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第10話
『高野久秀さん、四メートル転落! 意識不明』
『公演中の転落事故 俳優大けが 公演休止』
『公演中の事故 安全体制に問題か』
連日、テレビやネットニュースでの報道に、ラスティは目を背けたくなった。
長らく俳優業をやっていると、けがや病気で公演が中止になったり休止になったりすることもある。それは別に珍しいことではない。
自分自身も、過去にけがをして舞台を降板したこともあった。
しかし、今回はその比ではない。
久秀が自分をかばったせいで、大けがをしてしまった。
その事実が、ラスティを責め立てた。
公演自体は休止、となっているが、中止と同意儀である。けがだけならば、代役を立てて再開すればいいだけだが、出演俳優が意識不明の事態になっているのだ。公演中止も時間の問題だろう。
しかし、それよりも久秀にケガをさせてしまった罪悪感と、このまま彼が目を覚まさなかったらという不安で押しつぶされそうだった。
彼が起きたとき、どんな顔をして会えばいいのか分からない。
「なんでや……」
そんな呟きがこぼれる。
あのとき素直に彼の忠告を受け入れていれば、こんなことにならなかったのに。久秀が文字通りすべてを投げ出してまで守ってくれたのに、自分は恩を仇で返してばかりだ。
「なんでや……」
同じ言葉が口をつく。無意味な問いかけは繰り返されるばかりである。
それから数日して、久秀が一命をとりとめたとの連絡を受けた。依然、意識は戻ってはいないが、ひとまずは死ぬことはないらしい。
その事実に安堵はしたが、ラスティの心にはぽっかりと穴が開いたままだった。
強い罪悪感と無力感、やり切れない気持ちが胸中でグルグルと渦を巻く。
残酷なもので、そんなラスティの気持ちとは裏腹に、代役を立てての舞台公演が再開された。
その稽古にももちろん休まず参加した。該当のシーンは大幅に変更されて、セットも組みなおされた。死ななかったのだからいいだろうともで言いたげなその発表に、世間は荒れに荒れたが、そんなことラスティはどうでもよかった。
言われたことを、淡々と、こなすだけ。
ラブシーンもアクションシーンも問題なかった。あのとき指摘された箇所も、いつもより「ワンテンポ遅く」すれば、他の演者ともタイミングもあったし、なによりやりやすかったのだ。
『大丈夫だから。お前ならできるよ』
久秀のその言葉が、皮肉にもラスティの心の支えとなった。
「大丈夫。オレならできる」
何度も何度もその言葉を繰り返す。背中をポンポンと、二度叩く。いつも久秀がしてくれた激励。それを自分にすることで、折れそうな奮い立たせた。
少しでも不安な気持ちになれば、彼の言葉を思い出す。彼がいままで自分にかけてくれた優しさを反芻する。久秀ならきっとこうするだろう。こんなふうに励ましてくれるだろうと、もはや病的なまでに久秀に縋るしかなかった。
そうすることで、ラスティはギリギリつぶれそうな心を保っているのだ。
そうでもしなければ、壊れてしまいそうだった。
千穐楽。大きなハプニングもなく終幕することができた。
カーテンコールにて、改めて舞台責任者から今回の事故について説明があった。『演出上の過失』ということらしい。
誰が悪いわけでもない。ただの事故。そのことに関しても、特になんの感慨もなかった。ラスティはただ淡々とした表情で、それを聞いているだけだった。
本当は、自分をかばったせいでけがをしたのだと、叫びたかった。しかし、そんなことをすれば、逆に久秀に迷惑がかかる。彼はきっとそんなこと望んでいない。
そういった処世術を教えてくれたのも、他ならぬ久秀だった。役者として大人として男として。心の在り方を優しく教えてくれたのは高野久秀だ。優しいあの人を困らせたくはなかった。
「高野久秀さんの一日でも早いご快復を、出演者スタッフ一同、心よりお祈り申し上げます」
そんなありきたりな言葉とともに、波乱の舞台は幕を降ろした。
劇場から自宅に戻るタクシー車内。隣に座るラスティの男性マネージャーが、おずおずといった様子で声をかけてきた。
「高野さんのところ、行ってみますか」
「……家に帰る。次の仕事のスケジュール確認せんと」
「ICUを出られたそうなので、顔を見るだけならできるそうですよ」
マネージャーはそう言って、タクシーの運転手に行先の変更を告げた。反論する気力は今のラスティにはなかった。
病院につくと、手続きをマネージャーに任せてラスティは一人先に歩き出した。会いたくないわけではない。でも、どんな顔をして会えばいいのかわからない。
「久秀さん……」
ぽつりと名前を呼ぶ。返事などもちろんない。それでも、彼の名前を口にするだけで胸がいっぱいになった。
後ろからマネージャーがパタパタと早歩きでやってくる。彼に伴われて、久秀のいる病室へ向かった。
『高野久秀』と無機質なプレートに名前が記されている。ナースステーションにほど近い病室で、どうやら個室のようだ。
マネージャーが控えめにノックをすれば、中から返事がある。横開きのドアが静かにスライドした。
顔を覗かせたのは久秀のマネージャーだった。その後ろに控えている男性の顔には見覚えがあった。久秀の兄である。
「あ……」
ドクン、と大きく心臓が跳ねる。
久秀の兄はラスティの顔を見ると、怒声を浴びせるわけでも罵倒するわけでもなく、心から嬉しそうな表情をした。
「ラスティ、千穐楽おめでとう。よく来てくれたね」
久秀によく似た声と顔が、そう招いてくれる。
「久秀も喜んでる。声かけてやってくれ」
そう言って、彼はラスティの返事を待たずに、中に通してくれる。そうして静かに病室を出ていった。
白い部屋に二人取り残された。横になっている久秀は痛々しいほどに点滴やら輸血パックやらが繋がれている。
頭部に巻かれた包帯には血がにじんでいるし、左腕と左足にはギプスで固定されていた。
顔だけを見るとただ眠っているだけのようで、呼吸も安定しているようだった。
「久秀さん」
静寂の中に声が響いた。返事はない。ベッド脇に置いてあるパイプ椅子に腰かけて、ラスティはそっと久秀の手を握った。
「ごめんなさい……」
ラスティはただそう呟いて、久秀の手を離せずにいる。その手に力を込めれば、温かな熱が伝わってきた。それに少しだけ安堵する。彼はまだここにいる。それが確認できただけでよかった。
そして、そのけがの具合をまざまざと見せつけられたような気がした。
主に左半身を大きくけがをしているようで、頭や腕、足だけでなく病衣から見える部分にも包帯のようなものが巻かれていた。全治はどれぐらいで、いつ意識を取り戻すのかも聞かされていない。
――もし、このまま目が覚めなかったら?
その恐怖に、ラスティは震える。ぎゅっと、自分の熱を分け与えるように彼の手を強く握る。そうすれば目を覚ましてくれるのではないかと想いを込めて。
「ごめんなさい」
もう一度、謝罪を口にする。あのときもっと素直になっていればこんなことにはならなかったのだ。そう思うと、後悔ばかりが押し寄せる。
「ごめん、なさい……」
ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちる。
「ごめ……んなさ……」
久秀は悪くない。悪いのはすべて自分だ。ラスティには謝ることしか出来なかった。泣きながら何度も謝罪を口にすることしかできない自分が、不甲斐なくて仕方なかった。
どうして自分をかばったりなんかしたのだろう。変に意地を張って、聞き分けのない子どもっぽい自分なんて放っておけばよかった。『先輩』のアドバイスを、いつも通りに受け入れていれば。
――自分が落ちればよかったのに。
「久秀さん、なぁ、久秀さん!」
ラスティは久秀にすがりつく。いつも優しく背中を叩いて励ましてくれて、よくできましたと頭を撫でてくれる手を強く強く握る。
もし、目覚めなかったら? もし、目覚めたとして、もう二度と舞台に立てなかったら?
嫌な考えばかりが頭を巡る。
久秀はラスティの知る誰よりも、芝居を愛している。舞台に立つことを、なによりも誇りとしている。
子どもの頃から芝居に打ち込んで、アメリカで技術を磨き、日本ではそれを発揮して今の地位についている。若手や後輩役者の相談にのって、叱って励まして。頼れる兄貴分として慕われている。
ラスティはそんな久秀が好きだった。初めて共演したとき、慣れない現場で緊張していたが、久秀がそれをほぐしてくれた。芝居のイロハを教えてくれて、千穐楽ではたくさん褒めてくれた。
ロミオとジュリエットのときも『大丈夫』と声をかけてくれた。
ラスティは久秀の『大丈夫』という言葉が好きだった。久秀にその言葉をかけてもらうだけで、なんでもできる気がした。
役作りを徹底するデニーロアプローチを得意とする久秀の芝居が好きだった。どんな役を演じても、そこに『高野久秀』はいなくて、役として舞台の上で生きている。
「役に入る瞬間と役が抜ける瞬間って最高に気持ちいいんだよね。俺が俺じゃなくなるから」
どこか誇らしげに語った久秀の姿が思い出される。
そんな彼から舞台を奪ったら、一体どうなってしまうのだろう。
ラスティは自分が怖くて仕方がなかった。
久秀が目覚めたとき、どんな顔をして会えばいいのかわからない。しかし、このまま彼が目覚めなければと考えるだけで怖くてたまらなかった。
「イヤや……お願い……」
ラスティの口から言葉が零れる。
「……いやや……起きてぇな……」
ぽろぽろと大粒の涙がこぼれて止まらない。しゃくり上げながら、何度も懇願するように名前を呼ぶ。
「なぁ……久秀さん……」
お願いだから、名前を呼んで。大丈夫だと言って髪を撫でて。
抱きしめてほしい。触れてほしい。
好きだと、言ってほしい。
――ああ、そうか。
自分は、この人のことが好きだったんだ。
それはすとん、とラスティの胸に落ちた。
やっと自覚した恋心はひどく重くて、苦しくて、そしてもどかしかった。
もっと早くに気付いていればよかった。
「ごめんなさい」
何度目かも分からない謝罪。
それは静かな病室に溶けていった。
『後悔』というたった二文字に、ラスティがギリギリ保っていた心は、ぽっきりと折れてしまった。
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