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真のアクティビスト
「俺は最低な人間です……!」
喉から血を吐きそうなモーの懺悔を、エリオットは黙って受け止めてくれる。パイプ椅子に深々と身を沈め、眉根を寄せる様子は、さながら告解に臨む神父か、精神分析を開始したセラピストのよう。
幸いなことに、ここは選挙事務所の会議室だし、エリオットは百戦錬磨な政治コンサルタントに過ぎなかった。狭く寒く乾いた室内に漂うのは、抹香臭さでも消毒薬の匂いでもない。埃っぽさと、エリオットが愛用するフレグランスの、アンバーっぽいオリエンタルな芳香が、恐縮と惨めさを一層煽り立てる。
最初は長机へ隣り合い座していた。だが、仕事の合間の世間話が告白の色を帯びるにつれ、気付けばお互い向き直る格好になっている。
本当はエリオットだって、一定金額以上の大口献金企業が、自社の雇用者から不当に集金を行っていないかチェックに精を出したいだろう。けれどモーがこうべを垂れ始めて以来、ウェリントン型フレームにはめられたレンズの向こうで、目はずっと閉じられたままだった。
ようやく瞼が持ち上げられたのは、懐を探って電子煙草を取り出す時のこと。ここのところ、禁煙の表示が出ていない限り、エリオットは喫煙している姿を人に見せることへ恥を覚えない。
「君はさっきから、自分を責めてばかりいるけれど。結局のところ、それでハリーは悦んでいたんだろう」
かちっと機械のスイッチが入れられ、やがてメンソールの匂いが蔓延する。伏せられた目と深まる眉間の皺と並んで、それはモーに一旦冷静になるよう、強く催促していた。
「ドクター・ルースだって言ってる、セックスにノーマルなんて存在しない。それが君達の間で合意に達しているなら、3人でやろうと、赤ちゃんプレイをしようと」
「赤ちゃんプレイじゃありません」
この前のあれは、何と表現したらいいのだろう。妊娠を示唆することで脅し、ハリーは嫌だ嫌だと叫びながら絶頂していた。あの時の彼の涙を思い返すと──さすがのモーも4年経てば、性交時におけるハリーの泣き顔の機微をそれなりに理解出来るようになっていた──快楽一辺倒だけではなかったのではないかと、どうしても不安になる。
「イメージプレイ? 分からないな……とにかく、どれだけ頑張ってもハリーは妊娠出来ない訳だし。中に射精することによる病気が心配なら、病院で検査してきたら」
「それはもう行きました」
自分の為と言うより、ハリーを心配して。そう答えれば、エリオットは「真面目だな」と眉を下げた。
「俺はハリーを痛めつけたい訳では無いんです。もう決して、彼の嫌がることはしません……」
額を押さえ、徐々に口ごもるモーに紙コップ入りのコーヒーを差し出しながら、エリオットは話の続きを待ち受けてくれる。
「ただ……ここのところ、ハリーは益々、過剰な刺激も喜んで受け入れるようになっているような気がします。それが心配なんです」
別に自らだって、おぼこ娘ではない訳だし、海兵隊のような男所帯に長年身を置いてきた。ちょっとやそっとの過激さでは驚かないつもりだったが、ハリーはいつでも、モーの想像や期待を軽く超えてくる。以前、他ならぬこの会議室で、ヴェラスコに跨りながら、「ほら、出来るだろ」とあの魅力的な尻を突き出された時は、勃起が強まり過ぎて貧血を起こすかと思った。
「君も楽しんでるんじゃないか」
「あれは、以前からヴェラに誘われてたんです。あいつはプレイボーイで、好奇心が旺盛で、しかも幾らか変わった趣味を持ってますし」
「モー、少し声を抑えて……」
完全密封されていない壁の向こうでは、今日もボランティア達が熱心にハリーの為働いていた。彼ら彼女らの熱心さには心底の敬意を覚える。働きぶりを見ていると、市長に誰よりも無私の忠誠心を抱いている、という自らの最後のアイデンティティまで失われそうで、酷く落ち込む時があった。
「……女性のパンストを破く動画をやたらとスマートフォンに保存してるんです」
「人のせいにしない。仮にヴェラがアブノーマルな嗜好の持ち主だったとしても、君はハリーにとって最後の防波堤なんだから……少なくとも、君自身は自分をそう認じてるんだろう」
そう、問題は己自身にある。
新たな刺激へ直面すればするほど、己の脳内で、ハリーのイメージが刷新されていく。妄想は強固で、その癖現実よりもよほど柔軟性があって、手に負えなかった。
訥々と、けれど連綿途切れることのない訴えに、もはやエリオットは嘴を挟むことが無くなった。無関心という訳ではない。煤けた天井を仰ぎ、ふうっと紫煙を吐き出す顔は、疲弊しているが真摯な困惑に染まっていた。
「この前、ディスカバリーチャンネルで、FBIの犯罪プロファイラーをテーマにした番組を見たんです。そこでジェフリー・ダーマーに関して言及されていたんですが、彼の思考回路が、俺とそっくりで……ハリーを食べたい訳ではありません。殺人鬼は妄想を実現したいと行動を起こして、でも現実の出来事にはアクシデントが付きものだから、100%満足できる結果には決してならない。だから完璧を目指して永遠に試行錯誤を繰り返し続けるし、しかもその間にも妄想はアップグレードされていくから、いつまでも満たされることがない」
「なあ、モー。ここでぐるぐる考えていても、君の為にはならないよ」
テーブルへ伏せて置いてあったスマートフォンを確認し、エリオットは口を開いた。
「そんなに不安なら、本人とよく話し合えばいい」
「話し合えるでしょうか……」
「まあ、別に肉体言語でも構わないけどね」
「それじゃ駄目なんです」
空になった紙コップを握り潰し、モーは身を乗り出した。だがエリオットの眼差しは、もはや甘えを徹底的に跳ね除けていた。見透かされたのだ。がっくりと肩を落とし、それでもせめても足掻く抵抗の、なんて虚しい事だろう。
「ちゃんとお互い、話し合わないと……」
「君のその誠実さは、私達のうち、つまりはハリーも含めてという意味だが、誰も持っていないものだ。何も不安がることはないと、私は思うんだがね。君はどうだい、ハリー」
勢いよく振り返った扉の磨りガラス越しに、人影が映っていると知った時は、世界の終わりのような気持ちになった。
室内の男達の視線が5秒ほどその場に留まった頃、ようやくハリーは、観念してドアノブを捻った。
「君は本当に意地が悪いぞ、エル」
「そちらこそ、立ち聞きなんて行儀がいいとは思えないな」
「いつからそこにいらしたんですか」
モーが干上がった喉から声を絞り出すと、ハリーはいかにも気まずそうな顔のまま、後ろ手に閉めた扉へ凭れかかった。
「あー、パンスト破きがどうだとか言ってる辺り」
「辛うじて難は逃れたってところだね」
ジュールをポケットにしまうと、エリオットはこの部屋で仕事に取り掛かってから、初めてまともな笑みを浮かべる。ラップトップと書類を鞄に押し込み、さっさと席を外そうとすること、逃げるかの如しだった。
「私は市庁舎に戻るよ。ハリー、今夜は19時からバンドラー達の定期報告会があるから」
「分かってる、18時には戻るよ」
2人きりになれば、引いていた血の気が一気に頬へ逆流し、底冷えした室内がサウナのように感じられる。
「ハリー……」
モーがそれ以上の言葉を口にする前に、ハリーはつかつかと歩み寄り、自らよりも大柄な体をぎゅっと抱きしめた。
「ごめんな、モー。君がそこまで不安を感じていたなんて、思いも寄らなかった」
「そんな、あなたが気を遣う必要なんて、どこにも」
モーの腕が宙に浮いたまま凍りつき、声がどんどん上擦っていっても、ハリーはお構いなし。すり、と頬を肩に摺り寄せ、赤ん坊をあやすように、手のひらで背中を撫でる。
「分かってるよ、肉体言語じゃないんだろう……でも、君に知って欲しいんだが、僕はこういうことをするだけでも、十分充足感を覚えるんだぜ。別に2人がかりで挑んでこなくてもな」
「ハリー、俺はただ、あなたに穏やかな気持ちでいて欲しくて」
「それは、一生僕に縁がなさそうな言葉だな」
ああ、そうだ。ハリー・ハーロウは街で一番精力的な男。人の何倍も動き回って、州でも屈指の弁護士になって案件を捌き、飽くなき野心で市議会議員から市長へと。そしてこれでもまだ、彼にとっては十分ではないのだ。
「それに、疲れた時は、こうして君に甘やかして貰えば十分さ」
動いて見せることで、ハリーは己を輝かせ、君臨する。止まったら、死んでしまうかも知れない。そんな彼だからこそ、自らを選んでくれたのだろう。
理解すれば、やるべきことは一つ。そっと下ろした腕で、モーは縋りついてくる肉体を包み込むよう、固く抱擁した。
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