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16-4.

 ミーミルは不思議な雰囲気を持つ男だ。その冷ややかな手がロキの痣やまだ微かに熱った額に触れるのが心地よい。  オーディンは悪魔のように卑劣だし、トールはどこかロキとは一線を引いている。ロキはこの神殿で気を許せる相手を心のどこかで求めていたのかもしれない。 「意味がわからないんだ。せっかく覚悟を決めてきたっていうのに……俺だってほんとは、こんなことやりたくない。でも、器を作らなきゃ、黄昏が防げないんだろ?」 ーー黄昏を防がなければ、世界が終わってしまうのだ。愛する人と生きるためには、オーディンの器を作らなければ……  ロキの言葉にまた、ミーミルは曖昧に頭を揺らした。 「おや、こんなところにも痣が」  そう言って冷たい指が首元に触れた。  まだ薬が抜け切らずに敏感な部分に触れられて、ロキは小さく息を吐く。 「絞められたのかい?」  ミーミルはロキの首についた痣を見てそう尋ねた。 「ああ、掴みかかって押し倒そうとしたら逆に首を抑えつけられて、その後は、まあ鎖で縛り上げられた」 「君はなかなか無茶をする」  ミーミルに言われて、ロキは自嘲気味に笑った。  確かに、無茶だ。オーディンはロキの首を片手で掴んだ。相手が最高神であることを置いても、体格差が大きい。 「ロキ、少し顔が赤いね?」 「ああ、うん……薬が残ってるんだと思う」 「鴉に薬湯を飲まされてるのか、僕のあげた薬はどうしたの? あれを飲むといくらかマシになると思うよ?」 「人に預けた。ここにいる間は、必要ないと思って……」  しかしおそらくオーディンは、オメガの香りに影響されないため、何かを服用している。最初の夜から水差しの水に混ぜていたものがおそらくそれだ。 「そう。でも、気をつけてね? その匂いは、あらゆる人を誘ってしまうから」  ミーミルが言った。  ロキは顔を上げ、ミーミルの様子を伺う。 「あんたは……平気なのか?」  トールですら、ロキの匂いに当てられている様子があった。それなのに、ミーミルは凪いだような緩やかな笑みを浮かべたままで、その表情に昂りは見て取れない。 「僕は、そういうのを感じられないから」 「そういうの……?」  ロキが尋ねると、ミーミルはゆっくりとベッドの縁に腰を下ろした。 「性の快楽も、味覚や痛覚もない、誰かに触れても、触れているとわかるだけでその温度は感じない」  そう言いながら、ミーミルは自らの首元の傷をさする。改めて見ても、眉を寄せたくなるほど痛々しい痕跡だ。首周りをぐるりと一周したその傷は太い糸で縫い合わされている。 「その傷、どうしたんだ?」  ロキは尋ねた。  するとミーミルはゆっくりとその瞳をロキに向ける。 「昔ね、ずっと昔、ヴァン神族とアース神族が争っていた頃に、僕はアース神族からの人質としてヴァン神族に差し出されたんだ」  それを聞いて、ロキはレイヤの話を思い出した。  ヴァン神族であるフレイとレイヤの父親が、アース神族に人質として差し出されたと言っていた。つまり、その時にフレイたちの父親と、ミーミルが交換されたということのようだ。 「え、でも、なんでミーミルは今ここにいるの?」  人質として差し出されたミーミルが、今もアース神族であるオーディンの神殿にいるのはおかしな話だ。 「一緒に人質になったやつが、相手の不興を買ってね。ヴァン神族(やつら)は僕の首まではねたんだ」 「え、く、くびをはねた?!」  にわかには信じがたいミーミルの発言に、ロキは目を見開いた。 「そう、それでアースガルドに放置された僕をオーディンが見つけて……」  そこまで言って、ミーミルは再び首の傷を撫でてみせた。 「オーディンが繋ぎ合わせたのか?」 「まあ、そんなところだね」  ロキは、大きく息を吐いた。一度はねられた首を繋ぎ合わせるなど……神と人間との圧倒的な違いを思い知らされた気分だ。 「それにしてもロキ、毎夜薬湯を飲むのはあまり体に良くない。まともに相手をしてもらえないのでは、余計に苦しいだろ」 「まあ……うん、でも、早く終わらせたいんだ」 「終わらせる? 早くオーディンの器を作りたいってことかい?」  ミーミルの問いにロキは頷いた。 「そう、待ってる奴がいるんだ。全部終わったら、ヴァルハラにじいちゃん迎えに行って、そいつと三人で暮らすって約束してる」 「ヴァルハラ?」  ミーミルが眉を上げて首を傾げた。 「あ、ヴァルハラってここのことじゃなくてさ。もう一つあるんだろ? 本物のヴァルハラ。そこにじいちゃんがいるんだ」  ロキが言うとミーミルは少しの間押し黙った。  そして、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開く。 「ロキ……本物のヴァルハラというのは、つまり……」 その後に続いたミーミルの言葉に、ロキの感情は打ち砕かれた。

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