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第11話

 最後に見た景色はなんだったか。おぼろげな記憶をたどっていくと、なぜか胸が締め付けられた。  泣いている。  泣いてほしくない人が泣いている。  彼が泣くと、胸が苦しくなる。悲しませたくない。不安にさせたくない。  手を伸ばして、その涙にぬれる頬を撫でた。 「……だいじょうぶだから。おまえなら……できるよ」  きっと芝居が上手くいかなくて、不安がっているのだろう。彼は頑張り屋さんだから、すぐに無茶をする。  安心させてやらなければ。でも、それ以上、上手く言葉が出てこない。 「泣くなよ」  そう言葉を紡いだつもりだった。 「大丈夫だよ」  そう安心させたつもりだった。  でも、なにかが意識を強く引っ張って、それを許してくれなかった。 ――俺が慰めないといけないのに。  高野久秀はそうして意識を手放した。  事務所に次の仕事の打ち合わせにきた靖は、その重苦しい空気に眉をひそめた。 「なにかあったんですか」  たまたま近くにいた、事務員の女性に声をかけた。  すると彼女は困惑したように首を傾げている。 「さっきラスティさんがマネージャーさんと一緒に来られて……。なんでも社長にお話があるんだとか」 「……そうですか」  ありがとう、と女性に礼を言って、靖は彼らが入っていったという会議室の前が見える位置にさりげなく立つ。  なんとなく嫌な予感がするのだ。  あの高野久秀が事故で入院した、というニュースは靖も耳にしたことがある。その舞台が代役を立てて続行されたことも。そして、それに関係したありとあらゆる世間の評判も。  友人はファンの過激な発言など気にするようなタマではないが、それでも、と危惧してしまう。  ラスティは基本的に明るく陽気な人物だが、とても繊細な一面がある。芝居のことで凹んだりすることも、これまでに何度もあった。そのたびに普段は吸わないタバコの本数が増えて、自分に対してイライラすることもある。  しかし、今回はそうではない。  高野久秀との『一件』で悩んでいるところに、その本人が事故でけがをした。  ネットでは『高野久秀がラスティアス・ライジェルを庇ったからけがをした』『ラスティアス・ライジェルが高野久秀を突き落とした』などという噂が流れている。  だいたいそういう根も葉もないことを流すのは、観劇していない人間だ。  実際に観劇した人たちは、どちらの意見にも同調せずにだんまりを決め込んでいる。あれは『不幸な事故』であったと、そう結論付けているのだ。  しかし、ラスティはきっとそんなふうに割り切れないだろう。義理堅い人間だから、気に病んでいるに違いない。  靖は静かに息を吐き出して、会議室の扉を見つめる。どうかこの嫌な予感が杞憂でありますように、と願いを込めて。  それからしばらくして、閉ざされていた会議室のドアが開いた。  事務所社長の苺谷衣織とマネージャー、そしてラスティが出てきた。ラスティは憔悴しきった顔をしており、その背中を苺谷が優しく撫でている。 「じゃあ、ラスティ。ゆっくり休んで」 「はい……。申し訳ないです。ご迷惑おかけします」 「次の仕事まで期間あるし、気持ちが落ち着くまで休むといいよ。必要ならカウンセラーも手配するから」 「ありがとうございます」 「気分転換に旅行とかしたらいいよ。僕の故郷の北海道なんて海鮮が美味しくてねぇ。スープカレーも美味しいし、エスカロップって知ってる? 帯広の名物でタケノコが入ったバターライスの上に、トンカツが乗っててデミグラスソースで食べるんだ。あれも美味しいよ」  苺谷はやや厚めの唇に笑みを作り、目を細めた。マネージャーも、お土産買ってきてくださいとなどと冗談めかしながら同意している。  ラスティはぎこちなく笑いながら、二人に深々と頭を下げた。 「はい。ありがとうございました」 「じゃあ、僕たちは打ち合わせがあるから。ああ、そうだ、念のため、僕かマネージャーでもいいから定期的に連絡をいれるように」 「……はい」 「うん。それだけよろしくね」  最後に苺谷はラスティの背中をポンポンと叩いて、マネージャーとともに社長室に向かっていった。  靖はもう一度頭を下げたラスティの背後に回り、強くその背中を叩いた。 「いって!」 「よう、ラスティ。なぁにしけたツラしてるんですか」 「……靖」  あっけらかんとする靖に、ラスティは迷惑そうに顔を歪める。なにをするんだとでもいいたげなその表情を無視して、靖は彼の腕を掴んだ。 「今日、うちで飲みましょうよ」 「いや、ええわ」 「そうですか。じゃあ、アタシこのあと打ち合わせなんで、それが終わるまで待っててください。帰りにスーパーでおつまみと酒でも買っていきましょう」 「……はぁ」  強引に話を進める靖に、ラスティは大きくため息をついた。断ったところで、彼が許してくれるはずがないのだ。  ラスティは渋々、靖の申し出を受け入れることにした。  靖の自宅に着いて、スーパーで買った総菜をつまみに、チューハイやらビールやらをラスティはつぎつぎに勧められた。  そこまで酒には強くないのだが、靖が「とりあえず飲め」と言ってくるので断ることができない。  しかし、それでもよかった。今はとにかく酔いたい気分だったのだ。 「それで、アナタ。社長となんの話をしていたんですか?」  昼から飲んで時刻が十九時をまわった頃、ついに靖にそう切り出されてしまった。  ラスティは一瞬ためらいの表情を見せたが、酒に酔ったぼんやりした頭で口を開いた。 「ちょっとお休みしようかと思って」 「高野さんのことで、ですか?」  ぴたりとラスティの表情がこわばった。手に持っていたビール缶をテーブルに置いて、あからさまに作った笑みを浮かべる。 「いや、そんなんやないねん。ちょっと最近ハードやったし、体調もよくないし、気分的にもノッてこんし。ほら、オレって売れっ子やん? なかなか長期のオフって取れんから、舞台もハネたことやし、せっかくやから休ませてもらおうって、直談判に行ったっちゅーわけ」  ベラベラとラスティは早口で言う。わざとらしく、さもそれが正統な理由であるかのように。  語るその唇がわなないていることに、彼は気付いているのだろうか。  靖はゆるく首を振って、そっとラスティの手に触れる。大げさなくらいにビクリと震えて、作り笑顔のまま固まった。 「アタシは、アナタの親友のつもりです。……親友の前でくらい、本音を言ってもいいんじゃないですか」  ぶわっとラスティの両目から大粒の涙が溢れた。  ぼろぼろと大粒の涙を零しながら、ラスティは唇を噛み締める。嗚咽が漏れないようにする彼の口元は震えており、痛々しいほどに感情が表れていた。 「オレ……どないしよう……」  何度もつっかえながら、ラスティは言葉を紡ぐ。その震える肩を靖は優しく抱き寄せた。 「久秀さん……もう目ぇ覚まさへんのやろか」 「大丈夫ですよ。きっと」 「……でも」 「大丈夫ですって」  ぐずぐずと鼻を鳴らして、ラスティは必死に言葉を紡いだ。靖は彼の背中をやさしく叩きながら、大丈夫ですよと繰り返す。 「オレが、ちゃんと言うこと聞いとったら、久秀さん、あんなことにならへんかったのに……。ほんとうは、オレが落ちるはずやったのに……」  靖にすがりついてラスティは自責の言葉を吐き出す。 「なんで、オレなんて庇われる資格なんてないのに」 「そういうこと言うと高野さんが悲しみますよ。」 「だって」  ぐずぐずとラスティはまた涙を流す。まるで小さな子どものように、彼のすがりつく腕はしっかりと靖の身体を離さない。 「久秀さんが、し、死んだら、オレ……もう生きていけん」 「縁起でもないこと言うもんじゃないですよ」 「でも、オレ……オレ……」  声が震えて上手く言葉が紡げない。すん、と鼻を鳴らすラスティをなだめながら、靖はそっと息を吐き出した。 「ねぇ、ラスティ」  靖はラスティの身体を離して、彼の目を見つめた。涙で潤んだその瞳に自分の姿が映っている。 「高野さんのことが好きですか?」  その問いかけに、ラスティは何度もうなずいた。 「好き。……だいすき」  口に出して初めて、その想いの大切さに気が付いた。  自分は久秀のことが好きだ。優しくてかっこよくて、頼りになって。からかってくるときのイタズラっぽい顔とか、左口角の上げるように笑うところも、なにもかも好きだ。 「アナタの好きな『久秀さん』はどの久秀さんですか?」 「どの久秀さんでもない……高野久秀さんが……好き」  もう誤魔化せない。  好きになってしまっていた。どんな彼でも好きになっていた。役者としての彼も、普段の彼も、そのどちらでもない時の彼でさえ、好きで好きでたまらなかった。  それを今になって気付くなんて。なんて自分は愚かなのだろうと思ってしまった。  また涙が溢れそうになっているラスティを見て、靖は優しく微笑みかける。 「なら、彼が目覚めたとき、思い切って好きだって言えばいい。せっかく長いオフがあるんでしょ。告白の練習でもしなさい」 「へ」  あまりにも突拍子もないことを言われて、ラスティはポカンと口を開く。そんなラスティに靖はくすくすと笑いを零す。 「ほら、アナタも役者でしょう。それとも告白もできないヘタレなんですか?」 「いや……」 「この程度の『舞台』に上がれないようじゃ、まだまだですね」  からかうような口調の靖をラスティはキッと睨みつけるしかし、すぐに彼は馬鹿らしくなったのか小さく笑う。その表情には普段の彼が戻ってきていた。 「ラスティ」  それから、さんざん飲み食いして時刻も天辺をすぎた頃、二人は寝床に入った。  珍しく気を利かせた靖がラスティにベッドを譲り、自分は床に敷いた来客用の布団で眠ることになった。  明かりも落として、あとは眠気がやってくるの待つばかりとなった頃、靖が名前を呼ぶ。 「社長にはどこまでお話したんですか?」 「……稽古中にケンカしてからずっとギクシャクしてて、それであんなことになったって」  泣いて気持ちが落ち着いたのか、ラスティはこれまであったことをとつとつを話始めた。  稽古初日からなんとなくギクシャクしていて、些細なことで言い合いになったこと。それは本番が始まってからも続いて、事故当日もケンカになってしまった。そして、あんな事故が起こってしまった。  緊急搬送される直前まで久秀はラスティを気遣ってくれて、その優しさが辛かったこと。  彼の家族が少しも責めてこなくて、苦しかったこと。ベッドに横たわる痛ましい姿の久秀を見て、やっと自分のなかの恋心に気付いたこと。  オレのせい。オレが悪い。オレがああなればよかった。  ずっと自責の念に囚われて、夜も眠れなくなった。食事も取れなくなった。  自分がただのラスティアス・ライジェルであれば、そのまま全てを諦めることだってできた。  しかし、自分は俳優。ここですべてを投げ出せば、方々に迷惑がかかる。それはなんとしても避けたかった。  そしてここでも、いつか言われた久秀の言葉を思い出す。 「お前はすーぐ、ひとりで抱え込みすぎるんだよ。たまには周りに甘えるということを知るべきだな。事務所ってのは、ドライに見えてお前がいないと案外困るもんだよ。だから、全てを諦める前に社長なりマネージャーなりに相談するんだ。たいていのわがままは聞いてくれるからさ」  だから、ラスティはまずマネージャーに相談した。彼のマネージャーはよく出来た人物だ。ラスティと久秀の仲の良さも知っているし、稽古中からあの事故まで傍でずっと見ていた。  ラスティと久秀はあんなくだらないことで、ケンカはしない。きっとなにか理由があるはずだと、すぐに察してくれて、社長に掛け合ってみるとまで言ってくれたのだ。  そして社長である苺谷も、ラスティの申し出を快く受け入れてくれた。怒るわけでも呆れるわけでもなく、ゆっくり休みなさいと言ってくれた。  苺谷も二人の仲の良さを知っているのだ。もしかしたら、ラスティが久秀を憎からず想っていることに気付いていたのかもしれない。  冷静に物事を見極めてくれた苺谷の気遣いが、ラスティにはありがたかった。  そして、こうして話を聞いてくれる親友の存在も。 「……靖は優しいな」 「今さら気付いたんですか? アタシは元から聖人君主ですよ」 「はいダウト」  薄暗い室内で二人の笑い声が響く。ひとしきり笑って、疲れたのか靖はそれきり口を開かなくなった。どうやら眠ってしまったらしい。  その穏やかな寝息を聞きながら、ラスティもまた目を閉じた。  自然と瞼が重くなる感覚に身を任せて、久秀のことを考える。彼の目が覚めたらちゃんと謝ろう。そして好きだと言おう。  告白が成功したら、また二人で舞台に立てるだろうか。  そんな期待を胸に抱きながら、ラスティも眠りへと落ちてゆくのだった。

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