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 夏休みが終わっても、引き続き胡南は塾に通ってきた。  夏期講習だけで辞めてしまうかもしれない、と永嶋は懸念していたので、二学期が始まってから通常時間割の塾の授業に出て、胡南の姿を認めるとほっとした。  なんで、ほっとするのだろう。  自分のことながら、永嶋は首を傾げる。  胡南に、会いたいのだろうか?  会おうと思えば、学校でだって会える。  塾で再会するまで胡南は、永嶋からすると、水底に沈んで息をひそめる魚のようなものだった。いったんそこにいることがわかると、その影はすんなり目に入る。校内で制服姿の胡南を見て初めて、あ、ちゃんといる、と永嶋はその存在をようやく確認した。  でも永嶋は、学校では胡南とも、杉戸とでさえあまり話さない。お互いに違う友だちと一緒にいるからだ。だから、ゆっくり話せるのはやはり塾で会うときだった。  塾が始まるのは六時半からなので、だいたいの生徒は家で着替えてからやってくるが、例外もあった。何かの用事で遅くなる日は、学校から制服のまま直接塾へ向かう。  その日は、文化祭の準備で遅くなることが最初からわかっていた。  永嶋と杉戸と胡南は、連れ立って塾へ行く算段をしていた。作業に追われるクラスメイトの中で永嶋は、なかなか抜け出せずに焦っていた。約束の時間はとっくに過ぎている。帰宅を促しに教師がやってきたのを機に、素早く教室を出て自転車置き場へ向かった。そこで杉戸や胡南と合流する予定だった。 「あれ? 杉戸、まだ来てないのか」  自分の自転車のハンドルをにぎって、胡南がぽつんと立っている。それが、と困ったように情けない顔つきをしている。 「あの、杉戸、今日休んでるんだって」 「……は?」 「なかなか来ないからさ、ちょうど杉戸のクラスの人が来たから聞いてみたんだよね。そしたら、休んでるって。風邪だって」 「……そうか。じゃあしょうがねえな。とりあえず行こうぜ」 「うん」  自転車を取り出してまたがる。ペダルを踏みこむ。同じような動作が後ろで行われている気配がする。  胡南と、二人か。ペタルをこぎながら、そういえば二人だけなのは初めてだなと永嶋は思う。いや、初めてではないか。あのときも、二人以外誰もいなかった。あの土手の斜面では。きっと胡南は覚えていないだろうけれど。  緊張、するわけではない。落ち着かないというわけでもない。でも今までは浦辺や杉戸がいたわけで、いないとなると、妙な空気になる。違和感、というわけでもない。何ともつかみどころのない空気感だ。胡南のほうはどうだかわからないが。  幸いなのは、お互い自転車ということだ。自転車に乗りながらでは、会話はほとんどできない。だから無言で自転車を走らせた。 「あ、やば。忘れた」  信号待ちの交差点で、永嶋は忘れ物に気づいた。隣で胡南が一緒になってあわてた声を出す。 「え、何を? 学校に?」 「いや、家に忘れてきた。今日のテキスト。俺、ちょっと家寄って取ってから行くから、先行っといて」 「あ、俺も行くよ。まだ時間あるし」  永嶋が方向転換した向きに、胡南もハンドルを向けた。 「いや、でも……、まあいいか。こっち」  永嶋は商店街の裏手の路地へ入った。  本当のところ、ぼろいアパートだからあまり見られたくなかったのだ。でも、それを恥ずかしく思ったところでしょうがない。それに、胡南はそういうことを気にしたりは、きっとしないだろうと思った。  小学四年のときに引っ越してきた同じアパートに、永嶋はずっと住んでいる。五年の年月ぶん、あのころより古びてはいたが、最近壁を塗り替えたから少しはマシかもしれない。一階の端の部屋の前で自転車を止め、降りながら胡南に言った。 「ちょっと取ってくっから。待ってて」 「うん」  永嶋がドアノブに手をかけようとしたら、丸い金属は勝手に自転した。勢いよくドアが開かれて、永嶋は思わず後ろに飛びずさる。 「あれ、京也?」  出てきたのは、母親だった。  てっきりもう仕事に出かけたと思っていたのだが、ちょうど出勤するところだったらしい。身なりを完璧に整えている。余すところなく栗色に染められてきっちりとカールされた髪に、たっぷりのマスカラで長くのびた睫毛、真っ赤なリップでつやつやと潤ったくちびる。体にぴったりとした白いワンピースの上には刺しゅう入りのカーディガンをはおっている。永嶋の母親は今年で三十六になるのだが、まだ二十代といっても充分通用するくらいには若く見えた。 「まだいたのかよ」 「今から行くの。同伴がなくなっちゃってさ。あら、友だち?」  視線を向けられて、胡南が目をぱちりと見開いたまま固まっている。  こんな派手なおばさんが突然登場したら、びっくりするに決まってるよな。と永嶋がげんなりしていたら、胡南はふいに魔法がとけたみたいに瞬きをいくつかして、おもちゃのロボットみたいにぺこりと頭を下げた。 「あ、胡南育です。こんにちわ」 「あらー、礼儀正しくてかわいい子じゃん。京也をよろしくね」  語尾にハートマークがつきそうな声でそう言うと、じゃああたし行くわねー、と真っ赤なピンヒールを鳴らして母親は出かけていった。言わずもがな、母親の仕事は水商売なのである。  それのおかげで、永嶋はずいぶん苦労した。おまえんちのお母さん、ミズショーバイなんだってな、男の人相手に、お酒飲む仕事なんだってな、とよくからかわれて、そのたびに取っ組み合いのケンカをしたものである。そうでなければ、親からつき合いを止められてでもいるのか、あまり永嶋に近寄ってこないやつもいた。  そんななかで、何も気にしなかったのが浦辺と杉戸だった。永嶋はもう、この二人さえ一緒にいてくれたらそれで充分だと思っていた。今も、学校でつるんでいるやつよりよほど、塾で浦辺や杉戸としゃべっているほうが楽しいし断然気楽だ。  正直、胡南には知られたくなかった。胡南にだけ、というわけでもないが、知られないですむならそれに超したことはない。狭いアパートも派手な母親も、恥ずかしく感じるのが申しわけなくもあるが、堂々とできないのも事実だ。  胡南は、どう思っただろう。  母親の姿が見えなくなると、胡南は少し上気した顔で永嶋を見た。 「すごいな、永嶋のお母さん」 「……何が」 「すっごい若くて美人だ! いいなー、うちのお母さんなんか最近どんどん太ってきちゃってさー、化粧とか全然しないし。俺もあんなお母さんだったら一緒に外歩いても平気なのにな」  ひと息にそう言って、それから急に慌て始める。 「あ、ごめん。一人でべらべらしゃべっちゃって。お母さんのことそんなふうに言われるのとか、いや、だよな……?」 「いや、別に。てか、むしろ嬉しい」 「ほんと? なら、良かった」  ほころぶように、笑顔になる。  あの日あの土手の斜面で見たのと同じ、無防備な笑顔だった。  俺、やっぱこいつのこと、好きだな。  すとん、と何かが落ちるように、永嶋は得心した。  自分がゲイだという自覚は早くからあったが、胡南に対する気持ちが友人としてのものではないと明確になったのが、きっとこのときだった。

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