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私は告白する

 ヴェラスコが教会の扉を潜った時、ハリーは内陣からほど近い、前方の席に着き、祈りを捧げていた。参拝者は彼1人。司祭の姿すら見えず、ただ半円形の窓から差し込む昼過ぎの陽光が、ダークスーツに包まれた唯一の背中を照らしている。  日曜日の午後なのに──いや、違う。これは人払いがされているのだ。市長の権限を以て。  そんな横暴を働いても許されるだけの地位を、今やハリーは有している。或いは日頃から献金を積んでいるのか。  軽口は幾らでも並べ立てることが出来る。けれどそれをこの場を取り仕切るハリーと、神に聞かせても、憐れみの笑みと共に流されるだけに終わるだろう。貝殻の水盆に満たされた聖水へ指をつけ、おざなりな十字を切ってから、ヴェラスコはまっすぐに待ち合わせの相手の元へ向かった。 「遅くなって申し訳ありません」  隣に腰を下ろしてそう耳打ちすれば、顔が伏せられたまま「いいんだ」と首を振られる。 「僕は朝のミサから来てた」 「熱心ですね」 「いい気分転換になるよ」  暗がりの中、うっそりと持ち上げられた瞼の下から現れたエメラルドの瞳は、瞬く間に揺らめく蝋燭の雫や日差し、辺りの光を片っ端から飲み込む。それでもまだ、足りないのだ。彼を心底輝かせる為には。 「神頼みってものもね。僕だって偶には、誰かに責任を片っ端から押し付けたいと願っても、許されるだろう?」  以前ハリーに「君は教会へ通っていないのか」と尋ねられ、少し決まりの悪い思いをしたことがある。  表面上は勿論、「小さい頃は日曜日に両親と行っていましたが、そう言えば最近は通いませんね」と何食わぬ顔で答えていた。けれどヴェラスコにとって、今でも蝋燭と香の匂いは抑圧の象徴で、牧師のせかせかした足取りと、翻る黒衣は、即ち完璧な両親の代替品だった──別に今更、コンプレックスだ何だと騒ぎ立てる真似はしないし、海外旅行へ行ってパンフレットに優美な建築様式の聖堂を見つければ、行ってみたいと思いもするけれど。  口にせずとも察することが出来るのはハリーの特技で、触れて欲しくないことを無視するのは美徳だと思っていた。  昨夜テキストで送られてきた住所を頼りに訪れた聖ペーター教会は、ハリーとヴェラスコ、どちらの住まいからも丁度中間の距離に位置する。ようやく太陽が世界へ恩寵を恵み始めた日曜日の午後、歩いて向かうにはちょうど良い距離だった。  存在は知っていたが意識していなかった神の家は、改めて目を向けると、通りの端からも存在感を主張している。ロマネスク・リバイバルらしいアーチを多用した煉瓦積みの建物は、ヴェラスコがかつて通っていた教会よりも幾らか豪奢な空気を醸し出す。  この近辺に住んでいたとなると、ハーロウ家はそれなりに裕福な、いわゆる「昔からこの街で暮らす善き市民」だったと推測できる。ハリーはヴェラスコの母がぎっくり腰になったことを心配するくせに、自分の生い立ちについてとんと口にしない。だからこれはあくまでも想像、しかも相当意地の悪い想像でしかなかったが。 「これは何かのサプライズですか」 「嬉しい驚きなら良かったんだけどな」  ちらと周囲へ視線を走らせてから、ハリーは組んでいた両手へ押し付けていた額を、僅かに持ち上げた。 「落ち着いて聞けよ。デイヴ・マレイの死体が見つかったかも知れない」  礼儀に則り同じポーズを取っていたヴェラスコが、思わず顔を跳ね上げれば、すかさず爪先で強く脛を蹴飛ばされる。 「ハリー、この話は別の場所でしませんか」 「大丈夫、ここが一番安全だ……神父は昔馴染みで、あと30分は誰も人が来ないよう計らってくれている」  そんなこと言われても、とてもじゃない。足元が崩落したような恐怖を消し去るなんて不可能だった。再びぐっと頭を下げ、ヴェラスコは食い縛った歯の奥からささめきを噴き出した。 「いつです」 「昨日の昼。ドルレアックから連絡が来た。マッキール・ヒルにあるマレイ・コーポレート所有の土地で、彼と背格好の似た身元不明死体が掘り起こされたと」  説教壇の後ろへ聳えた巨大な大理石の聖母像は、それなりの品格を保とうとしているこの教会で、唯一低俗な印象を与える。不躾で美しい白面を、ハリーは心底の、法悦すら湛える面持ちで見上げていた。 「捜査を止めさせたら不自然に思われる。こうなったらもう、運を天に任せるしかない」 「DNA検査の結果が出るまでには3ヶ月位でしょうか」  神様仏様、この状況を抜け出す為なら、何だって拝むし、ひれ伏して足を舐めてやる覚悟がヴェラスコにはあった。なのに頭はぞっとするほど冷静に回転し、舌が演算の結果を澱みなく弾き出す。 「選挙は終わってる。逃げ切れます。とりあえず、今の地位を死守さえすれば、対策を打てる」 「ああ。目下のところは引き伸ばせるだけ引き伸ばして」 「引き伸ばすだけじゃ駄目です。積極的に動かなくては」  手を伸ばし、掴んだハリーの拳からも血の気はすっかり引いて、指先など紙のような色。彼だって怖がっているのだ。ここで踏ん張れないようでは、未来の主任補佐官の肩書きが泣いてしまう。 「警察をせっついているのは、財政問題について揉めているマレイ一族でしょう。あの案件は僕達の古巣で手がけていますから、そこから突けばいい。オリアンに頼んで、親族へ吹き込むんです……もしもマレイの死が確定すれば、直ちにプロベート(遺産検証及び分配手続裁判)へ移行するので、現在代行運用している資産や権利が一旦全て剥奪されると。マレイ程の資産なら、検分だけでも、少なく見積もって2年は掛かる。そこから更に相続権の争議となれば……」 「分かった」  逃げるように手を自らの胸元へ引き寄せ、ハリーは首を振った。 「君は優秀な弁護士だ」 「あなたの下で働きましたからね」 「全く、誇らしいよ……それにしても、哀れなデイヴ・マレイの魂よ、安らかに……いや、石で押し潰されるのは神の国を奪われた人間だからかな、マタイによる福音書だっけ」 「待ってください、石ですって?」  ぐいと身を寄せざま叩きつけた口調が、相当強い詰問の調子になったことは、ヴェラスコ自身理解していた。証拠にハリーは、こちらへ向き直りながらも、僅かにその身を退け反らせる。 「死体はポルラント川の河川敷にあるバーベキュー場に埋まっていた。訪れた家族連れが発見したらしい」 「違います、そんなところに埋めてない」  そう言い募った途端、お互いの目の中へ見出せたのが、ただの安堵ならば、どれほど良かっただろう。けれどヴェラスコは、見つめあった瞬間、ハリーの宝石じみた瞳の奥に、貪欲を発見してしまった。  禁欲的なスーツの中へ閉じ込められることで、その芳醇さを強調する肉体は、みじろぎ一つで相手を誘惑する。古びた木製の椅子を微かに軋ませ、再び前の座席の背もたれへ組んだ手を押し付け、項垂れながら、ハリーはそっと聖句を唱えるような声音でヴェラスコに囁いた。 「いい加減、僕にも埋めている場所を教えてくれたって良いんじゃないか」  これは、他の仲間達にも差し向けられた試練だろうか。そう言えば、どうしてハリーはこの期に及んで、自らをここに呼び出したのか。勘繰りは深めれば深めるほど、身を苛む。  覚えた苦しさに、ヴェラスコはシャツの胸元を掴んだ。布の下に探り当てる硬い感触。祖母がくれた幸運のロザリオ。  深く息を吸って、吐いて、そうすれば後は、勇気と決意が全て守ってくれる。 「それは出来ません」 「どうしてもか」 「ええ。例え命令でも」  しばらくハリーは、心の底から祈りを捧げているような顔で、目を閉じていた。「分かった」と呟かれるまでに、それほどの時間は要さない。 「すみません。あなたの為なんです」 「分かってる」  すっと腰を上げ、ハリーは出口へと向かった。 「君の忠誠心は立派なものだ、本当に感謝してる。嘘じゃない」  2人が再びドアの前で十字架を切るのを見計らっていたかの如く、控え室から人影が現れる。恐らくここの司祭だろう。 「本当に、秘密は守って貰えるんでしょうね」 「大丈夫だよ」  たった今までの厳粛さが嘘のように。太陽の下へ出たハリーは、大欠伸と共に伸びをしてみせた。 「24歳の時、あの神父にフェラチオしてやったことがあるんだ。彼、メル・ギブソン似の凄いハンサムで、前からちょっと良いなと思ってたし……仲間と賭けをしてね。彼を2週間以内に落とせたら300ドルって。もちろん総取りしてやったよ」  呆気に取られ、ぽかんと口を開けた様子が余程間抜けに見えたのだろうか。ハリーはさながら無邪気な天使のような顔で、笑いを弾けさせた。 「そんな悪魔にでも遭ったような顔しないでくれよ!」

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