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犬以下の行いについて
昨日テレビ局のスタジオで繰り広げた舌戦が嘘のよう。良識のある大人として、また政治家として当然の話なのだが、それにしたってハリーのにこにこ顔には、全く恐れ入るという他ない。
「トーニャ、今日は記念すべき日だね」
「あら、ハリー」
高所の苦手なハリーが、わざわざ議事堂へと向かうガラス張りの渡り廊下で呼び止めるという行為に、間違いなく好奇心を掻き立てられたのだろう。早足で歩み寄ってきた対立候補に、ヤンファンはこれまたしたり顔で片眉を吊り上げてみせた。
「今日がどうしたの。何かサプライズでもある?」
「意地が悪いな、君は」
投げかけられた、いかにも同情を求めていると言わんばかりな哀願の視線。勿論背後に控えるエリオットとヴェラスコは澄ましたまま、莞爾と受け止める。部下と、総ガラス張りの壁面が余すことなく通過させる朝日に加勢されたハリーは、その微笑を益々天真爛漫な色で輝かせた。
「だが僕は知ってるぞ。君も僕も、根っこのところは善人さ。人の役に立つって、素晴らしいことだよな」
役へ立つにしても、遅きに失した感が否めない。そんなことは誰だって分かっている。
やっと沈静化したと思ったのも束の間。再びじわじわと頭をもたげて来たCOVID-19は、まさしく絶好の時流で再脚光を浴びたと言える。
マジョリティ市民が未だ潜在的に隠し持つ、田舎の農夫じみた差別意識を払拭するとテレビカメラの前で宣言したのは建前だけではない。ハリーとヤンファン、市に二人しかいない民主党派の市会議委員が必死で根回しした結果、ヤンファンが根気良く持ち出すアジア系市民への差別撤廃に関する議案は、ほぼ完璧な形で通過する。
「来年の春節からは、伝統的な形で祭事も開催できる。それにポーリーも、チャイナタウンへの警邏を今以上に強化するって言ってたし」
「あのね、ハリー。あなたが特別だと思ってる配慮は、チャイナタウンの人達が当たり前に手に入れていなきゃいけないものなの」
前職で出来の悪い生徒へ言って聞かせていたのと、今のヤンファンは全く同じ口調を作っているのだろう。凛とした横顔は素晴らしい冷静さと、情け深さを同居させている。
もしも去年くたばった、この街の民主党のドン、ルイ・ブルックスが、ハリーではなくヤンファンを市長選へ推していたら。未来を算定するのは、エリオットでなくても難しくなかっただろう。彼に連れて来られた自らはこの女性の下で働いていたことになる。その暁には、きっと今と負けず劣らず素晴らしい政策が、イーリング市で施行されたに違いない。
確かに、ハリーと、そして己が、この街を出て州知事選、果ては下院議員選へ挑むことは難しかったかも知れないが。
「それに、この議題が通ったからって、あなたの功績になると思ったら大間違いよ。世間は私の粘り強さを評価する。私達を出世の踏み台に使わないで」
憐れみすら感じている表情で向き合う彼女に、ハリーはもう、現市長の余裕を隠さない。益々深められた笑みの中、濃い睫毛が、いとも無邪気な動きで瞬く。
「そう考えるのは、君の支持者だけだろう」
ハリー・ハーロウは4年の任期が終わろうとする今、間違いなく政治家として成長している。隣のヴェラスコが、軽く肘でつついて目配せするのへ、エリオットも薄い笑みで応えた。
勿論、ヤンファンも少数党院内総務として、伊達にこの世界を渡り歩いてきた訳ではない。上滑りするような溜息と共にそびやかされた、スーツの中の肩の動きは、さしたる重さを孕んでいなかった。
「市長は得ね。何でも手柄を横取りしちゃうんだから」
「政治はゼロサム・ゲームじゃない。今回は『僕らの』得点さ」
「それも今回までよ」
突きつけられた指へ、ハリーは見守るこちらの方が不安になるほどの軽やかさで「どうだか」と首を傾げてみせた。
「ああ、ほっとした。これでトーニャ・ヤンファンの面目も立つし」
市長付職員オフィスの冷蔵庫を開けて、ミネラルウォーターを取り出すエリオットの後ろで順番待ち。中を覗き込み、ヴェラスコは太い息をついた。
「気が緩んで腹が減ったよ。何か食べるものない? モーの野菜スティック以外で」
「アイスクリームは……ないな」
「冷たいものも勘弁。震え上がるのは議事堂の中だけで十分だ」
そう口にすることで、寒気が蘇って来たのだろうか。デスクに手を伸ばし、先ほどバックルームで中身を満たしてきたばかりのタンブラーを取り上げる。彼は甘いものと同じくらい、苦いものも好むから、いつでもブラック・コーヒーを啜った。
今日のヴェラスコは、例え角砂糖をシュガーポットから丸々一瓶抱え食いしても許されるに違いない。この課題を殆ど専任状態でやり遂げた手柄と受難。評議会で採決に掛けられる度、ヤンファンから突き上げを食らい、時には概略の修正案を彼女のスタッフと共に練り上げる。
「本当にお疲れさま。この案件はハリーでもヤンファン議員でもない、間違いなく君の尽力で通ったものだよ。ハリーの株も上がったし、3年以上逃げ回った甲斐が」
結局まともな間食は見つからない。ガラス瓶を取り出して腰を叩こうとし、ぎょっと振り返ったのは、盛大に鼻を啜る音が、静まり返ったオフィスに響いたからだ。きっと吊り上がった眦一杯に溜まっていた涙は、みるみるうちに大きな目へ潤みを行き渡らせるほど膨れ上がり、やがて火照った頬をぼろりと転がり落ちる。
「ヴェラ」
「ごめん……駄目だな」
指から滑り落ちそうなタンブラーを取り上げられても、ヴェラスコはされるがまま、首を振るばかりだった。
「最近ちょっと寝不足が続いて、情緒がイカれてる。それともカフェインの摂り過ぎかも」
エリオットがその言葉を慰めで覆うよりも、足取りの縺れる体に胸へ体当たりを喰らわされる方が早かった。
「マレイにも見抜かれた。僕は野心が有り過ぎる。だから、認められないと不満を覚えて」
「この世界で生きていくなら、野心なんか度を越している位で十分なんだよ」
肩に頭を押し付け、ぐずぐずとしゃくり上げる体に腕を回す。昔、夜遅くまでの仕事で疲れ果て、ぐっすり眠っていた両親に代わり、夜泣きしていた弟妹をあやしながら、寝室をぐるぐる歩き回ったことを思い出した。眠気とむずかりの中間にある子供の体温。実際、今抱いている体も、冷えのぼせしていると誤魔化すには熱くなり過ぎていた。
人のぬくもりだけ奪っていったろくでなしも過去には居たっけ? どうでもいい。
「でも……エル、僕は怖いんだ。もしいつか、ハリーを本当に裏切ったら」
「大丈夫、大丈夫だよ」
何故なら、誰の目にも明らかだったからだ。この男が今や取り返しのつかないほどハリーに全てを仮託することで、苦痛と甘美を舐める生活に耽溺しきっているのは。
心底恐ろしいのは、ハリー・ハーロウの元を去ることではない。去ることが出来なくなることだ。
もしかしたら彼は、今更になって気付いたとでも言うのだろうか。だとしたら、余りにも哀れ過ぎる。野望の浅瀬、初めて踏み入れた泥濘で、すっかり足を取られ身動きできなくなった男。かと言ってもう清水へ戻ることも出来ず、後はずぶずぶ沈んでいくばかり──溺れたくなければ、ひたすらもがき、突き進むしかない。
「エル、僕が」
膿んだような倦怠が、腕の中の熱と共に体へ流れ込み、頭が動かなくなってくる。これ以上泣き言を聞くのはうんざりだ。顎を掴んで唇を重ねたのは、勿論黙らせる為もあったが、それ以外にも何かあるだろうと追及された時、しらを切る自信が、エリオットには全くなかった。
が、結局、己はエル・エリオット。ヴェラスコが大人しく受け入れてしまったので、我に帰らざるを得なくなる。
「待った、私は弟と寝る趣味はない」
脱力した体を引き剥がせば、見上げてくる茫洋と細められた目にも、はっと光が戻ってくる。
「危なかった……!」
「すまない、私も疲れているらしいな」
「いや、僕こそ……」
唇を拳で拭いながら、ヴェラスコはぶつぶつ「ああ、危ない」と繰り返す。
「それに、何だか腹が立ってきた。ハリーが帰ってきたら、30分ほど借りるけど、構わないよな」
「30分と言わず、3時間くらい楽しんだら」
「それは今夜」
欲張りだなあ、とエリオットが苦笑するタイミングを見計らっていたかのように、ドアがノックされる。
「二人とも、ご苦労だった」
隙間から顔を出したハリーに、いち早くヴェラスコは歩み寄る。
がっつく彼は気付いていなかったかも知れない。だがこちらを見つめるハリーの視線には、明らかに仲間外れにされた妬みが混じっていた。
いや、それともこれは、独占欲だろうか。何せハリー・ハーロウは、この街の誰よりも貪欲な男なのだから。
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