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 遠くから、黒崎が走ってくる。いつ見ても元気だなあと胡南は関心する。ただあいにく、廊下を走ってはいけないのだ。案の定、教室から出てきた教師にどやされた。 「やー、まいったわ。とっくに休み時間になってんのにまだ教室に残ってる教師とかいんのかね」  廊下に出てだらだらと窓の外など眺めていた胡南と瀬尾のところにたどり着いた黒崎は、そう言って乱れた呼吸を整えた。 「てか、おまえらなんで廊下にいんの? 外になんかあんの?」 「あれだよあれ」  瀬尾が指さした先を、黒崎は素直に目で追った。正門前のロータリーに箱型の大型トラックが入ってきていた。そこから体育館に横づけして、荷物を運び入れるためだ。 「あー、午後にあるやつね。なんだっけか」 「銀河鉄道の夜だろ。宮沢賢治の」 「なんか聞いたことはあんだけどなー。胡南知ってる?」  黒崎に問われて、胡南はトラックの開いた後ろのドアから次々に下ろされる衣装ケースや小道具らしきイスやテーブルを眺めながら答える。 「俺も、聞いたことはあるけど読んだことない。列車で旅するんだろ?」 「まー、鉄道だしなー、そうなんだろなー」 「おまえらなー、ジョバンニとカムパネルラくらい知っとけよ。常識だろ」  あきれたように瀬尾が言う。 「何それ。フランス料理?」 「あいかわらずクロはアホだな」  キーッ、と鳥のような声をあげた黒崎は、ふと目線を変えて、おう、と手を上げた。 「永嶋ー、どこ行ってんだよ」  その名前に、胡南がぴく、と肩を震わせる。  あれから、永嶋にはまだ会っていなかった。間にゴールデンウィークが入ったから、二週間近く経つ。  あの問題を、胡南はまだわからないままにしている。別にわざわざ、胡南に言う必要はなかったんじゃないかと、やっぱり思っている。  だって、けっこう大変な情報だ。あまり公けにはしたくない事柄のはずだ。よもや、胡南がそこら中に吹聴したりはしないだろうと、信頼されてはいるのだろう。でも別に、言わずともよかった。だからやっぱり、冗談ではないかとも思う。でも、永嶋がそんな冗談を言う理由がない。そんな感じで、思考は結局ぴったりもとの位置に戻ってしまうのである。 「音楽室。つか、おまえら何やってんの」  永嶋は黒崎の横で立ち止まった。一緒に歩いていた男子が、先行くなー、と行き過ぎてゆく。  もう、つるむやつができてんだ。ちら、と胡南は、その男子生徒を横目に見た。永嶋は見た目もいいし、性格もいいし、社交的すぎず地味すぎずちょうどいい塩梅で、そりゃあ一人になってもすぐに友人ができるだろう。  でも、あの場所にはついこないだまで、胡南がいた。あたりまえのように、いた。だから別に、何ってこともないわけだけれど。 「おまえジョンとカンパーラって知ってる? 旅するフランス料理」 「舞台鑑賞の演目のこと言ってんのか? やっぱクロはアホだな」 「さすが永嶋、読みがいいな」  瀬尾の合いの手に、黒崎がまたキーキー声を上げる。なんかいいな、この感じ。一年のころに戻ったようで、胡南の胸が弾む。 「お、それよりおまえ聞いたか? 胡南クンのカノジョのこと」  ひく、と胡南の咽の奥が収縮する。今その話題はやめてほしい。でも、永嶋は何事もないみたいに平坦な声を出す。 「ああ、まあ」 「まさか胡南に彼女ができるとは思ってもみなかったぜ! おまえどうするよ、先こされちまって」 「どうするって言われてもなー」  棒読みの永嶋に、黒崎は歯を食いしばるようにしてガンをつける。 「くーッ、てめえ余裕こきやがってッ。あいかわらずむかつく野郎だぜ。負けねえぞ、おまえだけには負けねえぞ」 「いや、絶対負けてると思うぞ、とっくに」 「瀬尾はどっちの味方なんだよッ」 「客観的事実はどうしようもないしなー」  チャイムが鳴って、じゃあなと永嶋が階段のほうへと曲がっていった。胡南は、一言もしゃべれなかった。永嶋も、胡南のほうを一度も見なかったように、思う。  暗がりのなか、胡南は身をかがめて這うように移動していた。  館内の照明は落ち、前方だけが真っ白い光に包まれている。舞台上では少年の出で立ちをした二人の役者が朗々とセリフを述べ、その大きな声が響き渡ってはいるが、後方では私語を交わす生徒たちの声が密やかにさざめいている。  舞台鑑賞は、その名のとおりちゃんとした劇団が学校を訪れて、ちゃんとした公演を見せてくれるものだ。二年生のときに一度きりなのが残念なところだが、生徒たちはただその舞台を見ているだけでいいし、何より授業がつぶれるのがいい。勉強しなくてすむのが嬉しいのはどの生徒でも一様に同じだ。  基本的に各クラスの生徒が縦に一列になって、体育館の床にじかに座ることになっている。前方の生徒はそうやってきちんと並んでいたが、後方は乱れて適当だった。其処此処(そこここ)でひとかたまりになったり寝転がったり、クラスの垣根もとびこえてやりたい放題である。学校側も寛大で、よほど騒いだりしないかぎりは教師も見逃していた。  暗いとはいえ、あんまり大胆に移動すると見咎められる。少しずつ、胡南は目的地へと近づいてゆく。胡南のクラスの列から永嶋のいる列まではずいぶん距離があった。  昼休み、体育館へ向かう途中で胡南は瀬尾から、ひとつのミッションを託された。 「こないださ、今度みんなで集まろうって話、しただろ? あれ、永嶋に訊いてくれた?」  あ、と胡南はわかりやすく戸惑った。もちろん、訊いていない。そんなこと、訊くヒマも余裕も勇気もなかったし、そもそもすっかり失念していた。 「だよな。そうだと思ってた。それがさ、今日このあと六時から、カラオケ行こうってなって。松本は来れないんだけど、クロとはっしーは来れるからさ、胡南が永嶋を誘ってくんない?」 「今日? 急じゃない? っていうか、なんで俺が」  それに、胡南はまだ行くとも行かないとも言ってない。 「だって、永嶋ってカラオケとか行かなそうだからさー」 「俺だって」  胡南も、カラオケはひどく苦手である。 「胡南が行かないと、永嶋絶対来てくれないじゃん。逆にさ、胡南が誘ったら来るんじゃないかと思うんだよね。だから胡南、絶対永嶋をオッケーさせて」  えーっ、と胡南は驚きと抗議を同時に表情に出してみせたのに、瀬尾は爽やかにニカッと笑って返すだけで許してはくれなかった。館内が暗くなってすぐ、瀬尾にせっつかれ、胡南はしかたなく亀のようにのろのろと歩みを進めている次第なのだった。  永嶋の居場所は、明るいうちに探してだいたいの見当をつけておいた。上演時間はだいたい一時間半ほどで、急がなくても充分間に合う。おかげで胡南は教師に見咎められることなく永嶋のいるところへたどり着いた。  永嶋はクラスの列の、真ん中より少し後方の数人のかたまりにいた。輪の中には女子の姿も見えたが、永嶋の隣にいたのは午前中に一緒に歩いていた男子だった。永嶋の友だちらしい、癖毛をかたちよくまとめて襟足を刈上げにした髪型の、目鼻立ちのはっきりしたイケメンだ。  やっぱ仲、いいんだろうか。いいんだろうな。女子のことも気になったが、いつもつるんでいるらしいこの癖毛男子が胡南は、率直に言うと羨ましかった。  瀬尾が同じクラスで心底ほっとしたのは確かだけれど、永嶋だったら良かったな、と一瞬思ったなどということは深く深く胸の奥底に沈めておいた。  別に、六人で仲良くやれていたんだから誰でもかまわなかったというか、無口な松本ややたら女子受けのいい羽柴や終始テンションの高い黒崎とかと比べれば、瀬尾だったのはほとほと幸運だったといってもよい。  でも、永嶋なら良かったのに。と、何度も思わなくもなかった。そのポジションにいるあの男子が、羨ましくも妬ましいと思わなくもなかった。  ともあれ、そんなことを今さら考えたところで意味はないしどうしようもない。  和やかに歓談しているところに話しかけてゆくのは胡南がもっとも苦手としていることの一つだったが、その相手は永嶋なのだからきっと大丈夫だ、と自分に言い聞かせて接近を試みた。 「……永嶋」  そう、声をかける前に、近づく胡南に先に気づいた癖毛男子が永嶋に合図してくれた。 「胡南。どうした」  あまり大きな声が出せないせいか、ささやきが届くように永嶋は、胡南のほうへと顔を寄せてきた。久々に間近で見た永嶋に、胡南は思わず息をつまらせる。  いつもは身長が違うから、真正面から永嶋の顔を見ることはあまりない。  とにかくすうっとした、薄い顔立ちだ。目元は筆ではらったようにすっとした切れ長で、鼻筋はすらりとしていて、くちびるは薄いけれどもきれいな形をしている。よくよく見れば、過不足なく整っている。モテるのも、わかるよな。そう思った瞬間、永嶋の、あの言葉が蘇る。  いや、今、思い出しちゃいけない。思い出して動揺している場合ではない。 「あ、あのさ、今日なんだけど」  永嶋のそばにしゃがみこんでいたけれど、これまでの道程で足が疲れていたので胡南はその場に座りなおした。 「今日?」 「うん。このあと、六時から、予定ある? 瀬尾が、みんなでカラオケ行こうって」 「カラオケ」  しごく興味なさそうに、永嶋は発音した。常々、カラオケは嫌いだと公言しているのだ。それをあえて誘うなんて、本当なら胡南だってしたくない。でも、あの一件以来、永嶋とどう接していいかわからずにいた胡南にとって、この予定は渡りに船みたいなもので、できればこの機に乗じて元のように気軽に話せるようになりたいと思っていた。 「たまにはさ、一緒に行かない? その、みんなで集まるの久しぶりだしさ。別に歌わなくてもいいと思うしさ、晩メシ食べる感覚でさ、どうかな」 「……おまえも行くんだよな?」 「もちろん」 「じゃ、行くか」 「え?」  誘ったくせに胡南は、耳を疑った。 「ほんとに?」 「なんだよ、誘っといて何言ってんだよ」 「だって、カラオケだし」 「別にいいよ。歌わねえし。いいんだろ?」 「うん。いい、いい。よかった。みんな喜ぶよ。永嶋が来たら」 「なんだよそれ」  ふ、っと永嶋が笑った。そのほどけたような顔に、胡南は安堵した。元通りになれるかもしれない、と思った。  あの告白を聞く前のように。  あのときあの場所で聞いたことは、記憶の箱に入れてどこかにしまっておけばいいのかも、という気がした。

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