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永嶋は、転校生だった。
小学四年生のときにこの町に来た。夏休みに入っていて、登校するのは二学期からだからまだ友だちは誰もいなかった。
新しいアパートは手狭だったけれど、母子二人なら充分な広さで、引っ越しの荷物もそれほど多くないから片付くのは早かった。まだ用事の多い母親と違ってヒマを持て余した永嶋は、近隣を散策しようと一人で家を出た。
引っ越しなど初めての経験だったから、見知らぬ町を歩くというのも初めてのことだ。次の角を曲がった先には何があるかわからない。まるで冒険物語の主人公になったようで、心がはやった。先へ、先へと勝手に足が進んでゆく。住宅街にふいに現れる頭巾をかぶった地蔵、塀の向こうから枝を広げる百日紅 、道を横切ってゆく三毛猫。夢中で後を追っているうちに、永嶋は自分がどこにいるのかわからなくなった。
迷子になってしまったのである。
いくら初めての町だからといって、四年生にもなって迷子だなんて、永嶋にとっては由々しき事態だった。曲がり角で所在なげに立ち尽くす永嶋のそばを、おばさんやおじさんが通りすぎてゆく。ときおり、小学生も行き過ぎる。ランドセルを背負っていて、どうしてだろうと訝しんだがそうか登校日なのだと思い至った。
その気になれば、誰にでも道を訊ねることはできた。でも永嶋は、そんなことはしたくなかった。できれば自力で、まだ馴染みの薄いあのアパートに帰りたい。迷子になったなんていうことを、見知らぬ人にでさえどうしても知られたくないのだった。
いったん迷子を自覚すると、むやみに動きまわることができなくなった。方向を間違えてしまえば、帰りたい場所からどんどん遠ざかることになる。小学四年生の、まだとぼしい経験の中から必死に、永嶋は役に立ちそうなことを思い出そうとした。
物語を読むことが、永嶋は嫌いではない。本でもマンガでも、面白いものは図書館で借りたり友だちに借りたりしてよく読んだ。確か、こういうときはひとまず、高いところから辺りを見渡してみるのが良いように思う。それでぐるりと首をめぐらして見たが、住宅街の中で周囲の様子を確認できそうなほど高い建物は見当たらなかった。その代わり、家並みの隙間に土手の切れ端が見えた。
川があるのかな。
そういえばどこからか、水の流れる音がする、気がする。
誘われるようにして、永嶋は土手の上に立った。土手の向こう側は草におおわれた斜面で、その下は平らな草野原が続いて幅広の川へとつながっている。遠くの広くなった原っぱではサッカーをしている集団やキャッチボールをしている親子の姿も確認できた。夏休みらしい景色である。じきに正午を迎える時刻にしては、真夏のわりに暑さはひどくなかった。土手の上は風が吹き抜けて、気持ちがいいくらいだ。
さて、と永嶋は川とは反対の景色を眺める。
俺はいったいどっちから来たんだろう。
見覚えのある建物はないだろうか。といっても、見覚えるほどまだこの町に慣れ親しんではいない。確か、学校から見える範囲に鉄塔があったのだったが、土手から見渡す限り鉄塔は左右の離れたところに二つあった。
右か、左か。
どちらへ向かってみるか決めかねているうちに、突然突風が吹いた。ざあっ、と草が一斉にそよぐ音がする。強い風がすべるように永嶋のところへ到達し、行き過ぎるついでにかぶっていたキャップをかすめとった。あおられて、浮き上がる。ふ、っと頭が軽くなる感覚がして、気がついたときには飛ばされていた。
やべ。
瞬間的に手をのばすが、つかめない。土手の上の遊歩道に落ちたキャップは、さらに吹きつけてくる風に押されて激しく回転しながら転がってゆく。あわてて追うが、風の速さにはとても追いつけない。どんどん離されてゆく。
そのとき、永嶋のかたわらを小さな影が、まさに風のように追い抜いていった。ブルーのランドセルを背負った少年だった。キャップめがけてまっすぐにかけてゆく。永嶋も足には自信のあるほうだったが、少年の速さには目を見張った。
風に押されるまま走っていたキャップは、ある地点から斜面のほうへと転がった。追って、少年も斜面へと向きを変える。このままではキャップが川に落ちてしまうかもしれないと、永嶋は気が気でなかった。今は見知らぬ少年にすがるより他ない。あのキャップはどうしても失いたくないのだ。
転がり続けるキャップと共に少年が斜面を駆け下りてゆく。と、ある地点で何かに足をとられたのか、少年がつんのめる。
「あ」
思わず永嶋は声が出た。
キャップと同じ速度で、少年が斜面を転がり落ちてゆく。背負っていたランドセルのふたが開き、ノートやらプリントやらが飛び散らかった。
「おいッ、大丈夫かよ!」
下まで転げ落ちた少年は、たった今自分の身に起きたことなど気にもとめない勢いで、素早く立ち上がると前方に落ちたキャップに飛びついた。それを両手にしっかり持ってようやく、座りこんだまま振り返り、永嶋に向かって大きく笑ったのだった。
「……大丈夫なのかよ」
唖然として、永嶋は遅ればせながら斜面を駆け下りた。
突風は、一瞬のことだったようだ。風が凪ぐと、またサッカーやキャッチボールに興じる歓声が聞こえてくる。
「はい」
Tシャツに半ズボン姿の少年は、ふたの開いたランドセルを背負ったまま追いついた永嶋のもとへと歩みより、キャップを差し出した。
「良かったね、川に落ちなくて」
「……サンキュ。これ、大事なやつなんだ。危ないとこだった。ほんと、ありがとな」
「そっかー。間に合ってよかったよ」
「あ、おまえ足すりむいてんじゃん。大丈夫かよ」
「え、あ、ほんとだ」
少年の膝には血がにじんでいた。
「大丈夫だよ。痛くないし。つばつけとけば平気」
それから、永嶋は少年を手伝ってノートやプリントを拾った。それで、少年が第一小の生徒で、永嶋と同じ四年生であることや、名前が胡南育であることを知った。なんて読むのかわからない。古いという字が入っているから、こなんだろうか。こみなみかな。それはまあ、いい。重要なのは、この辺りを歩いていたこみなみが第一小だということは、この辺りが第一小の校区だということだ。それならずいぶん遠くまで来てしまったことになる。永嶋が転入したのは、第二小なのである。
「あのさ」
このさい、こみなみにならまあ、訊ねてもいいかと思った。なんとなく、こみなみは永嶋が迷子だと知っても、バカにしたりしないような気がする。
「俺、ちょっと、道に迷ったんだけどさ。白い、下向いた花のライトがある商店街って、どっちにあんの」
その商店街は、永嶋の引っ越し先の近所にあって、つい先日母親と買い物に行ってきたばかりだった。
「白い花のライト? ああ、すずらん商店街のことだね。えっとね」
ちらばった中身を全部かき集めてふたをしたランドセルを背負い直し、こみなみは斜面をのぼって土手に上がった。永嶋も後に続く。
「ほら、あそこ。鉄塔があるだろ。あのちょっと右のほう」
こみなみは、向かって左の鉄塔を指さした。それこそまさに、永嶋の知りたかったことだった。
キャップをしっかりと深くかぶり、永嶋はこみなみを振り返る。
「じゃ、俺帰るな。えーっと」
「ん?」
あどけない顔で、こみなみは永嶋を見返した。このころはまだ、永嶋とこみなみの身長はほとんど変わらなかった。
「ありがとな。これ」
そう言って、キャップをなでる。こみなみは、自分のことのように嬉しそうに笑った。
「うん」
「じゃな」
「またねー」
名前も住所も訊かなかったというのに、またねってのも変な話だったが、こみなみはそう言って大きく手を振りながら永嶋を見送った。
こみなみの言ったとおり、鉄塔を目指して帰れば難なくアパートまで帰りつけた。まだ台所付近の片付けに精を出していた母親は、まさか永嶋が迷子になっていたとは思いもしないに違いなかった。永嶋が脱いだ帽子が汚れているのを目ざとく見つけて、どこ行ってたのと訊く。
「あんたこれ、大事なやつじゃない。めずらしいね、汚しちゃうなんて」
「風で飛んじゃってさ。川に落ちるとこだった。拾ってくれたやつがいて」
「あら、危ないとこだったじゃん。拾ってくれたのってどんな人?」
「俺とおんなじ、四年生」
「え、もう友だちできたんだ。なんて子?」
「……こみなみ。でも、あいつ隣の小学校だから」
「あんた、どこまで行ってたの?」
うるさいなあ、と言って永嶋は、それ以上話すのはやめてマンガを読み始めた。違う小学校だったらしょうがないねー、残念だったねー、と言いながら、母親ももう興味を失ったように片付けの続きを再開している。
そう。少し、残念だった。一緒の小学校だったら良かったのに、と永嶋も思っていたところだったのである。
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