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13-1.アースガルドの星

 ◇  ニーズヘッグはユグドラシルが広げた枝葉をまさに突き破ろうかというほど高く飛び上がったのち、よもや気でも失ったかと思うほどに急激な角度で滑空した。  息も心の臓も止まるほどの恐怖でロキは叫ぶことすらできないでいる。  やがて鋭い爪は煌めく湖の水面を切り裂き、飛沫をあげた。どこかに羽を下ろそうと考えあぐねている様子だったが、結局決めきれず、ニーズヘッグは地面に体を擦り付ける様にしてその速度を緩め湖畔の草むらに着地した。  その反動でロキとフェンはニーズヘッグの背中から地面へと投げ出され、強かに体を打ちつけた。  しばらく痛みで唸っていたが、ようやくまともに息が吸えるようになってから、ロキはむくりと体を起こし、身体の無事を確かめた。 「死ぬかと思った……」  冥界の地から甦り、ロキが一言目に発した言葉はそれである。   「フェン、大丈夫かっ?」  ロキはまだ恐怖の名残で立ち上がれないまま、数メートル先に転がったフェンのもとへと地面を這った。  フェンは上半身裸だったせいで、肩や背中に擦り傷を負っているようだ。しかし、ロキの呼びかけにすぐに反応を示し、ゆっくりと両手をついて起き上がった。 「大丈夫……ロキは?」 「俺も、あちこちぶつけたけど、なんとか」  そう言ってようやく力の入る様になった膝で、ロキは立ち上がった。  湖の縁からかなり先まで地面が抉れている。その終点に、冥界のドラゴンの体が横たわっていた。翼はしなだれ、尻尾は切なげにくるりと丸まり、頭は力なく伏せている。  慌てて駆け寄り様子を伺うと、ニーズヘッグは「ピュォッ」と切なげな息を漏らした。 「久しぶりに飛んだから疲れたのか?」  ロキのその問いに、ニーズヘッグが答えられるわけもなく。  このままここに置いていくわけにもいかないだろう。幸いニーズヘッグの鱗は硬質で怪我をしているわけではなさそうだ。少し休ませて、飲み食いさせれば回復するだろうか、とロキは周囲を見渡した。 「これは、すごいっ……」  目に映ったその光景に、思わず感嘆の息を漏らした。  湖の周囲を囲んだ木々が、澄んだ水面やところどころに広がる草原に木漏れ日を落としている。そしてその対岸を見上げると、眼前に広がるのはユグドラシルが悠々と金色の枝葉を伸ばした圧巻の景色だった。  冥界は闇に包まれ、中層は朝が来ないと嘆いているが、この地は目が眩むほどの大樹の光に満たされているようだ。  鳥が囀り、少し先では野うさぎが草を食んでいる。草に紛れてところどころに淡い色の花々が咲くこの場所が、善良な死者の魂が行き着く先であると言われれば、今のロキは信じただろう。 「あとは黄金のリンゴでもあれば」  そんな戯言を呟いていると、ガサガサと草を分ける音がした。フェンが咄嗟にロキの体を抱きすくめ、一歩後ずさって身構えている。  一拍置いたのち、爆ぜるように飛び出してきた黄金は、リンゴではなく巨大な猪だった。  猪突猛進、こちらに突っ込んでくるその猪を、フェンがロキを抱えたまま脇へと転がる様に避けて見せた。 「ギャァーーーー!」  叫んだのはロキでもフェンでも、はたまた金色の猪でもなく、その猪の背にまたがる少年だった。

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