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16-3.

 これは夢だと、ロキはすぐに気がついた。 何故なら視界に映った自らの手が酷く幼く小さかったからだ。  夢とはしばしば記憶を辿るものだと聞いたことがある。  記憶とは不思議だ。ほとんどが曖昧なのに、ある一部が不自然なほど鮮明なのだ。  ロキはあの隙間風の抜けるボロ屋で絵本を広げていた。  布張りの表紙はほつれ、古い紙の匂いがするシミだらけのボロボロの絵本だ。ロキはそれを開く時間が好きだった。その時ばかりは理由もなく爺の膝に座ることが許されていたから。  絵本に描かれるのはドラゴンやドワーフ、イタズラ好きで奔放な天界の神々、ミッドガルドの外の世界だ。  爺はロキの姿を隠すかのように、ほとんどをこのボロ小屋周辺で過ごさせていた。だからロキは世間の潮流に実に疎く、あらゆることを知ったのは、爺に隠れて村人たちの様子を影からこっそり観察するようになってからだった。  爺が自分を隠すように過ごしていたのは鮭に姿を変える特異な体質だったからだろうと、ロキはそう思っていた。 ――鴉と狼はオーディンの遣いだ。オーディンに会うな。会ってはいけない。絶対に  あの夜の爺の姿が浮かんだ。 ――オーディンに会ってはいけない? 何故?  ロキは意識の中で、爺に問いかけている。  しかし、答えは返ってこなかった。  疑念が浮かぶ。  爺はロキがオメガだと知っていたのだろうか。知っていたから、オーディンから隠れるように、ミッドガルドの田舎の村で身を隠すように暮らしていた? ――でも、何故?  草木の青い香りを含んだ風が髪を揺らし、ロキはゆっくりと覚醒した。  柔らかいベッドの上だ。窓から入り込む日差しが心地よい。目の前に光の筋が広がって、自分がどこにいるのか思い出すまでに少しの時間を要してしまった。 「やあ、起きたね?」  光の筋がサラリと揺れて、ロキは驚き目を見開いた。目の前で金の髪を纏った真っ白な顔がこちらを見下ろしている。 「なっ、あっ!」  寝起きで上手く声が出ないまま、ロキは体を起き上がらせた。  慌てるロキの様子に、目の前の男はクスクスと笑い白樺の枝のような長い指で口元を押さえた。  美しく長い金の髪と真っ白な長衣を纏ったその男の首には、大きな傷がついている。 「ガイド……⁈」  ロキが言葉に出すと、ガイドは目を細めて頷いた。  周囲を見渡したロキは、ここがオーディンの神殿の中に用意された自分の部屋である事を確かめた。 「待ってたよ、ロキ。やっと会えたね?」 「あっ、へっ……だって……あ、あんた……」  やっと会えたと言っているが、これまでガイドは何度もロキの前に姿を見せていたはずだ。そう言いたかったが、ロキはうまく言葉にできない。  またクスクスとガイドが笑った。 「今までのは思念体みたいなものだからね。実際に会うのはこれが初めてだよ」  そう言われれば、今までどこか朧げだったガイドとは違い、今目の前にいる彼はしっかりとした生身であるように思えた。 「あ、あんた……やっぱりオーディンの遣いだったのか……だから、俺を助けてた?」  ロキの問いにガイドは僅かに首を揺らした。頷いたのか、首を横に振ったのか、ロキには判断がつかなかった。 「僕の名前はミーミル」  ガイド改め、ミーミルはそういうと、握手を求めて細い指を揃えた手のひらをロキの前に差し出した。 「ミーミル……どこかで聞いたような……」  ロキはミーミルの手を握り返した。まるで血が通っていないかのように青白く冷たい手だ。 「ヴァルハラの預言者ミーミルなんて呼ぶ人もいるよ」 「あっ、そ、そうだ! ミーミルの予言!」  ロキはついつい声を大きくした。 ――預言者ミーミルが仰いました。黄昏が近づいていると  ロキの頭にあの夜の鴉の言葉が思い出される。預言者ミーミルは、神々の黄昏を予言したその人だ。 「かわいそうに、随分と酷い扱いを受けたね?」  そう言って、ミーミルは握ったロキの手を返し、痣のついた手首を撫でた。  ロキがこの神殿に来てからすでに十日以上が経っている。  その間幾度となく、ロキはオーディンの寝所を訪れ、器を作るべく交わりを求めたが、オーディンは頑なにそれを拒否していた。  部屋の外へ閉め出されるのはまだ良い方だ。昨夜のように縛り上げられた挙句に頭から水差しの水をかけられることもしばしば、加えてオーディンは何かの恨みをぶつけるかのように、侮蔑の言葉をロキに向かって吐き捨てるのだ。  ロキは鴉から与えられる薬湯で昂った性を吐き出せないまま、苦しい夜を過ごしている。それを見るオーディンの表情は、いつも嘲るように笑っていた。 「オーディンは自らオメガを求めてたんじゃないのか……だから、遣いをよこしたんだと思ってたのに」  ロキは誰にも吐き出せなかった言葉を、ミーミルに向かってポツポツと話し始めた。

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