煽った。けれどその顔は真っ赤なので、それが酔いによるものなのか恥じらいによるものかがいまいち判断できなかった。  虎雄は静かに息を吐いて腕を組んだ。それから人差し指でテーブルをトントンと軽く叩く。何かを考えるときの彼の癖だった。 「高野はさ、ラスティがキスを拒まなかったって言ったけど、拒めなかった、とは考えなかったのか?」 「どういうことですか」  久秀は眉間にしわを寄せた。明らかに機嫌を損ねた様子だ。しかし、虎雄はそれも気にせず話を続けた。 「どうもこうも、簡単なことだ。お前が芸事の世界では先輩だし、年上だからだ。自分の立場を考えたら拒めるか?」 「それは……」  虎雄の指摘に久秀は押し黙った。自分でもその可能性には気づいているのだろうが、認めたくないのだろう。尊敬する相手だから、抵抗も拒絶もラスティはしなかった。そう虎雄は言いたいらしい。  そんな久秀を見て虎雄は腕を組んだまま、軽くうつむく。それから顎を上げて彼の方を見た。 「最初のキスはまぁ……酔った勢いって言い訳できるけど、二度目のそれは言い訳できないだろ。お前が無理矢理したにすぎない」  虎雄の言葉に久秀は唇を噛んだ。確かに無理強いをしたことは事実だ。しかし、ラスティも満更ではなかったのではないかというのが彼の本音だった。 「俺なら拒否るね」  それを見透かされたのか、虎雄はハッキリと言い切った。その視線の強さに思わず息を飲むほど力強いものだった。 「別に俺は、高野を責めたいわけじゃないんだ。ただ、お前が思ってるような恋愛がすべてじゃないってこと」  優しく諭すような物言いだったが、それは久秀の心をさらに抉る。虎雄の言葉は正しかったが、だからこそ更に胸を締め付けた。 「なぁ、高野」  呼びかけられて久秀は顔を上げた。虎雄はいつもの柔らかな表情をしていた。しかしその中にほんの少し寂しさが見えたような気がして、胸が締め付けられるようだった。 「人を好きになるってことは素敵なことだと思うよ。それがたとえ叶わない恋でもさ」  虎雄の静かな声に、久秀は何も言えずに押し黙った。恋愛のすべてがうまくいかないとは限らないと分かっていても、自分の立場ではラスティを幸せにしてやれないという現実が苦しかったのだ。  一方、虎雄は視線を少し遠くして、考えるように呟いた。 「でもな」  そう言った虎雄はいつの間にか正面に久秀を見据えていた。先ほどと打って変わって真剣な表情で口を開いた。 「その想いのせいで、相手を傷付けることはあっちゃいけないと思うぜ?」  いつも柔和に笑っている彼にしては珍しい鋭い眼差しだった。 「さんざん振り回しておいて、忘れてくれは悪手だったなぁ」 「そうかもしれないです」  無理矢理キスをして押し倒しておいて、忘れてくれというのは冷静になってみるとおかしかった。  ラスティを傷付けないように振る舞ったつもりだったが、結果的に傷付けてしまった。 「やっちまったなぁ」  ころんと弱音が転がり落ちた。思いのほか情けない声色になってしまって自分でも驚いた。  虎雄は久秀の意外な言葉に驚いて目を見開いたが、すぐに目を細めて笑顔を作った。先ほどの鋭い眼差しとはうって変わって柔らかい微笑だった。 「でもな」  その表情に安堵しつつ虎雄は続けた。ラスティもどうかと思うが、この男も大概不器用であると感じながら言葉を続ける。 「さっきも言ったけど、人を好きになるってことは素敵なことだと思うよ」 「……そうですかね?」 「あぁ」  虎雄は頷いてポンと肩を叩く。 「だからさ、お前も冷静になって考えてみて、それでも好きだ、っていう気持ちがあるなら、また告白してみたら? 焦らないで真摯な気持ちを伝えたらいい」 「フラれるの怖いんですけど」  とうとう本音を口にした久秀に、虎雄は声をたてて笑った。 「そんときは朝までヤケ酒に付き合ってやる」 「フラれること前提ですか」 「少なくとも、今のお前に勝算はないな!」  慰めるどころか、すっぱりと言い切られてしまい、久秀は苦笑いを浮かべることしかできなかった。  これまで久秀は、恋愛というものに苦労はしてこなかった。黙っていても誰かが寄ってくるし、ワンナイトの相手もいればそこそこに続いた相手もいた。  別れるときも後腐れはなかった。最後に付き合った相手は別れを渋っていたが、それでもうまく縁を切った。  恋愛なんてたやすいこと。そう思っていた。  しかし、ラスティと出会ったことでその価値観は崩れ去った。  無条件にこちらを慕ってくる無邪気さ、周りの目に応えようとするひたむきさ。どこまでも真面目で一生懸命。憂鬱に負けそうになっても立ち上がってくる、その意志の強さに惹かれたのだ。  守ってあげたい。支えてあげたい。見守ってあげたい。庇護欲はやがて独占欲となり、焦るあまりにあのような行動をとったのだ。  今思えば恥ずべきことであるし、嫌われても仕方がないことだ。  一時はそう思おうとしたが、日が経つにつれて怖くなった。  ラスティが「久秀さん」と名前を呼んでくれなくなることが怖いのだ。  今の自分は冷静ではない。その自覚はある。  虎雄のいうように、少し距離を置いて冷静になってみれば、なにか変わるのかもしれない。  そんな胸を焦がすような感情が、久秀のなかで渦巻く。  それを知ってか知らずか、虎雄はバーテンダーに強めの酒を二つ注文すると、一つを久秀の前に置いた。 「とりあえず、今日は飲もう。恋に恋するうぶな高野のために、俺が奢ってやる」 「ありがとう」  グラスを掲げ合ってから、グッと酒を煽った。  熱い液体が、喉の奥に流れる。そしてそれは、心の奥底にあるドロドロとした部分に落ちた。

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