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第9話
「おはよう、今回はよろしくね」
「……はい」
普段通りに見える久秀に声をかけられ、ラスティはギクシャクと頷く。
しかし、朝の挨拶を交わしたものの久秀はそれ以上の言葉を発さないので、ラスティは所在なく視線をキョロキョロさせた。
そんな彼に苦笑いを浮かべながら、久秀は口を開いた。
「共演は久しぶりだよな。また一緒にできて嬉しいよ」
久秀にそう言われ、ラスティはなぜか胸が締め付けられる思いがした。そのせいなのか「はい」と返す声が掠れてしまった。
しかし、久秀は特に気にしたわけでもなく頷くと、手に持っていた台本に目を通す。
「俺たち恋人役なんだって。なんというか……ラスティ、これは仕事なんだからちゃんと割り切れよ」
「そんなことわかっとるわ」
まるで台本に書いてあることを読み上げたような、久秀の物言いにラスティは辟易した。そんな自分の態度に気づいたのか、久秀は気まずそうに頬を掻く。
「なんだ、怒ってるのか?」
「怒ってへん……」
ラスティが唇を尖らせると、久秀は参ったな、と小さく呟き困ったように笑った。
そして本読みの時間まで各々自由に過ごすこととなり、会話は途切れた。
久秀は台本に軽く目を落とすだけで、そのまま黙り込む。二人の間に静寂が横たわり、空間を居心地の悪いものにした。
絡みのある役なので当然、席は隣同士だ。以前なら、この時間で軽くセリフの読み合わせだったり、作品のことを話したりしていたが、今はそれが出来る雰囲気でもない。
あの後から今日に至るまで一度も連絡をとっていない。お互い仕事で忙しかったというのもある。これまでもそういったことは珍しくなかったし、気が向いたときに連絡をするということもあった。
しかし、今回の舞台共演は、いままでと状況が違うとラスティは感じていた。
共演する直前には必ず連絡を取り合っていたのに、ラスティからも久秀からもしなかった。
なんとなく、連絡しづらかったのだ。あんなことがあった後で、どんな顔で話をすればいいかわからなかった。
本読みが始まると少しは気がまぎれたが、いつもの調子が出てこない。
今回の舞台は男女問わず、同性カップルの出てくるミュージカル作品である。多様性を叫ばれている昨今に、そういったことを題材にした作品は珍しく、また演劇界でも人気の俳優たちを使っていることもあり、世間でも注目の的となっている。
ミュージカルでありながら、派手なアクションもあり、アクション指導に特撮ヒーロー界でも有名なスーツアクターの高倉惣三を招いているので、そちら方面からの期待の声も熱い。
久秀とラスティはそんな作品の中でも、歳の差同性カップルの役である。お互い両想いであるが、年齢差を理由にすれ違ってしまうのだ。
ベタな設定ではあるが、久秀もラスティも今までそういった役どころを演じたことはなかったので、今回の共演をスケジュールが決まったときから楽しみにしていた。ラブシーンもあるようなので、役者としてまた一つ成長できるのでは、と心待ちにしていたのである。
と、以前までならそう思っていた。しかし、今は、その設定が重荷でしかない。好きだと想いを告げられ、キスをされた。
そして、それをなかったことにしてくれと頼まれた。
このままでは久秀だけでなく、作品に対しても真摯な態度ではいられないし、他の演者にも申し訳ないと思っていた。だから距離を置こうと考えたのだ。
そんな気持ちを知ってか知らずか、本読みが終わり喫煙室に向かおうとした時、久秀から声をかけられた。
「なぁラスティ」
その声にラスティの体は鉛のように動かなくなる。彼はそのまま言葉を続けた。こちらをまっすぐ見据えたその視線の強さに、瞬きすら出来なくなる。
逃げ出したいのに、その場から足が縫い付けられたように動けない。
「お前さ、ちゃんとしてくれよ」
そう淡々とした口調で久秀は言い捨てた。
表情はなく、ただただ感情がこもっていない言葉だった。
「は?」
その一言にラスティはショックを受けて立ち尽くしたが、久秀はそれ以上何も言わずにその場を去っていった。
ちゃんとするってなんだ。そもそもなんで、そんなことを言われなければならないんだ。言いたいことはたくさんあるはずなのに、何も言葉が出なかった。
それから、立ち稽古が始まってからも、ラスティはどこか気もそぞろだった。セリフや歌はすでに頭に入っているので、なんら問題はなかった。動きも覚えるのは得意なので苦労はしなかった。
高倉のハードなアクションを体に覚えこませるのに多少苦労ははしたが、教え方が上手いということもあり、すぐに体に叩き込むことができた。
しかし、それも久秀と絡んでいなければ、の話である。
セリフや動きでトチることはない。『気持ち』が入らないのである。
それが致命的なミスに繋がることはないが、気持ちが入っていないセリフや動きはなんとなく相手をがっかりさせてしまう。
舞台の上で気がそぞろになってはいけないのに、ラスティは自分の行いを恥じた。こんな自分が腹立たしくて、不甲斐なくて嫌になる。
いつもならこんなとき、真っ先に久秀に相談をする。情けない話ではあるが、ラスティは無意識に彼にすがっていたことを痛感した。
彼ならきっと大丈夫なように道を示してくれる。そんな無責任にも程がある思い込みをしていたのだろう。しかし、いま彼は隣にいない。
どうすれば正解なのかわからず、思考のループに陥りそうになるが、何とか押し留めて体を動かした。こんなときこそ稽古に打ち込むしかない。そしてそれを実践していかなければ先はないのだから。
気もそぞろ、という意味では久秀も同じであった。さすがにラスティほど露骨ではないが、うまく気持ちを入れることができない。公私混同するほど未熟ではない自負はある。しかし、以前までなら、役の解像度を高めるために、始終一緒にいたり飲みに行ったりしていたが、今回はそれがない。
ラスティがこの芝居で思い悩んでいることにも気付いているが、なんとなく声をかけにくく感じてしまっている。
仕事だから割り切ってくれだの、ちゃんとしてくれだの言ったが、自分が一番割り切れていないな、と久秀は自嘲する。
正直なところ、久秀自身も今回の仕事に関してどういうスタンスで臨めばいいのかわからないし、割り切れていないのは明白だった。
彼を好ましく思っているのは事実だ。そして彼に恋をしていたのも事実である。しかし、もうこの気持ちのまま仕事に臨むのは、ラスティに迷惑がかかってしまう。
どうやったら諦められるだろうかと考えて、結局答えは出なかった。そもそも誰かを好きになった経験はあれど、ここまで拗らせたのは初めてであるから仕方がない。
こんな状態だからこそ、何とかしなければと思うものの、以前までどうやってラスティに接していたのか忘れてしまったようだ。
もちろんそれは相手も同じで、これまでの距離感が分からず戸惑っているようだった。
しかし、これは『仕事』だ。お互いにどう思っていようが、受けてしまったものは最後までやり通さなくてはならない。なぜならば、自分たちはプロだから。
プロだからこそ、いまのままではいけないと久秀は常々考えていた。
ラスティもそうだが、自分もこのままではよくない。仕事に集中しないと足元をすくわれてしまう。それだけは避けたかったし、そうならなければいけないと思った。
だから久秀は意を決して、ラスティに声をかけた。
「ラスティ」
声をかけられて驚いたのか、ラスティの肩が小さく跳ねる。そしてそのまま体が固まってしまったようだ。視線だけがこちらを捉えるも言葉を発しない様子に、久秀は小さくため息をついた。
「頼むからしっかりしてくれよ」
直球で、はっきりと言い放った。遠回しに言って通じる相手ではないし、自分が悪いのだから仕方がないと思いつつも、彼を困らせていることに少なからず胸が痛んだが仕方がない。
「は?」
返ってきた言葉は震えている。明らかに怒りを含んだ声色だった。普段は決して聞くことのない棘のある物言いにたじろいでしまいそうになるが、ぐっとこらえて久秀は続けた。
「ちゃんと仕事に集中してくれ」
「集中しとるし!」
ラスティはすぐさま噛み付いてきた。それはそうだろう。ちゃんと仕事をしているからこそ、稽古中の動きに納得がいかないのだ。しかし、久秀は彼のその言葉を否定するように首を振った。
「してない」
「せやから、しとるって!!」
「してないだろ。お前、役に入り込めてないじゃないか!」
今度は語気が強まるが、久秀は再び首を振って彼の訴えを一蹴する。
突然の怒鳴り合いに、稽古場の空気が凍る。なにがあったのかと二人の様子を伺う役者たちの視線を感じるが、久秀はあえてそちらに向き直らなかった。
ラスティはというと、何も言い返せないのかぐっと息を飲んだようだ。しかし、それを認めたくないのか久秀から視線をそらし、そのままふいと横を向いた。そして小馬鹿にするように小さく鼻を鳴らした。
「そんくらいわかっとるわ」
そう言い放つラスティに、久秀の中で何かが弾けた気がした。それを制御しようという気持ちは微塵もない。気づいたときには彼に詰め寄ってその胸ぐらを掴んでいた。
「だったらちゃんとしろよ!!」
「そういうアンタもちゃんとしたらどないやねん!」
二人の怒声が稽古場に響き渡る。そのまま殴り合いの喧嘩にでもなりそうな勢いに、周りの役者たちがどよめく。
ラスティは久秀の手首を強く掴み、相手の顔を睨み上げた。負けじと久秀も睨みつけるながら、掴んだ手に力を込めた。そして互いに一歩も引かないと言わんばかりの睨み合いが続く。
そんな様子を目の当たりにして、周りの役者たちはただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
「はい、そこまで」
パンッと手を叩く音ともに声がかかった。一触即発状態の二人も、その声の方を見る。そこには演出家の姿があった。
「なんで喧嘩してるかは知らないけど、とりあえず一回止めよう」
そう声をかけられ、久秀は掴んでいた手を離す。ラスティはやり場のなくなった手をぐっと握りしめたが、そのまま力なくだらんとおろした。
演出家は彼らのもとに歩み寄ると、間に割って入り両者の顔を交互に見つめた。
「で、何があったの?」
そう演出家に尋ねられた久秀はバツが悪そうに眉間にシワを寄せる。そして彼の目を真っ直ぐ見据えると口を開いた。
「こいつが芝居に集中してないから」
その声にラスティは弾かれたように顔を上げた。しかし、久秀と目が合うとすぐに反らしてしまう。そんな二人の様子を見ていた演出家は、小さくため息をつくと頭を掻きながら困ったように笑った。
「とりあえず、一旦休憩入れようか」
演出家の言葉に役者たちは散り散りになる。役者同士が互いに集まり、久秀とラスティの様子を伺ってはいるが、なかなかこの場が動こうとしない。
しかし、演出家はそんな周りの空気などお構い無しに、彼らの肩をポンと叩いた。
「はい解散!」
彼は手をパンパンと叩きながらそう言い放つと、踵を返し稽古場から出ていってしまった。
二人してその姿を目で追うが、ハッとしてお互いそっぽを向く。とてもではないが居心地がいいとは言えなかった。
「まぁ、喧嘩するほど仲が良いって言うし……」
そんな声が外から聞こえてきたが、二人はそれを聞こえなかったふりをした。しかし、その言葉は二人の心に深く突き刺さったまま、しばらくのあいだ、抜けることはなかった。
それから稽古が終わるまで二人が言葉を交わすことはなく、結局お互いに歩み寄ることは出来なかった。
ギスギスとした空気のまま、舞台は初日を迎える。幸か不幸か、そのケンカがきっかけで気持ちを切り替えることができたのだ。
作中のラブシーンも『そうすべきこと』として割り切ることが出来たし、まさにケンカのシーンなどは真に迫っていた。それが役者としてよくないということは分かっている。
久秀もラスティもプロの役者である以上、私情を舞台上でにじませることなどあってはならないのだ。
「ラスティ」
開演前、すでに衣装に着替えた久秀が声をかけてきた。
「なんやの」
「……千穐楽までちゃんとしてくれよ」
「アンタもな」
ピリッと空気が張り詰める。二人して無言で見つめあう。
また掴み合いのケンカが始まるのでは、と共演者たちはハラハラしているが、久秀はふっと顔をそらすとラスティの隣をすり抜ける。
「いくぞ」
その声にハッとして顔を上げると、彼の後ろ姿が見えた。ラスティも慌てて後を追い掛けるように控え室を出る。
そのまま幕が下りるまで、二人は口を聞かなかったし目を合わせなかった。しかし、芝居にだけは熱中した。どれだけ割りきったつもりでも、気持ちが入っていないシーンなど観客にはすぐにわかってしまうだろうからだ。それだけは避けたかったのだ。どうやら相手も同じようだったようで、それが救いだった。
そして、公演五日目のソワレ。相変わらず久秀とラスティの間の空気は最悪だった。とくに今日は、お互いイライラしているのか、開演前のやり取りがいつになくトゲだらけであった。
「お前さ、あのアクションのシーン、いつもワンテンポ早いんだよ。いつか絶対、ケガするぞ」
「はいはい、すんませんでした。そない言うんやったら、アンタが合わせてくれたらええやろ」
「本来はお前が合わせるべきだろ。落ちたらお前もケガするし、周りだって巻き込むんだぞ」
「あーもー! うっさい! ほんまに細かいなアンタ!!」
普段であれば、素直に受け入れることができるアドバイスも、今日ばかりは煩わしくて仕方がない。
イライラする。なんでこんなにイライラしなければいけないのか、ラスティにはわからなかった。
「お前な、何度も言ってるけどちゃんとしてくれよ」
久秀は呆れたようにため息をつくとそう吐き捨てた。その言葉にカチンときたラスティは反射的に言い返してしまう。
「うっさいわ! 言われんでもわかっとる!」
「わかってないから言ってるんだろ!」
売り言葉に買い言葉である。また二人は睨み合うがすぐに視線をそらした。もうこれ以上は不毛だと思ったのだろう。
お互いに『プロとして』割りきったはずなのに、妙にムキになってしまった。どちらも意地っ張りなところがあるのだろう。そしてそれに振り回されている。
そんな自覚はあったが、今さら止められなかったし止めるつもりもなかった。
開演時間が迫り、役者たちが出てくるとそのままそれぞれの配置につく。
ラスティは衣装のジャケットを羽織ると深呼吸をした。幕が上がる前のこの空気感は嫌いではない。むしろ好きな方だった。しかし、今日はその空気が重たく感じた。それはきっと久秀も同じなのだろう。
あの久秀からの告白がなければ、こんな風にこじれたりすることもなかったのに。きっと今頃、『今日は情熱的にいこう』だの『オレの魅力で悩殺してやる』だの軽口を叩き合っていたはずなのに。
今更、久秀を責めたところで、なにがどうなるというわけではないが。
ラスティはちらりと久秀の横顔を見る。いつだって、この顔を見ると、緊張がほぐれて安心した。背中をポンポンと二度叩いて激励してくれていた。
それなのに、この公演が始まってから、一度もそれがなかった。
寂しい、と思ってしまった。
今になって、彼の想いを受け入れていれば、これまで通りの空気感でいることができたのではないか。そんな考えが頭をよぎる。
しかし、いまさら後悔しても遅いのだ。きっと彼はもう、自分を受け入れてはくれないだろう。あんなに酷い拒絶をしたのだから当然である。
もう終わりだとわかっているのに、諦めがつかない自分に腹が立った。気持ちを切り替えようと舞台に視線を移そうとしたその時、久秀が振り返った。
「ラスティ」
名前を呼ばれドキッとする。まさかこのタイミングで話しかけられるとは思わず、動揺を隠せない。
「なんやの」
そう素っ気なく答えるも、心臓はバクバクと脈打っている。悟られたくないのに、それを誤魔化せる自信がなかった。
「……ケガだけはするなよ」
背中をポンポンと、二度、叩かれる。
ギスギスしていたはずの気持ちが、嘘のように霧散した。
「わかっとるわ」
ラスティは精一杯の虚勢を張る。そして、そのまま舞台へと足を向けた。
久しぶりのその激励に、舞い上がっていたのかもしれない。稽古が始まってからの嫌な気分がなくなって、油断をしていた。
今回の舞台はラブシーンもあるが、アクションシーンもある。高所での殺陣は今回の見どころのひとつだ。
何度も何度も稽古を重ね、演者がセット裏に飛び降りるシーンも分厚いマットを置いて、着地場所もミリ単位で管理されている。少しでも危険だと感じれば、そのシーンの段取りをまるっと変更するぐらいに。それだけ、演者の安全を重視していた。
ラスティは、セットの一番上に上がるといつものように助走をつけて跳ね、飛び降りようとする。
それは、いつもとなんら変わりのない動作だった。
――いつも通り、ワンテンポ早く。
「危ない!」
台本にはないセリフを久秀が叫んだ。腕が伸びてくる。そんな段取りは、稽古にはなかった。
手首を掴まれて、ぐっと引き寄せられた。代わりに、久秀の体が前に出る。
「あっ!!」
彼の体が宙に投げ出された。そのまま、セットの一番上から落ちていく。
ラスティは咄嗟に手を伸ばした。
だが、間に合わない。
落ちる。落ちる。落ちる。
久秀の体が、そのまま吸い込まれるように落ちていく。
それをただラスティは、呆然とそれを見ているだけだった。
ダーンッと質量のあるものが、叩きつけられる音が大きく響く。そのあとに静寂が訪れ、ラスティは自分の手を見つめた。そこに彼を掴む感触もなければ、何もない。
これは夢なのかもしれないと思った。しかし、鼓動が跳ね上がり、心臓が痛むほど大きく脈打っている。現実なのだと訴えかけるように胸が苦しい。
しかし、場を止めてはいけない。それなのに、セリフが、出てこない。
すぐに照明が落とされ、緞帳が降ろされる。舞台上の役者にはけるように指示が出された。
客席では何事かと戸惑うざわめきが、まるで暴風のように起こった。
そんな中、ラスティは自分の鼓動が大きく跳ねる音しか聞こえなかった。周りの音も何もかも遮断され、真っ白になる。思考がショートして、上手く頭が回らないのだ。
久秀が落ちた場所を呆然と見つめることしかできないでいた。まっさかさまに落ちていく彼の姿が網膜に焼き付いて離れないのだ。
「おい、大丈夫か」
肩を叩かれて顔を上げると、共演者の心配そうな顔が飛び込んできた。そこでようやく我に帰ることができた。そして自分が舞台上にいることを思い出す。
そしてはじかれたように、駆けだした。
久秀が落ちたのは本来、演者が飛び降り着地する場所ではないところだ。もちろん、マットなど敷かれているはずもない。
舞台上では、責任者が今日の公演は中止である旨を伝えているのが聞こえてくる。
そんなこと、ラスティにはどうでもよかった。ただ、久秀の安否が心配だったのだ。
「しっかりしろ!」
「頭を打っているかもしれないから、動かすな!」
「救急車を早く!」
スタッフが忙しなく走り回っている。久秀のマネージャーが顔面蒼白になりながら、どこかに連絡していた。
「久秀さん……?」
ラスティは久秀の傍に膝をつく。頭を打っているのかその場には血だまりが出来ていた。左腕と左足が一目で骨折していることが分かる状態で、ドーランをしていても分かるほど顔面が真っ青になっている。
「久秀さん」
声をかける。しかし、返事はない。
「久秀さん!」
大きな声で名前を呼ぶが、彼が反応することはない。ラスティの頭の中は真っ白になっていく。
「久秀さん! おい!」
視界がじわりと滲む。鼻の奥がツンとして、涙がこぼれたのがわかった。堰を切ったように、次から次へと溢れてくる。拭っても拭っても、追いつかない。それでもラスティは何度も名前を呼んだ。
「う……」
久秀が呻く。意識があることに、周囲からわっと声が上がった。
「久秀さん……」
「あ……う、ラス……ティ」
久秀のうつろな目がラスティをとらえた。そして、その顔に安心させるような笑みが浮かぶ。
「……だいじょうぶだから」
そう言って、久秀はラスティの頬に手を伸ばす。するりと優しく撫でた。
「おまえなら……できるよ」
なにを、と聞く前に久秀の手が力なく落ちる。どうやら気を失ったようだ。
ラスティは震える手で久秀の頬に触れた。そして、その温もりを確かめてハッとした。まだ生きている。
「救急車来ました!」
スタッフの声。救急車が到着したらしい。周りの人たちがわらわらと離れていくのがわかった。ラスティも救急隊員に引き剥がされる。離れていく手が名残惜しかった。
舞台監督が演者に楽屋に戻るように声をかけ、スタッフにも何事かを言いつけている。
しかし、ラスティはその場から動けなかった。ただ呆然として、その場に座り込んでいた。頭の中がぐちゃぐちゃだった。考えがまとまらない。何を考えればいいのかすらわからない。
ただ、手に残る久秀の温もりだけが、今の出来事が夢ではなく現実であると告げていた。
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