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ヤマアラシの憂鬱
今朝からそわそわし続ける秘書に、ハリーは「しっかりしろよ、鬼軍曹」と、てんで屈託がない。
「大丈夫さ。君みたいな戦場の英雄なら、老人達も受け入れてくれるし、みんな背筋を伸ばして話に聞き入る」
秘書という立場でも、何か出来ることはないかと思いきってヴェラスコに尋ねてみた。と、待ってましたと言わんばかりに食いつかれたのが二日前のこと。それまで向けていた邪険な苛立ちが嘘の如く、どっさり資料を送り、会話における想定問答まで手ずから作成してくれた。
恥ずかしくはない数の武功を立てた身だが、これまでモーは、地元在郷軍人会の会合に出席したことなど数えるほどしかなかった。それだって、ハリーの秘書になってからは足を向けることを止めている。別にPTSDも無いし、かと言って従軍していた頃の出来事は、とりわけ自慢する話でもないと思っていた。黴臭い会館で、耳の遠い老人達が大声で喚く思い出話へ相槌を打ち続けるなんて。それならショッピングモールのフードコートへ居座り、たった今映画館で観た三流アクション映画について同僚と話をしている方が幾分マシなような気がする。
「最近親戚の間でもトランプ支持者が増えていますし、少し肩身は狭いです」
大統領選で共和党に一票を投じるのは勝手だが、この街の市長選でスティーブンス優位に立たれるのは困る。
「既にハワード・スティーブンスは演説に行ったらしいからな。今すぐ僕が乗り込むのも態とらしい。まずは君が下地作りをしてくれると助かる」
スーツから私服に着替えた姿を上から下まで眺め渡し、折れ曲がったネルシャツの襟を直してやりながら、ハリーはふふっと含み笑いを零した。
「僕は随分と幸せ者だよ。こんな垢抜けない格好をしていても、いや、だからこそ素朴で、優しくハンサムな秘書があれこれ世話を焼いてくれるんだから」
垢抜けない、素朴な秘書として知られる海兵隊員、モデスティ・テートが、街の市長とねんごろだと知ったら、頭の硬い老人達はどんな反応をするだろうか。
寧ろ逆なのかも知れない。こんな地方都市では眩し過ぎる程に洗練された敏腕弁護士、イーリング市を率いる希望の星、ハリー・ハーロウが、一介の秘書に秋波を送る。彼の隣に並ぶのは、例えば都会人を絵に描いたようなエリオットや、ハリーの右腕として活躍していた才気に溢れるヴェラスコが相応しいのでは。
時たま胸を過ぎる気後れを発見する度、ハリーは「君は傲慢だ」と笑い飛ばす。
「僕の審美眼を信じないのか? 君が僕を選んだんじゃない、僕が君を選んだんだぞ」
いくら励ましや甘い賛辞を雨霰と降らされても、腹の底がむずむずするような感覚は一生消えないのだろう。このちょっとした緊張感が、目の前の男を一層愛する為の起爆剤となる……
今日何十回目かのくしゃみを零したモーが、ハンカチを退けるや否や、ハリーは軽く伸びをするようにして潤んだ目を覗き込む。
「花粉症か?」
「ええ、多分……いや、近頃朝晩が冷えるので」
「風邪か。コロナじゃないだろうな」
赤らんだ鼻に戯れの口付けを与えるだけでは物足りなかったのだろう。モーの頬に手を当てさせ、俯くようにねだる。
「会合で伝染して回るなよ。貴重な有権者を殺したら大変だ……いや、いっそ減らした方がいいのかな」
「俺が説得してきますよ。全員の票を取り込めるように」
勇ましい宣言に、ハリーは機嫌の良い猫じみた形へ目を細めた。
「大殺戮は困るが……確かに、風邪は他人へ伝染した方が手っ取り早く治るって言うもんな」
触れ合わされた唇は、たちどころにこちらの防衛線を突破する。ぺろりと舌先で口腔内を舐めれば、歯磨き粉の味がしたらしい。「爽やかだな、珍しく」熱の上がった頬を指の背で撫でながら、泡のような忍び笑いを弾けさせた。
本当は、自身としては、彼が愛してくれるだけで十分なのに。彼は世界に愛されなければならない、今以上に。何て因果な事だろう。
「そんなに気が進まないなら、無理しなくて良いんだよ」
助手席からそう諭すエリオットの言葉付きには、冗談など欠片も含まれていなかった。
「まるで前線へ赴くみたいな顔してる」
「正直、戦闘に巻き込まれた時よりも緊張してます」
落ち着け、何を言っているんだ。バグダットの市街地で、前を進む新人の一等兵が、いきなり狙撃手に頭を撃ち抜かれた時の方が、遥かに恐ろしかったに決まっている。
そう幾ら心の中で唱えても、表情筋の強張りは全く解消されない。
「大袈裟な奴だな。どれだけジジイに罵られても死にゃあしねえよ」
自己暗示の呪文もしかし、特に反りの合わない人間から掛けられると反発を覚える。ハンドルを操るゴードンへ半眼を向け、モーはまた一つくしゃみをハンカチに放った。反抗は機敏に察知される。信号前の乱暴なパッシングは、ここのところ足早に訪れる日暮れ後の世界を、八つ当たり同然に貫いた。
今夜戦略官チームが顔を出すユダヤ・ロビー団体とは、関係構築が捗々しくないのだと、事前の打ち合わせでもハリーが憂鬱な表情を浮かべていた。途中だから乗せて行ってあげるよ、とエリオットが提案したのは、彼らが自らをあくまで埒外と見做しているからだ。
だがマスコットが暗い顔をしていたら、場の空気も和まない。
「親父さんはクウェートで戦死、自分は勲章を6つも貰ったヒーロー。申し分ない経歴だろ、なんでそんな、元仲間を怖がるんだよ」
「あんたも来てみれば分かります」
手の中のスマートフォンは画面が明るくなったり暗くなったり、振り返ったゴードンの胡乱げな顔を照らしつける。ヴェラスコがメールしてくれた模範回答は今朝から何度も目を通しているのに、殆ど頭に入って来ない。
「あそこはまさしく敵陣です。昔はそうでもありませんでしたが、市長付になってからは」
「南部民主党なら、下手な共和党よりも保守なんだけどね。ここじゃあ……」
己の言葉が全く慰めにならないと、優しいエリオットはすぐに理解する。ふうっと肩が上下するほど大きく息をついて、ヘッドレストに後頭部を押しつけた。
「私達が今から相手にするのも、熱烈な共和党員だ。お互い頑張ろう」
「これが、ヤマアラシのジレンマって言うんでしょうね」
『Q:カトリックでゲイの市長という時点で矛盾した思考の持ち主だ、信頼が置けない。
A:ヴァチカンは同性カップルにも祝福を授けると公式に発言している。それにハーロウ氏は現在、公務にかまける余り、私生活においてパートナーを求める予定はない。また彼の考え方はバラク・オバマよりも中道右派だ』
嘘と真実が混ぜ込まれた言葉を人は信じる。それに、やはり結婚しなくて正解だったじゃないか。張り切っていたヴェラスコには申し訳ないが、モーは過去の行動を思い返すことで、ゼリーのように震えている己の勇気を懸命に宥めようとした。
「こちらは渋々ではあるものの、相手へ歩み寄ろうとしているのに、向こうは敵意を向けてくる。傷付くのはこちらばかりと言うことになりかねません」
「ショーペンハウアーの言わんとしていた事とは違うように思うが、それが君の考えなんだろうね」
弄っていたスマートフォンに、何か思わしくない情報が飛び込んできたのだろう。「ああ、全く」とうんざりした様子で呟き、エリオットは目前に迫った退役軍人会館へ横目を這わした。
そして驚くべきことに、ゴードンまでもが路肩に車を寄せて、ブレーキを踏むのだ。
「なあ、モー。お前今、傷付くって言ったよな」
「俺は構わないんです」
何よりも困惑するのは、そう言い当てられた時、己が胸を殴られたかの如く、一瞬息を詰まらせたことだった。
「俺は別に……ゲイだと言われても、陰口を叩かれても平気です」
この車内にいる人間どころか、あの会館の中にいるお歴々の中でも、自らのフィジカルは逞しいと、確信を持って答えることができる。なのにモーは、己が弱くなってしまったと、認めざるを得なかった。
「ですが、ハリーが非難されるのは辛いし、耐えられない……許せないかも知れない」
誰かを愛すると言うことは、脆くなることなのだ。そんなこと知る必要はなかった。知りたくもなかった。
前の席の2人、どちらが溜息をついたのだろう。
「良いんだよ、モー。それで良いんだ」
取り敢えず、最初に口を開いたのはエリオットだ。
「おう、気にせずやってこい。万が一爺さん達をノックアウトしちまったら、こっちで何とかしてやるよ。そもそも、在郷軍人会なんて端から頭数に入れちゃいないんだ」
そう煽り立てるゴードンは、間違いなく面白がっていたが、何故だろう。車から追い立てられた時、モーは先程まで頭の中へ垂れ込めていた鬱屈が、溶けるように晴れるのを感じていた。
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