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「京ちゃーん! 久しぶりーッ」
帰ったとたん、抱きつかれた。昔はいつも見上げていた顔が、今は永嶋の肩あたりにある。相変わらずの細い体を抱きとめた。
「彼方 ちゃん、帰ってきてたんだ」
「あー、すっごいいい男になってる。ねえ、もしかして彼氏できた?」
「できるわけねーじゃん」
両手で永嶋の顔を挟んで近づけようとするこの年上の人を、優しく押し返す。するとくるりと踵を返し、奥へと戻ってゆく。
「智恵 ちゃーん、やっぱいい男だわー。さすがあたしの京ちゃん」
「京也はあたしのだし」
冬にはこたつに変わる居間のテーブルで、母親がコーヒーを飲んでいた。ようやく靴を脱いで玄関を上がった永嶋も、鞄を置いて二人と向かい合うように座る。
「いつ帰ってきてたの?」
「先週。二人に早く会いたくてさー」
そう言って嬉しそうに笑う。
彼方は、永嶋の母親の高校のときの同級生だ。だから彼方は、学生のときのように永嶋の母親を名前で智恵と呼ぶ。昔から痩せ型で、腕も腰も脚も折れそうなほど細い。まだ梅雨にも入らない初夏だというのに、彼方はノースリーブのオールインワンできれいな二の腕を惜しみなくさらしている。並の女なんかよりよっぽどきれいかもしれない、と永嶋は思う。
何世代か上に北欧の血が入っているという彼方は、肌が抜けるように白く、瞳の色も青みがかっている。長く伸ばした色の薄い髪を高いところでふんわりとシニョンにしていて、見るからに女性みたいだが、彼方はちゃんとした男性だった。胸はぺたんこである。
「彼方ちゃん、いつまで日本にいんの?」
「一か月くらいはいるの。だからまたしょっちゅう来るね。よろしくー」
永嶋が中学三年の春に、彼方は仕事の都合でイギリスへ行ってしまった。顔を合わせるのはだから、二年ぶりということになる。
「しょっちゅうなんて来なくていいわよー。あ、でもまたごはん作ってよ。彼方のごはんおいしいから好き。ね、なんかイギリス的な料理とか。あ、今日泊まってく? 隣に布団敷いて寝ようよー」
「それいいー! 修学旅行みたい」
「ってあんた修学旅行行ってないじゃん」
「そうだったー!」
きゃはは、と二人で大笑いしている。すっかり学生に戻ったような雰囲気だが、永嶋の知るかぎり、この二人はずっとこんな感じだった。彼方は男性でこんな風貌をして女性のような口ぶりだけれど、女性になりたいわけではないらしい。どこも手術をしていないし、女性として扱われたいわけでもない。でも、恋愛対象は男性である。つまりゲイだ。
母親の智恵から聞いたところによると、彼方は学生時代も今とあまり変わらなかったという。いじめられたり、気持ち悪がられたりもしていたらしい。でもそういうのをまったく気にしなかった智恵は、彼方の唯一の友だちだった。以来、大親友なのだという。
「じゃあ智恵ちゃん、さっそく夕飯一緒に作りましょ。ねえ京ちゃん、何食べたい?」
「なんでもいいよ」
「なんでもいいは一番言っちゃだめな言葉なのよ。彼氏に嫌われちゃうわよ」
「だからいねーって」
「でも京也、好きな子いるらしいのよ」
まったく隠す気のないひそひそ声で智恵が言う。
「は? だからいねえって!」
「親としては暖かく見守りましょう」
「そうね、あたしも一応京ちゃんの親だものね」
きゃー、とふざけながら二人は台所へ入ってゆく。
永嶋がゲイであることを、最初に打ち明けたのは彼方にだった。中学に上がったばかりのころだ。智恵には言わないほうがいいだろうか、と相談したのだ。彼方は、言ったほうがいいという判断だった。自分の子どもだからさすがにちょっと驚くかもしれないけれど、絶対に受け入れてくれる。だってあたしと親友になれたくらいなのよ? と彼方に言われて永嶋は納得した。どっちにしろ、どんなに隠したって智恵はきっと気づくだろう、とも思った。
「あ、そうだ。あのさ」
永嶋が台所を覗くと、二人は肩を寄せ合って冷蔵庫の中を覗きこんでいた。智恵が振り返る。
「何?」
「俺、バイトしていい?」
「バイト? なんで」
「友だちがバイトしてる飲食店なんだけどさ、人が足んないんだって」
「いいじゃん。行ってあげなよ」
軽くそう答えて、智恵はまた冷蔵庫に向き直り、使える食材を彼方とああだこうだ吟味し始めた。
本当は永嶋は、高校に入ったらすぐにバイトを始めるつもりだった。自分の小遣いくらいは自分で稼ぎたいと思っていたのだ。それができなかったのは、混み入った事情がある。
中学三年の暮れ、智恵の母親である永嶋の祖母が脳梗塞で倒れたのである。一命はとりとめたが半身麻痺が残った。慣れない生活を手助けするために智恵が祖母のところへ通うことになり、そのために仕事も辞めてしまった。そのせいで、永嶋は私立を受験できなくなった。授業料を支払う目途がなくなってしまったからだ。
ごめんね、と智恵は永嶋に謝ってきたが、謝られる必要はまったくなかった。そもそも、永嶋は私立になど行きたくなかったのである。行けるほどの学力がある、と知って永嶋を私立の進学校へ行かせたがったのは智恵のほうだ。別れた夫に対する意地でもあったんだろう。そのために水商売で必死に稼いでいた。智恵が家にいない間、永嶋の面倒を見てくれていたのが、彼方だったのである。
永嶋はもちろん、本当は私立へは行きたくなかったから謝らなくてもいい、などと智恵には言わなかった。祖母のことは心配ではあったが、おかげで永嶋は、奇跡的な偶然とはいえ、胡南と同じ高校へ進学することができたのだった。
ただ、祖母の介護は思いのほか大変だった。ほとんど毎日、週末は泊りがけで智恵は出かけてゆく。永嶋は家のことを請け負った。食事は自分で用意したし、智恵の手が回らない家事も代わりにこなした。バイトをする余裕などまったくなかったのだ。
幸い、祖母は一年ほどで空きの出た施設に入所することができた。智恵は同居することを考えていたが、祖母のたっての希望だった。今はもう、定期的に施設へ面会に行くだけだ。智恵は水商売に戻らず、介護士の資格を取るため目下勉強中である。
「ねえねえ京ちゃん、彼氏できたら絶対あたしに紹介してね」
夕飯を食べていると、突然彼方がそんなことを言ってきた。さんざん吟味したというのに、献立は一般的なクリームシチューだった。なんでシチュー。素朴な永嶋の疑問に、だってルウがあったんだもん、と智恵はシンプルな答えを返した。
「やだよ。なんでだよ」
そう返すと、彼方は不服そうな顔をした。
「だって見たいじゃなーい。京ちゃんが選んだ相手。ね、智恵ちゃん」
「見たいけど、見たくないような」
「え、なんで? 相手が男の子だから?」
「違うわよ。男だって女だって嫌なの。母親っていうのはね、息子を誰にもとられたくないもんなの」
「そうなんだ。やっぱり母親にしかわかんないことってあるのね。あたしじゃ母親になれないのね」
「だって母親あたしだし。彼方は彼方よ。別に母親じゃなくたっていいじゃん」
「それもそうね。じゃあ京ちゃん、あたしだけには紹介してね」
「だからしねーって」
うっそー、どうしよう智恵ちゃん、京ちゃんが反抗期だわ。こいつは昔からこんな感じよ。そんな会話を聞きながら、永嶋はシチューを飲み干した。
幼いころに両親が離婚した永嶋は、父親のいる家庭を知らない。だから、彼方のいるこの光景が一番落ち着くし、安らいだ。空になった皿を持って永嶋は、おかわりをするために立ち上がる。
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