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23-1.ユグドラシル

◇◆◇◆ ――なんだ、これは……  ロキは言った。  自分の声が遥か遠くに掠れていくような、朧げな感覚だ。  暗い空間にアースガルドでフェンと共に見上げた夜空の星粒のような光がいくつも散りばめられている。  自分の意思は一度途絶えた。あれはおそらくフェンに飲み込まれたからだ。  そして、今見た記憶は……ロキが知らない……前のロキ、爺の記憶だ。 ――オメガの赤子  誰かが言った。聞き覚えのある声だ。  ロキは足元さえも見えないその空間でぐるりと視界を回した。その一点に光をみつける。その姿に、ロキは記憶に出てきた名前を呼び起こした。 「バルドル⁈」  その名を口にした途端、自分の声がきちんと自分のものとして感じられた。  目の前に立つバルドルは頷いた。 「ああ、そうか、お前の名前もロキだったな?」  記憶にあった通り、張りがあって通る声だ。  初めて会うというのにひどく懐かしく感じるのは記憶に同調しすぎたからだろうか。 「俺、なんで……あんな記憶を見たんだ? それに、バルドル、あんたは冥界に堕ちたはずじゃ……」  そこでロキはハッと息を飲んだ。 「俺、死んだの……?」  一度冥界に踏み入れたことはあるものの、ここが本当の死後の世界だと言われれば、ロキは納得する。しかし、バルドルは首を振った。 「違う、ここは……そうだな、心理とか記憶とかそういう形がなくて曖昧なものの中だ」 「曖昧な、もの?」  ロキはバルドルに問い返した。 「そう。曖昧なもの」 「それは、そのぉ、俺の深層心理みたいなもの? さっき見たのも、じいちゃんの記憶とかじゃなくて、ただの俺の妄想? 目の前にいるあんたも幻覚?」  ロキがさらに尋ねると、「深層心理なんて難しい言葉よく知ってるな」と小さい子供にいうみたいに、バルドルが笑った。 「ロキ、お前と一緒に鴉が飲み込まれただろ?」 「鴉……あ、う、うん!」  直前の記憶を辿ると、確かに鉱石の光に反応した鴉がこちらに飛んできて、ロキと一緒に飲み込まれたような気がする。 「あいつはオーディンの遣い、ムニン。ムニンは記憶を意味する。あいつがお前に記憶を見せたんだ」 「き、記憶……誰の?」  オーディンの鴉はほとんど神殿にいたはずだ、それがなぜ神殿を出てからの爺の記憶を持っているのか。 「ここにいる全員の記憶さ、フェンリル、オーディン、ムニン自身の記憶と一緒に飲み込まれたロキ……赤子の頃の君の記憶、それから……」  そう言いながら、バルドルは自分の胸元を指差した。 「俺の記憶」  バルドルの言葉にロキは首を振った。 「あんたはここにいないだろ? 一緒に飲み込まれてもいないはずだ」  バルドルは笑った。  そして何か言おうとその口が動いたが、誰かに呼ばれたかのように、ハッとその動きを止める。 「だめだ、そろそろ起きる時間だ、ロキ」 「え? な、なにっ?」 「あいつがお前を呼んでる」 「あいつって誰だよ!」  ロキは声を荒げたが、バルドルは答える気がないようなそぶりでゆっくりと遠ざかっていった。 「ロキ、大丈夫だ。俺は黄昏の続きを予言した。ここから先は何もかも上手くいく、オーディンを信じろ」 「はっ? 信じろって……ちょ、ちょっと待ってよ!」  ロキは手を伸ばしたが、伸ばしたはずの自分の手が見えない。  バルドルの体は光を放って霧散したのち、また一つに集まり朝日を宿したような鉱石に変わった。それはロキが冥界から持ち帰った、あの光だ。

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