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真夜中の間違い電話

 気配を感じて目を覚ます。思わず唇に指で触れて寝返りを打ち、隣で眠っている男を探すが、影も形も見当たらない。「ハリー?」  ベッドから身を起こし、モーは辺りを見回した。シャワーだろうか。いや、さっき浴びていたはず。それにもう、時間は──ナイトテーブルに乗せた腕時計が示すところ、深夜2時前。  微睡んでいたのは20分? いや、30分ほどか。家へ引き込まれてベッドで体を重ねたのが日付の変わる前。「泊まっていけよ。明日はハウスキーパーも来ないから、僕が特製のコーンビーフ・サンドを作ってやる」終わった後、オーガズムで幾分舌足らずになった口調にそう誘いをかけられれば、受け入れる以外の選択肢はなくなる。すっかり油断していた。  ハリーが横たわっていたはずのシーツは、ついさっき交換したこともあって、持ち主のよすがを無慈悲なほど匂わせない。本当に、彼はどこへいったのだろう。探しに行こうとして、床へ足を下ろしたとき、濃い冬の闇に閉じ込められていた世界へ、電子的な明かりが灯る。  けたたましい着信音を鳴らすスマートフォンがハリーのものであることに、僅かながらも安堵を覚える。液晶の表示に眉を顰め、モーはアイコンをタップした。 「何で君が」  電話口のヴェラスコは、応答したモーが返事をする前に「あ、言わなくていい」と切り捨てる。 「ハリーはもう寝た?」 「起きてる……多分トイレだろう。そっちはまだ市庁舎か」 「いや、選挙事務所。こんな時間で悪いけど、ちょっとハリーに確認したいことがあって」  口で言うほど悪いと思っていない証拠に「この案件が片付いたら帰るつもり」と罪悪感へいけしゃあしゃあと追撃を加えてくる。鵜呑みには出来ないと思えるほどには、モーもこの世界で適応していた。 「トイレだって? 寝てるんだろ」 「いや、本当にいない。俺も今、目を覚ましたばかりで」  いつの間にか暖房が切れていたらしい。下着一枚でいることへ、突如肉体が拒絶反応を示す。椅子へ畳んで置いてあるスラックスとワイシャツを手繰り寄せ、モーは首を伸ばして、半分ほど開いたドアの向こうを覗いた。 「明日に出来ないか。ハリーは消耗しきってる」 「君が消耗させた癖に」  ハンっと鼻で笑うヴェラスコの他にも、事務所には誰かがいるのだろう。「そこに置いておいてくれ。ビッグマック? いいよ、君らが好きなのを選んで」 「この時間にハンバーガーなんて」 「余計なお世話。2Hだってシャワーを浴びた後に冷凍ピザを食べたりするじゃないか」 「最近は控えてる」  あくまでも控えてる、だ。もしかしたら、本当に冷蔵庫の前へしゃがみ込んで、ハウスキーパーが作ったポレンタの包み揚げを電子レンジに入れるか、モーが持参したおばあちゃん謹製のワカモレをタコスに挟むか、じっくり考え込んでいるかもしれない。もう一度、寝室の外へ視線を投げかけながら、モーは首を振った。 「用件を教えてくれ。明日の朝一番に、ハリーへ確認して貰うよう、リマインダーを入れておく」 「あー、もういい。こっちで何とかするから」  そう言いっぱなしで通話を終える気ままさへ、何とか出来るなら電話して来なければいいのに、と思わず内心でぼやく位は許されるはずだ。2時過ぎ、ハリーはまだ戻ってこない。  頭が動いてきたら催してきたので、トイレに向かう。再びに鳴り出したスマートフォンの発信者へ一瞥を落としてから無視して、そのまま膀胱を空にしに行った。結局、戻ってきてもまだしつこく主張する甲高い音に対する舌打ちは、繋がった相手にも届いたのだろう。 「お前今、舌打ちしただろ。さてはまだ2Hにぶち込んでるな」 「舌打ちしてもぶち込んでもいません。緊急案件ですか」 「今夜、と言うか昨日のゴールデンタイムから、ヤンファンがCMを切り替えた」  嫌味を口にする時間も惜しいと言わんばかりに、ゴードンはさっさと用件を切り出す。 「攻めた内容で、ハリーへの攻撃もかなり入ってる。こっちも急いで第二弾のコマーシャルを打たないとまずい。朝中に概要を作って正午までに広告代理店へ持ち込めば、明後日の土曜日から流せる……くそっ、まさか彼女がそこまで宣伝費に資金を割いてくるとは思わなかった。誰か新しい後援が付いた可能性が」 「今日の正午までですね」  立板に水の勢いで捲し立てられる、もはや独り言に近い連絡に、慌ててナイトテーブルを漁る。手探りをしても筆記具が見つからなかったので、仕方なく充電していた己のスマートフォンを取り上げた。ぶちりと、明らかにケーブルのコネクタ部分で嫌な感触がした事など、この際構っていられない。 「分かりました。明日の朝一番に確認するよう伝えます」 「いいから彼を電話口に出せ。てか、今どこのモーテルにいるんだ」 「ハリーの家です。彼はいません。多分、家の中に……もしかしたら、外出したのかも、コンビニかどこかへ」 「夜の2時にか? 何やってんだ、お前、彼のとこに上がり込んでるんだから場所くらい把握してろ!……おい誰だよ俺のポテト食った奴!」  口を開けば開くほど勝手に激昂するゴードンの性質へ、普段ならば間違いなく軽蔑の情を覚えているはずだ。けれど今回ばかりは、大人しく項垂れているしかない。  この4年、ハリーは相手の家へ赴くことこそあれど、己以外の部下を自宅へ連れ込みはしなかった。「君の家には怖いおばあちゃんがいるし、それに、これはファンへの特典サービスだよ」とよく分からないことを言っていたが、とにかくこれだけは間違いない。己の愛は、彼にとって特別な何かを感じさせるものがある。  その立場へ甘んじていてはいけない。そう何度気持ちを戒めても、彼への愛情や執着が強くなるばかりで、時に自分でも怖くなる時がある。 「朝8時には出勤させますから」 「7時」 「分かりました」  落ち込んで呻吟しても、辛辣さは手加減されない。 「もしも遅刻させたら、お前は手前勝手な忠誠心にかまけて、2Hが一番望んでることを台無しにするクソ野郎ってことになるからな。それだけは覚えとけ」  何もそこまで、と抗する資格なんて、勿論ありはしない。  7時に出勤するならば、後3時間は眠れるだろうか……いや、それよりも、まずハリーを探さなければ。まさか本当に出かけてしまったのだろうか。スマートフォンも持たずに?  キッチンに明かりが灯っていないのを確認し、本格的に外へ探しに行かねばならないかと、膨らむ不安を抱えながらリビングを横切った時のことだ。視界の端で揺れるカーテンが、脳内へひやりと覚醒をもたらす。  もう随分と長い時間、佇んでいたに違いない。バルコニーの手すりに凭れ、8階からの夜景を眺めるハリーは、ジャージの上にダウンジャケットを着込むことで、一応は寒さを防いでいるつもりなのだろう。けれど隣に並んだモーが寄りかかる、煉瓦タイル張りの腰壁は、易々と人から熱を奪う。夜風は寝乱れたハリーの前髪を揺らすどころか、頬や鼻先を赤く染め上げる勢いだった。 「風邪引きますよ」 「もう戻る」  まだ夢の中へいるような口調。一向にこちらを振り向いてくれない、ぼうっと滲んだエメラルド・グリーンのまなこ。何もかもが得体の知れない物に感じて、恐ろしい。せめて理解したくて、ハリーと同じ方向へ視線を投げる。  帰宅するたび、ハリーは遠目に臨むニボ山を目にして、何を思うのだろう。気付いていないはずはない、そこまで彼は弱くない、いっそ哀れさを催すほどに。  丸められた背中へモーが手を伸ばそうとする寸前、スラックスの中からバイブレーションが腿をぶつ。開口一番、エリオットは「さっきメールフォルダにデータを送った、新しいCMの概要だ。出来れば登庁する前に目を通しておいて貰いたいんだけど」と、ある意味この深夜に相応しい穏やかさで告げた。 「分かりました。ハリーは今」 「いないんだろう、分かってる……油物は結構、サラダをくれ」  背後でヴェラスコがスタッフへ飛ばす叱咤も、ゴードンがまたポテトについて喚く詰問も、軽く立てられた笑い声は難なく往なす。 「君が融通を効かせず行く手を阻んでくれないと、私達はハリーを容赦なく引き摺り出すからな」 「エルか。まだ仕事を?」 「朝になってからで大丈夫だそうです」 「そうか」  それ以上言い募らず頷く抑揚が平坦なのも、じっと見つめ返す瞳が澄んでいるのも、情交の後の疲弊が原因だろう。 「俺が起こします。少しでも寝てください」  そして、己はこの肩に乗っている重荷を減らす為に、間違いなく役立っている。  二つの願望を信じ込もうと頑なに努力することで、モーはようやく望み通り、ハリーの体をその腕へ抱えることを許された。

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