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ナッシュ均衡の闖入者
この2時間ほど、エリオットは「逃がした魚は大きい」と、「私は恐らく、彼を愛していたんだ」と、後はなんだ? とにかく5個程の文章をひたすら使い回している。だからゴードンも、いい加減語彙が尽きて、ありきたりの台詞を与えるしかない。彼を慰めてやりたいのはやまやまだったのだが。
「辛いのは分かるよ。あんたも知ってるだろう、俺だって娘達の母親と離婚した時は滅茶苦茶落ち込んで、この世の終わりみたいに思ったもんだ。けれど残酷な話だが、失恋の傷ってもんは、案外簡単に癒える。時間さえ経てばな」
「分かってる」
と、エリオットは呟いたのだと思う。カウンターに突っ伏したままなので、口籠もりは益々不明瞭さを増す。
恋多き分、破ったり破られたりしたら盛大に癇癪を破裂させて、後はすぐに立ち直るこの街の市長とは違う。この戦略官殿はささやかで、慎ましい愛を育むタイプだ。それ故に、一度挫折した時の衝撃が大きいのだろう。
ホームセンターの王子様から送信された「元部下の結婚式は盛大だ、コメディアンのビリー・マクギーが来ていた」のテキストに続けられたのは「昨日は一日、妻や子供達と一緒にゆっくり過ごした。穏やかな時間を持てたし、俺達は元の道へ戻ることが出来ると思う」と言う、キラキラした自信にまみれたメッセージ。
こうして、偉大なるエリオットの淡い夢想はまたもや砕け散った。
「最初からそこまで期待しちゃいなかっただろ」と事実を突きつけるのは余りに哀れだ。彼の前を通過して行ったジム・ビームのグラスも、途中で数えるのをやめた。
「元の道か!」
「所詮王子様は、特殊部隊の英雄って事さ。これは認めなきゃならないぜ、エル。奴は根幹的に異性愛者だった」
鼻を啜ったのは、もしかして泣いているのだろうか。心配して覗き込めば、雰囲気を作っているのではなく、単に電球代をケチっている場末のバーの照明の下、目尻に雫が浮かんでいる様子はない。飲み過ぎて鼻の粘膜がやられているのだろう。腕枕で歪む眼鏡を外してやりながら、ゴードンはうっすら汗ばみ、体温の上がった肩を叩いた。
「ほら、いつまでもしょぼくれてちゃいけない。もうすぐハリーが来るぞ。そんな情けないツラ晒す訳には行かないだろ」
「晒せない」
ハリーの名前が出ただけで、閉じられていた瞼が渋々とは言え開くのだ。流石エル・エリオットと称えるべきか、我らが市長の効果がどれ程覿面かを恐れ慄くべきか。
「私だって分かってるさ。もう惚れた腫れたなんて年頃じゃない。そう言うのは十分だと思っていた」
のろのろと身を起こしざま、礼儀正しく無視を決め込むバーテンダーに、更なるウイスキーのお代わりを所望する。まだグラスに半分程中身が残っていると気付けば、一息に煽ってしまった。
「ただ、私にも必要だったんだ……熱狂の中の落とし所が」
腹上死した死体を前にしてもてきぱきと指示を飛ばし、骸の顔をスコップで叩き潰していた男にでも、柔らかい部分は存在するのだ。その事実へ失望を抱かなかった己に、今更ゴードンは驚かない。寧ろこんな時いつも感じる、じんわりとした親しみを胸の中で転がし、堪能していた。
大体、これはいつもの嘆き節と違う。確かに己達は仕事の上で阿吽の呼吸を保ってきた。いつもどこかで、微かな違和感を覚え続けたとしても。
悲しい事に、ゴードンは己を理知的な人間だと認じていたので、この感覚の正体を知っていた。上手く妻子を愛する事を放棄した男と、オープンリーゲイとしていつかは誰かを愛するつもりの男。
けれど今、2人の苦痛には、全く同じものが根差している。
噂をすれば何とやらと言うには少し遅い。ハリーが店の扉を潜る頃、エリオットはもう、しょぼつく目を眼鏡のレンズの向こうに隠してしまっていた。
「うわ、エル、君随分と酒臭くないか」
「大丈夫だよ。飲酒運転では引っ掛かるかも知れないが、頭は至って冴えてる」
答えが幾分鼻声で返されるのに、間違いなく不審を覚えたことだろう。だが結局ハリーは、二人の男の間に身を割り込ませると、バーテンダーにビールを注文した。
「それで、君は話を聞いて欲しい?」
「いいや」
「ったく、セラ・ハウス派(スタンフォード大学経済学部)が聞いて呆れるな」
「私は合理的選択理論を全面的に肯定している訳ではないよ」
茶化した途端、間髪入れずに叩き返された答えへ、ゴードンは芝居掛かった風で両手を掲げてみせた。
それからのエリオットは、先程までのめそめそした態度を完全に封印し、戦略官役へ徹した。在郷軍人会での一悶着の翌日、まるで雨に打たれた犬のような顔で登疔してきた市長付秘書は、珍しく後悔を引きずり続けているらしい。そんな程度の失態、市庁舎の2階にある電子レンジでアルミホイルを巻いたピザを温めて爆発させた時よりもよっぽどマシだと言う部下達の分析に、ハリーは「そうだよなあ!」と食い気味に首肯した。
「彼はここのところ、僕に対して酷く責任を感じているらしいんだ」
「忠誠心が厚いってことだよ」
「うーん、けど、それだけじゃないような気も」
「取り敢えず、元空軍少佐でしたっけ? 胸倉を掴んだ位じゃ『イーリング・クロニクル』の穴埋め記事にもなりませんよ。そうでなくてもこの市の支部は平均年齢が高くて、旧態依然なことで有名ですし」
「あと、この話を流したら、非営利団体の『軍機構と性的少数者の関わり是正を目指す委員会』から献金の申立てがあった。確か昨日メールを送った筈だが」
両側から捲し立てられ、今度はハリーが頭を抱える番だった。
「君達は、陰謀を企むとなると、夜中でも立ち所に元気を取り戻すんだからな!」
「これは一種のゲームみたいなものですよ」
どうせ己は、それとも己達と大見得を切ってしまっていいのだろうか? 先程エリオットは否定したが、結局のところ、ゲーム理論の中で生きている。しかもここ最近は楽観的に、ミニマックス戦略よりマクシマックス戦略を取りがちだった。
自ら達をこうさせたのは、他ならぬハリー・ハーロウ。のんきで、気が良くて、何もかも飲み込んでしまうとんでもない度量と貪欲さの持ち主が、強みを伸ばした──例えそれが、世間的には脅威としかならない才覚であったとしても。
ベルトウェイ(ワシントン政界)に出入りして提言をするシンクタンクの職員は、人の心すらも完璧に分析できるものとして扱う。そして冷静冷酷な思考を以って全てをばらばらにしたら、髪の毛の一本まで余さず用いて敵を攻撃する。ノーベル賞学者のトーマス・シェリングが言っていた通り、「交渉能力とは、相手を傷付ける能力のこと」なのだから。
つまり、こちらが傷付けられたと言うことは、既に敵へ急所を握られたのに等しい。それなのに、熱心に論を張って興奮し、酔いが回ったらしい。ゴードンがPAC(政治活動委員会)から他議員に流れる企業献金について、最新情報を披露している間、エリオットは頬杖の上でこっくりと頭を揺らす。
「ほら、エル・エリオットはすっかりお疲れだ」
「疲れてないさ」
ハリーが肩を揺さぶれば、頑張ってしばらくは目を見開こうとするものの、すぐさま怠そうに何度も首を振る。
「そんなことはない、絶対に」
「だめだめ、今夜は車で来てるのか」
「俺と一緒に来たんですよ、送ります」
「ついでに僕も乗せてってくれ」
酔っ払いの背中を押すようにして店の外へ追いやりながら、ハリーは「今夜はエルの家に泊まろうかな」などと宣う。
「だって、王子様は留守なんだろう?」
「ああ、ニューヨークに行ってる。足を捻挫してる元部下の結婚式さ」
そう吐き捨てるエリオットの表情は、州銀行がヤンファンとスティーブンスにばら撒いた献金額について、一頻り考察していた時と同じ微笑を象っていた。
「詳細を知りたいんだろう」
「いいや」
並んで後部座席に乗り込みながら、ハリーは首を振った。
「僕は確かに明け透けな性格だが、同時に高潔なことで定評があるんだ。けれど」
恐らく、水の中で聞く程度にしか響かないだろうエリオットの鼓膜へ向かって、ハリーは囁いた。
「一つだけ聞きたい。二人で面倒を見てたランブルフィッシュは、まだ君のところにいるのか」
すっかり呆れ返りつつ、運転席でハンドルを握った時、ゴードンもふと連想したものだった。もしこれからファックをするとしたら? あれだけぐでんぐでんで、エル・エリオットは勃起するのだろうか。
高潔なんて糞食らえ。どんな条件を設定して理論を用いても、ハリーはいつだって最高のパフォーマンスを見せてくれる。腹の底から湧き上がる英気が例えアルコールの力を借りたものであるとしても、ゴードンはすっかり発奮してアクセルを踏み込んだ。
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