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ヘルタースケルターには及ばない
「最初はかなりの急上昇です」
まだローラーコースターは動き出したばかりだと言うのに、見上げていると既に首が痛い。肩こりか、いや、何か腫瘍が出来ているんじゃあるまいな。項を揉みながら、ゴードンは雲すら寒さで萎んでいるような天へ向かって白い息を吐いた。
「スティーブンスの出馬は周りから押し出された結果の惰性でしたからね、概念的な公約では、よほど頑固な共和党員でない限り……つまり、この4年間であんたは十分、市民の信頼を勝ち得たと言うことです。誇ってもいいですよ」
そう褒めてやっても、肩が触れ合う位置にいるハリーは浮かない顔。市が後押しする遊園地、ブリック・ランドが開園して1年。プロムナードは市長の期待に反し、北風へ掃き散らされたかの如く閑散としている。平日の昼間だからこんなものだろうと、幾らゴードンが諭しても、ハリーは一向に信じない。すっかり失望した様子で、登っていくコースターへ目を遣っている。
冬の凍える太陽を反射し、危険な冷酷さすら醸し出す銀色のレールを、列車はゆっくりと登っていく。乗客は座席へ押し付けられることにより、身を以て体現するのだ。これから訪れるスリルを。
「潮目が変わったのはやはり、ヤンファンが登場してからですね。市内にたった2人しかいない民主党員が仲間割れを起こしたんですから」
「彼女に強く言うことが出来なかったんだよ」
「別に責めちゃいません」
今回のところはね、との釘は刺さずに胸の内へ収める。気付けば列車は頂上まで到達していた。そこで一瞬止まり、後は真っ逆さま。半分ほど埋まっている席から、高低様々な音階の悲鳴が、どっと吹き下ろされてくる。
「彼女は、マレイに比べると遥かにねじ伏せやすい対立候補です。もしスティーブンスの代わりにマレイが出馬していたら」
「今更過去のことをほじくり返しても仕方ないさ」
頬を打つ疾駆の風切り音と、木枯らし以外の要因で、ハリーの表情筋は強張っていた。周囲へ視線を走らせたいのを必死に堪える代わり、ステンカラーコートのポケットの中、手指がもぞもぞくねっている。
或いは、2回転ループへ突入した列車へ恐れをなしたのかもしれない。自らが建設を推進しておいて、彼は遊園地のハイライトとも言えるアトラクションへ、悉く向いていない。高いのは駄目、速度はまあ、耐えられるかもしれないが、回転に酔う。「高校生の時、メリーゴーランドで気持ち悪くなった」と聞かされた時には、さすがに耳を疑ったものだった。
「一旦票割れして、その結果、必然的にスティーブンスの支持率が上がりました。けれどこれは、広告宣伝で取り返すことが出来た。市内の高校生から、インフルエンサーやその卵を見つけて質問会を開いたり、限定の動画を配布して拡散させたのは秀逸でしたね。ヴェラのお手柄です」
ここから一番近いレールを走り抜ける列車の突風は目を開けていられないほど。よろめいたハリーの肩へ咄嗟に腕を伸ばし引き寄せる。他意など皆無だ。なのに解放しようとした体はゴードンへ擦り寄り、ふっと、寒さで赤らんだ耳朶へ燃えるような吐息を吹きかける。
「いっそのこと、ヌードにでもなったら、もう少し話題になったかな」
自分だけ満足すれば、すっと離れていく熱に、ゴードンは「馬鹿言いなさい」と吐き捨てた。
「あの企画は賭けだった。別にZ世代の全てが、リベラルではないですからね。それに最近は、リベラルと言ったって」
「EUの排他的な波が、こんなアメリカの田舎の街まで押し寄せてくる?」
「違いますよ、ハリー。ヨーロッパが、この国を真似してるんです」
しばらくはなだらかなスロープを上下に快走していた列車は、360度ツイストへ。その時、今日この場所を訪れてから初めて、声をかけられる。若さで顔を輝かせる2人組の女性は、もしかしたらレズビアンなのかも知れない。
「お会いできて光栄です」とか「一緒に写真を撮って頂けませんか」とか、胸をどぎまぎさせている2人に、ハリーはにこにこ笑顔、無論本心からのもの。これでまた、親しみ深い市長、市民に寄り添う政治家ハリー・ハーロウの写真が、SNSへ出回る。「ゴーディ、シャッター押してくれよ」
「あなたに投票します、頑張ってください」と手を振る彼女達が踵を返すまで手を振り続け、ハリーはマフラーの中で首を縮めた。
「今の子達に、君は僕の恋人じゃないと釈明しなくても良かったかな」
「例え誤解されても、これまでも俺とあんたが映ってる職務中の写真は山と出回ってますから、ちょっと調べれば疑いは晴れますよ」
「疑いね」
思わせぶりな物言いをわざと無視し、ゴードンは自らのスマートフォンを外套のポケットから取り出した。
「確かにまあ、多忙なはずの市長が平日の昼間から遊園地にいるっているって言うのもおかしな話だ。念の為、帰宅したら、今日の出来事をSNSに載せてください」
カメラモードに切り替えて最初のタップは、わざと声をかけずに。
あれほど普段から、己の外面を誇っている癖に、騙し討ちされても、ハリーはまるで臆さなかった。吹き荒ぶ北風と叫び声で、微かに乱れた髪も頓着することなく、ゆっくりと唇を開く。「ゴーディ」
余りにも無邪気で、不思議そうな表情のまま、じっとこちらを見つめるものだから、こちらから「笑って下さい」と促さねばならない。
それから何度もシャッターは押される。が、振り返る瞬間を捉えた一枚目、丸っきり無防備なその一葉こそが、ハリーの魅力を最も雄弁に伝えていた。カメラロールをスクロールしても、思わずハッとなって指を止めてしまいそうになる。
写真をテキストツリーに送信したときは、実を言うとまだ、ほんの少し動揺していた。当のハリーと言えば全く呑気なもので、心底感心した風でスマートフォンを掲げ見る。
「上手いな、君。娘さん達の写真、よく撮ってあげてる?」
「誰でもこれ位は」
「いやいや。この前幼稚園の視察に行った時のモーったらなあ」
結局、施設が提供してくれた写真を掲載することになったインスタグラムの投稿を思い出せば、流石に「あいつと比べられちゃ堪りませんね」と眉根を寄せたくもなる。
「市長付職員の中でも一番若いのに、どうなってんだ」
「若いって言っても、今年36歳だっけ? 彼もここのところ、随分成熟してきてるよ」
舌に乗せられた成熟、という単語は、このローラーコースター最後の恐怖、逆さまになって地上すれすれを駆け抜ける列車の轟音の中から、どうにか聞こえてきた。
「彼も、それに僕も、昔のままじゃいられないな」
「奴はともかく、あんたは大丈夫ですよ」
そして己の呟きと来たら、殆ど喧騒へ掻き消されたに違いない。怪訝そうに聞き直そうとするハリーへ、ゴードンは黙って手を振って見せた。
約3分の冒険プラスアルファ。戻ってきたエリオットは、あんな拷問じみた乗り物で撹拌されていたにも関わらず、髪の一筋すら乱れていない。上着のラペルを軽く引きながら「君も乗れば良かったのに、ゴーディ」と宣う颯爽とした物腰には、もう、ひたすら恐れ入るしか無かった。
「いや、こちらも有意義な時間を過ごさせて貰ったよ。そっちはどうだった」
「私もそんな、頻繁にこういう遊具へ乗るわけじゃないが、十分楽しいんじゃないかな」
「その割には、けろっとした顔をしてるな」
がっかりした顔のハリーが求めているもの、絶叫で喉をがらがらに掠れさせ、げっそりとした顔色のままふらつく足でこちらへ歩み寄ってくるエル・エリオットの姿。思わず吹き出したゴードンの脳内を覗き見たかの如く、エリオットも若干気まずげな様子で咳払いを一つこぼした。
「有意義な時間かい?」
「ああ、『イーリング・クロニクル』の世論調査について、ハリーに解説してた」
「あんなもの信じない方がいい。間違いなく偏向報道だ」
実践の時間は終わり、次は理論のお勉強だ。園長と、サンフランシスコから来ている経営母体のアニメーション会社幹部へ合流する為、3人は待ち合わせの事務所へ向かって、プロムナードを引き返し始めた。
「この前渡しただろう、ブルッキングスから貰ってきた正確な意識調査。あれによると市長の支持率は」
「だが、この街の人間が見てるのは、シンクタンクの分析資料じゃなくて、地元の新聞だからな」
口を挟むハリーへ、今度こそエリオットは、降参とばかりに両手を掲げた。
「とにかく、第二弾のコマーシャルで一応はヤンファンへ一矢報いたから、この調子で……」
真剣に聞き入る市長の横顔へ、先ほどレンズで切り取った表情を重ねることは──何はともあれ、あの写真はこの戦友へ送ってやろうと、ゴードンは手にしていたスマートフォンのロックを解除した。
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