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近未来の技術

「最近の若い子、冗談抜きでパソコンが使えないんだな」  ホワイトボードへ貼られた、アメリカ地質調査所発行の12万分の1縮尺地図を眺め渡し、ハリーはしみじみ呟いた。 「これ位、ソフトで集計した方が絶対に早いだろう」 「まあ、ボランティアはZ世代だけじゃなくて、老人もいますからね……なあ、ディー、僕ら位の年齢が、結局のところ、パソコン活用の全盛期だと思うんだけど、君の意見はどう?」  ボランティアの報告を集計した一覧を片手に、本日キャンバシング(戸別訪問)を行った一軒一軒を緑色のマーカーで塗り潰しながら数字を書き込む作業は、遅々として進まない。が、平日の夕方七時以降に勤務してくれる、己と同年代の赤毛美女へ、ヴェラスコは微笑みかけた。彼女もまた、煩わしげではなさげに同じ表情を作る。  昔ならばこんなに魅力的な女性、採用して一週間もしないうちに食事へ誘っていた。「頑張ってくれてるね。何か不安なことがあるなら、話を聞くよ」。今の己は全くのお利口さん。その形良い胸を鑑賞しているだけに留めているのだから。  自らの性欲を抑制、どころか供給過多になるまで無料奉仕してくれるハリーは、グラマラスな尻をヴェラスコの陣取る長机に乗せて、格好つけの腕組み姿。もしかしたら、彼女が頬を染めたのは、このイーリング市政上最もハンサムな市長のせいかも。昔からそうだった。彼がゲイだと周知されていても、二人並べば己は必ず不利になる。  自己憐憫へ溺する以上に、有意義な時間の用い方は山とある。先ほどから弄っていた「VOTE H .H.」のステッカーを、まるで目前の男の敏感な場所へするよう扱きながら、ヴェラスコはようやく2枚目に移った地図を指差した。 「それに、皆の目に留まるよう提示するって、意外とモチベーションの向上に繋がるんですよ」  選挙事務所として選んだのは、ハーディングの一角にひっそりと佇む、いかにも築古な雑居ビルの3階。派手な建物は必要としない。3つの郡にまたがるイーリング市の地形図において、全ての土地から等間隔の立地を確保できただけで十分だ。しかもここは、2筋向こうの通りにあるスティーブンスの事務所と違い、安全なWi-Fiが強い電波で受信できる。  入れ替わり立ち替わり、10人ほどのスタッフが詰めている事務所も、夜の9時を回れば流石に活気が失せる。静寂が訪れれば思考の時間だ。投票日まで二ヶ月を切ったこの頃、ハリーも日に2回は必ず顔を出すようになった。 「相変わらず、このプリンス・タウン側はあまり訪問が進んでないな。確か共和党員が多いんだっけ」 「スティーブンスと組んでるマーマンの地元ですから……君、データマートの資料持ってきて」  隅の席でパソコンと向き合ってていたギーク風の青年は、ファイルを持ってこようと立ち上がる前、椅子の車輪で配線を踏み、派手に体を跳ねさせた。赤面しながら手にしたものを差し出すニキビ面に、ハリーはニコッと懐っこい笑みを浮かべ、「有難う」と返す。 「なんだ、意外とインディペンデント(支持政党なし)が多いじゃないか」 「この20年で移住してきた4、50代の住民は、確かにそうですね」 「もっと積極的に攻めたら」  ぎしっと机が軋みを立て、傾けられた体から漂うボディソープの清涼な匂い。ここへ来る前にシャワーを浴びたのだろうか。綺麗に刈った項から続いて、くるんと少し波打つ後ろ髪まで、やはりしっとりと水気が残っているように思えて、ムラムラする。 「マーマンを本格的に敵へ回す度胸はありますか」  その肉体へ、深く、じわりと歯を立てたい衝動を抑え込み、ヴェラスコは問いかけた。まるで彼の視線を払うように、ハリーは軽く頭を振る。顔を傾けて見つめ返すエメラルドの瞳が、挑発の色を湛えていると捉えるのは、流石に不敬だろうか。 「僕は人のものを奪うのが好きだからね」  性的ファンタジーの都合良さにも、階段を駆け上がってくる足音にも気付いていた。けれどやはり、ここで乱入されると、内心思わず舌打ちを漏らしてしまう。  抱えるピザハットの箱の温もりと反比例し、モーの鼻先がすっかり真っ赤になっていると、ハリーはいち早く気付いた。 「悪いな、寒い中」  夜食くらいボランティアへ買いに行かせるなり、オンラインで注文したら、とヴェラスコが唇を尖らせる機会は、それで失われる。 「皆、腹が減ったろう。どれかペパロニ?」 「多分これです」  テーブルの上に並べられるのは4箱、今残ってる人数だと、一人半枚食べても完食出来るかどうか。わらわらと群がってくる職員達へ箱を回し、ささやかな役割意識を満たすモーへ、更なる仕事を申しつけてやる自らは、何て慈悲深いのだろう。 「ちょうど良かった、モー。昨晩頼んでた、来週以降のキャンバシング・ボランティアの組み合わせの件だけど」 「ああ、大まかには」 「それで構わないから見せて」   バッファローチキンを一切れ取り上げて齧りながら手招きすると、鞄から取り出されたのはこれまた印刷された名簿だった。 「君もアナログ派か」  膨大な書き込みや、作成した本人しか知らないマーカーラインの色分けと印に目を眇めるヴェラスコと比べ、ハリーはあくまで優しく、甘い。 「誰の助けも借りず、エクセルで表を作れるようになっただけでも大した進歩だ」  投げかけられた擁護は、モーをすっかりしょぼくれさせる効果しかなかったようだが。 「それに、君はアナログ容認派なんだろう」 「時と場合によります。便利なものは使うに越したことはないでしょう」  「この星マークはどういう意味」と覗き込むモーに尋ねれば、本人が怪訝な表情を浮かべるのだから世話はない。ホットソースで焼き切れそうな口中の粘膜へ、油まみれの親指を押し付けて更に刺激を与えながら、ヴェラスコは畳み掛けた。 「それに本来、こんな悠長な真似をしていても許されるのは、今の規模の選挙だからで」  市長選へ立候補するまで無所属議員だったハリーに、党内データベースへのアクセス権や、ありとあらゆる政治活動委員会を引っ張ってきたのは、「ワシントンD.C.のハゲタカ達」現在の戦略担当者たるエリオットやゴードンのコネが大きかった。  当時は「市の選挙を変える、革新的な戦略だ」と言われたし、このたび選挙対策委員長を務めるヴェラスコも十分浴してる。改革の次の回である今度の選挙戦では、他の候補者も続々と戦法を模倣しているのはいっそ好機だ。この戦いを模擬戦とすることにより、今後ベルトウェイへ食い込む道のりで、有利に立てる。  才気溢れるハリー・ハーロウが歩むべき輝かしい未来への展望に、胸は膨らむ。けれどその夢を、マニキュアの禿げた指でマーカーを握る赤毛美女や、仕事でもこの事務所でもパソコンを睨み続けることで目を充血させた青年、そしてこのイーリング市の市民へ、語ることは許されない。 「まあいいか、モー、手伝って。あと市長も、少しお願いします」  今はもう、ただ辛いとしか感じられなくなったピザを3切れ、胃の中へ押し込んでから、ヴェラスコは会議室へ足を向けた。本来重役室として用いられるそこは、個室というよりは安っぽい石膏のパネルボードでフロアの一角を区切っただけの仕様。ちょっと声量を上げれば、頭上と足元の空間から、内容を判別できなくとも、少なくとも声を出したという事実は簡単に外へ露呈する。  後ろ手にドアを閉めるや否や、唇を奪われたハリーの、意味ある言葉になり損ねた呻きは、立ち所に甘さを増す。 「ヴェラ……!」 「身綺麗にして、準備万端ですね」  そう囁いても反論が返ってこないなら、認めたも同然だ。とても嬉しい、そして少し憎らしい。精悍な顔立ちが、困惑やふしだらへ染まる様子は、破瓜の時を目前に控え、貞淑と好奇心で揺れる花嫁のよう。彼に無償で尽くすボランティアは、一生知ることのない表情だった。 「こら、駄目だ」 「何故です?」  腰へ回された腕は、欲情で弛緩しているなりに、精一杯の必死さで掴まれる。ヴェラスコが小首を傾げて見せると、その体は一層熱くなるのに。は、と短く鋭い息を吐くと、ハリーはぎゅっと目を閉じ、小声で叱責した。 「スタッフを、帰してから……!」  部屋の隅で目を剥いているモーを、ヴェラスコは顎でしゃくった。慌てて飛び出していく後ろ姿が、どぎまぎしながらもやる気に満ちているのは、「お前も帰れ」と示されなかったせいだろう。単純な奴、普段あれだけ騎士道精神をひけらかしている癖に。あれでいずれは国政に携わるつもりなのだから。  パーテーションの向こうの明かりが次々消えていくと横目で確認しながら、ヴェラスコはようやく素直になった現職市長に、改めて口付けた。

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