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第12話
誰かが泣いている。なにか悲しいことでもあったのだろうか。悩みでもあるのだろうか。それならば、その悩みや不安を解消させてやらねばならない。
彼にだけは泣いてほしくない。いつだって笑っていてほしい。
彼とは誰だ。ひどく痛む頭では、その『彼』が誰なのかまで分からない。分からないけれど、胸が締め付けられる。
泣かした相手は誰だ。そんな悪いやつの言葉なんか聞く必要はない。
暗闇のなかで泣いている彼にそう伝える。だが、彼は少しも泣き止まない。おかしいな、いつもならすぐにあの無邪気な笑顔を見せてくれるのに。
泣かせたのは誰だ。
他の誰でもない。
――泣かせたのは、俺だ。
自分はこんなに不器用で臆病な男だっただろうか。
アメリカにいたときは、そんなふうに思ったことはなかった。失いたくない。悲しませたくない。泣いてほしくない。
そんな感情を少しでもこれまで付き合ってきた相手に抱いたことがあっただろうか。いや、なかったように思う。
しかし、彼にラスティに出会ってからはそう思うようになってしまった。
ひたむきにこちらに敬愛の念を抱き、懐いてくるのが嬉しかった。ラスティに「久秀さん」と呼ばれるたびに心が舞い上がりそうになった。
頑張り屋で感激屋、憂鬱をこじらせることもあるが、自力で這い上がる強さをもっている。
人間として男して役者としてリスペクトを抱いていた。しかし、いつしかその感情はリスペクトを超えて愛へと変わった。
そこから、急に怖くなった。この笑顔が声が目が。自分に向けてくることをやめてしまう時を想像して、怯えてしまった。
だから、彼がこちらに好意を抱いていると知ったときに、なんとしてでも手に入れようと思った。
ラスティの感情は物ではない。それは分かっている。それなのに、自分でも気付かないのが不思議なくらいの強い独占欲と執着心がぐるぐると渦を巻いた。
結果、強い二つの感情が暴走してしまい、ラスティを傷付けることになってしまった。
虎雄に指摘され、なんとかいつも通りの仮面を被ったつもりだった。だが、ひとたびラスティの姿を見ると、どうしようもなくなる。
ちゃんとしてくれ。しっかりしてくれ。
中身のない言葉に、ラスティは反抗してくる。そりゃそうだ。自分が彼の立場ならきっと噛みついていたと思う。
強い言葉で彼を傷付けたくはなかった。ケンカもしたくなかった。せっかくの面白い役を二人で楽しみたかった。
そこで初めて、好きにならなければよかったという自分の感情を否定することになった。
俺のこの感情のせいでラスティの心が曇ってしまった。曇らせてしまった。
『後悔』その二文字が心を支配した。ラスティを好いてしまったことが、そもそも自分の罪なのだ。
ちゃんと謝らなければ。ちゃんと話し合って謝りたい。ふざけるなときっと彼は怒るだろう。殴られるかもしれない。
それでもいい。ただ「好きになってごめん」と伝えなければ。
嫌だ。嫌だ。
この気持ちを無くしたくない。真摯に想いを伝えたい。
ラスティが好きだ。愛してる。自分のそばで笑っていてほしい。
彼を見るたびに想いが膨らんでいく。
ちゃんと告白しよう。落ち着いて冷静に好きだと言おう。
そう決断するとギスギスした気持ちが少し晴れた。
燃え滾っていた熱が冷えると、周りを見ることができた。
いつもワンテンポ早いんだよな。
ずっと気になっていた、ラスティの大立ち回り。高いところで殺陣をして、マットの敷かれたところに飛び降りるという段取りなのだが、ラスティはいつもワンテンポ早い。あれでは相手もやりにくいし、着地地点が少しでもずれると大けがをしてしまう。ワンテンポ遅くすれば、きっと本人も相手もやりやすくなるのに。
芸事の先輩としてアドバイスをするが、彼は憎たらしい反応をした。
それも当然だろう。連日ケンカをしていた相手からそんなことを言われてしまっては、嫌味だと取られてもしかたがない。
だがそれでもよかった。彼もプロの役者だ。意図を理解してくれるに違いない。もしダメだった場合はフォローをすればいいだけだ。
舞台は問題のシーンに差し掛かる。
ラスティは今回もワンテンポ早かった。許容の範囲だと思ったが、少し態勢を崩してしまい表情には出さないが焦りの色が浮かんだ。
その瞬間には体がひとりでに動いていた。
舞台上で私情を出してはいけない。ブロードウェイ時代、演劇の師匠から言われたことだ。観客は舞台に夢を見に来る。そこで私情を持ち込んでしまっては、夢から覚めてしまう。
私情を挟んでいては、役者とは言えない。
そんな教えも遥か彼方に吹っ飛んでいた。
「危ない!」
ラスティの腕を強く引っ張る。反動で体が前に出た。
一歩踏み出した先には、なにもなかった。
そこからはあまり覚えていない。
泣きながら名前を呼んでくるラスティを慰めなければと声をかけた気もする。
ただ一つ確かなのは、彼が無事で安堵を覚えたことぐらいだ。
ラスティが無事で本当によかった。
喜ばしいことなのに、ラスティはずっと泣いている。
あまりに泣くから、放っておくことができない。
早く、彼を慰めないと。
そう自覚した瞬間、今まで暗闇だった空間がパッと明るくなった。白い光が飛び込んでくる。
眩しい。
ここは、どこだ。身に覚えのない空間だ。
「久秀!」
名前を呼ばれる。これまで不明瞭だった意識が覚醒した。
久秀とは自分の名前だ。
「久秀、分かるか?」
髪に白いものがまじった男が声をかけてくる。彼は、高野勝正。久秀の兄だ。
「あ……」
声を出そうにもカラカラに掠れてしまって思うように出ない。
それなのに兄は心から安心したような顔をして、すぐにナースコールを押した。
「ヒデ、おはよう」
兄の傍らには、今年で中学生になる甥が笑顔を見せている。その後ろには義姉が目に涙をためていた。
「……お、はよ……う」
なんとか言葉を絞り出すと、わっと歓声があがった。
甥が我慢できずに抱き着いてきた。その振動で左半身に痛みが走る。
「痛い……なぁ」
「痛いのは、生きてる証拠だな」
兄の言葉に久秀は苦笑いを浮かべることしかできなかった。
目が覚めてからはめまぐるしく時間がすぎていった。もろもろの検査や全治するまでにどれぐらいかかるか、どのような治療をしていくかなどの説明を医師から受ける。
骨折ぐらいで大げさな、と久秀はのんびり構えていたが一時は生死を彷徨っていたというのだから笑えない。
頭を打っているのだから、くれぐれも安静にして余計なことはするなと兄に言い含められて、自分をなんだと思っているんだと言いたくなったが、これ以上心配をかけるのも申し訳なく思い、素直に頷いておく。
それから、久秀が目を覚ましたという報告を受けて、友人知人、舞台の関係者が次々と病室を訪れた。
まずは、今回の舞台の責任者とアクション指導の高倉惣三。監督不行き届きであったと頭を下げる彼らに、久秀はよくあることだからと笑って流す。舞台に立っていて、骨折をしたのは別に初めてのことではない。そして、高いところから落ちたのも過去にあった。演出や舞台機構、アクションに問題があったわけでも誰かが悪いわけでもない。自分はこうして元気なのだから、それでよしとしましょうと声をかけた。
彼らは目に涙をためて最後に深々と頭を下げて謝罪し、早くよくなってまた一緒に芝居をしましょうと言って病室を後にした。
その次は雨粒虎雄だ。
「高野ぉ、よかったなぁ!」
虎雄は病室に入ってくるなり、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で久秀に抱き着いてきた。言葉全てに濁点がついたようななんとも形容しがたいような声で喜んでくれた。
「ご心配おかけしました」
「ホントだよ、高野、ほんっとうによかった。また舞台に立てるんだよな? お前がいなくなったら演劇界はおしましだ」
「そんなおおげさな。まぁ、でもリハビリ頑張りますよ」
虎雄はぐしゃぐしゃの顔で何度も頷いて、退屈しのぎにと一冊の雑誌をプレゼントしてくれた。それは彼の気遣いなのか、ナース服の女性が肌も露わなかっこうで悩ましいポーズをとっていて、有り体に言ってしまえば成人向けの雑誌だった。
「気晴らしに使えよ!」
「ありがたく使わせてもらいます」
グッと親指を立てた虎雄に同じように返して、久秀は兄に頼んでその雑誌をサイドボードに隠してもらった。
そして、マネージャーや事務所の社長も顔を見せてくれた。
こちらのことは心配しなくてもいい。マスコミの対処も万全だと久秀を安心させて、これまた虎雄と同じように成人向け雑誌を置き土産に残していった。
みんな考えることは一緒なんだなあとしみじみ思いながら、訪れる面会者にできる限り愛想を振りまいた。
しかし、そのなかにラスティの姿はなかった。
無理もない。あんなケンカをしたのだ。好き嫌いのはっきりしているラスティのことだから、すでに自分は何者でもないのだと思っているのだろう。
悪いのは自分だ。だからそれも受け入れなくてはならない。
だが、それでも思ってしまう。
寂しい、と。
そう自覚してしまうと、ますますラスティに逢いたくなってしまう。あの笑顔を見たい。他の者と同じようにエロ本を持ってきて「暇つぶしに使ってくれ」とからかってくる声が聞きたい。
面会者の来訪が落ち着いてくると、それを強く感じてしまう。
こちらから連絡を取ろうか、いや迷惑かもしれない。すでにブロックされている可能性もある。その証拠にラスティとのトーク画面はケンカをする前、つまり告白してから初めてふたりで出掛けた日で止まっている。
どうしたものかと悩みに悩んでいると、バタバタと慌ただしい音が聞こえてくる。その音は久秀の部屋の前で立ち止まると、ノックもそこそこに引き戸をスライドさせた。
白いパーカーの上にチェスターコートを羽織って、背中には大きめのリュックを背負っている。そのリュックには木彫りの熊のキーホルダーや『網走刑務所』と書かれた木札が取り付けられており、両手には北海道で有名なお菓子の紙袋が下げられている。一目で、『北海道を満喫してきました』と分かりそうなほど彼は北海道に染まっている。
果たしてその者の正体は、ラスティアス・ライジェルだった。
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