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すぐに来るだろう、と思っていたが、胡南はなかなか来なかった。
さすがにちょっと、ためらっているのかもしれない。いくら彼女に頼まれたからといって、永嶋の嫌がりそうなことをしようとするのは相当勇気がいるだろう。
あれから半月近くが経ち、すっかり梅雨入りして連日雨模様だった。そんな中、案の定学校のやつらは次々と永嶋のバイト先に来店した。同級生の男子たちは完全な冷やかしで、女子は見覚えのあるのもないのも代わるがわるやってくる。永嶋のその格好がレアなんだってさー、と桐谷が教えてくれたが、そんな情報は別にいらない。
正直、気鬱だった。永嶋の連絡先を女子に教えていいか、なんていう確認を胡南にされるのはまったくもって嬉しくない。きっとまた、冷たくあたってしまうだろう。勝手にすればいいだろ、などと切って捨ててしまいそうな気がする。胡南も嫌な思いをするはずだ。どうしても避けて通れないというなら、そんな面倒ごとはさっさと終わらせてしまいたい。
だから、桐谷から伝言を聞いたとき永嶋は、やっときたかと胸をなでおろしたくらいだ。
「さっきお友だち来てたぜー。胡南くんとかいう」
休み時間、日直だからと現国の教師に指名され、集めたノートを国語科準備室まで運んで戻ってきたところだった。
「ああ。なんて」
「昼休みにクイズ研究会の部室に来てほしいっつってた」
なんだそれ。しばし呆然として、そういえば胡南がクイズ研究会に入っていたことを永嶋は思い出す。確か一年のときに同じ委員になった隣のクラスのやつに誘われて断れなかったと言っていた。胡南はそういうところがある。人が良くて、流されてしまうのだ。
「クイズ研究会の部室ってどこだよ」
「俺も知らんくてさー、みんな絶対知らねえと思うじゃん。だから胡南くんも俺が聞く前に説明してった。北校舎の四階だってさ。プール側のほうのつきあたり」
「ふうん」
「え、おまえクイズ研究会に入んの?」
「入るわけねえだろ」
だよなー、と桐谷はイスの上に膝をたてて座った格好で、マンガの続きを読み始めた。
永嶋も自分の席につき、あと数分で鳴る予定のチャイムを待つ。
いよいよ来たか、と思う。だからといって別に何をかまえるというわけでもない。胡南はきっと苦しげな顔をするだろう。なるべく傷つけないようにはしたかったが、胡南の口ぶりに小泉繭香の気配がちらつくとやはり、平静ではいられない自信がある。
あのままでいられたら良かったのに、と常々思う。一年のころは楽しかった。胡南はいつも永嶋のそばにいたし、胡南の一番近くにいたのは永嶋だった。クラスが離れてしまうと、一瞬にして遠くなった。今はもう、永嶋には手の届かないところにいる。
窓の外は相も変わらずぐずついた天気だった。
永嶋は渡り廊下を使って北校舎へ向かい、プール側の階段を四階へと上がった。昼休みになって廊下にはたくさんの生徒が行き来していたが、特別教室の多い北校舎はほとんど人影がない。
つきあたり、と聞いていたとおりの部屋の前に立つと、古びた扉の真ん中にクイズ研究会と書いた紙が貼ってある。部という名前がついていないだけあって、なかなかのボロさだ。ドアノブをひねってみたが、開かなかった。
「あ、ごめん、遅くなって」
振り返ると、胡南が駆け寄ってきていた。手には鍵を持っている。急いで鍵穴に差しこもうとするのだが、焦っているのかなかなかうまくいかない。
「落ち着けよ。ゆっくりやればいいから」
「う、ん。あ、開いた。入って」
扉の様子から予想したとおり、室内は鬱蒼としていた。どうやら倉庫になっていたところを部室として使っているらしい。スチール製の棚や収納庫が壁沿いに並んでいたり、室内を区切っていたりする。
「おまえ、クイズ研究会だったんだよな。すっかり忘れてた」
永嶋は歩きながら辺りを見てまわる。部室として使っているらしい手前の一部分以外は、倉庫時代の名残りらしき書類やファイルが棚にもガラス戸の書庫にも乱雑に積まれている。
「うん。俺も完全に幽霊部員だから忘れそうになっててさ。でもときどき、鍵の番が回ってくるんだよ。今月は俺の番で、クイズ研究会の活動は週一なんだけど、そのとき開け閉めのために来なきゃいけないんだよね」
「へえ」
ぶらぶらとのんきにうろつく永嶋に反して、胡南は自分の所属する会の部室だというのに、さっきからずっと所在なげに立ち尽くしている。昼休みはそう長くもない。用件は早くすませたほうがいいだろうと、永嶋から促した。
「それで、何の用?」
言い方に、険があっただろうか。普通にしようと思えば思うほど、普通がわからなくなる。胡南が息をのむ気配がする。
「あ、あのさ、あの」
見るからに、胡南は言いよどんでいるようだった。用件はわかっている。だから早く言えばいい。そうは思うが、あのとき胡南と繭香の話を立ち聞きしていたとは言えないから、知らないふりをするしかない。
「あの俺、永嶋に頼みがあるんだけど」
「頼み? なんだよ」
「えっと、ちょっと言いにくんだけど」
「いいよ。言ってみろよ」
目が合うと、胡南はどこかすがるようなまなざしを向けてきた。一瞬、永嶋のほうがひるむ。
「あのさ」
胡南がそう言いかけたときだった。すぐ外の廊下で、話し声がした。
女子が数人連れ立っている。この部室のある階には他にも、吹けば飛んでいきそうな弱小マイナー部の部室があるらしかったが、それは反対側だった。階段を上がってプールのある側に曲がったところには、このクイズ研究会しかない。だから外の話し声は、この部屋に用事があるとしか考えられなかった。
「やばい」
そう、悲愴な声を上げるや否や、胡南は永嶋の手をとった。
「え、胡南?」
「鍵かけとけば良かった。こっち来て」
永嶋を引っ張るようにして、極力物音をたてないように奥へと入ってゆく。
「どうしたんだよ」
「活動日じゃないときに勝手にここに入ってたら怒られるかもしれない。隠れないと」
「だって鍵はおまえが持ってるから普段は開いてないんだろ? そんなとこに誰も来たりしないだろ」
「用事のある先輩とか先生が来るかもしれない。予備の鍵は職員室にあるから。あ、ここなら入れるかも」
胡南が見つけたのは、部屋の一番奥の隅の暗がりにあった、掃除道具入れだった。今はその用途として使われていないようで、中には丸めたポスターのようなものが放りこまれているだけだ。
「早く入って」
「え、ここに?」
強引に押しこまれ、ひやりとしたスチールの固さを感じたかと思うと、反対側に思わぬ感触がして永嶋は思考が止まった。
一緒に入りこんできた胡南は、内側から器用に扉を閉めた。上部にあるわずかな隙間から射す薄い光以外は、真っ暗闇になる。
なんだよ、この状況は。永嶋はめまいがしそうになる。
入ったかたちのまま、固まってしまっていた。永嶋の左手は上げた状態で、壁を押さえている。その腕と永嶋の顔の間に、胡南の頭があった。脚の間に、胡南の脚がある。どこも触れてはいないが、少しでも動くと触れてしまいそうだった。
なんだよ、なんなんだよ。
胡南の息づかいが、すぐ近くでする。胡南とはたいてい一緒にいたけれど、あたりまえだがこんなに近づいたのは初めてのことだ。
永嶋の鼓動が、自分では思ってもみないほど速くなっていた。呼吸が乱れてしまいそうで、ことさら意識して慎重に整える。
「ねー、ほんとにここ?」
女子の高い声が響いてきて、永嶋は息をとめた。
「そう聞いたんだけど。ここにいるって」
「いないじゃん、永嶋くん」
「おかしいなあ」
どうやら、永嶋を探しに来たらしい。でもおかしい。なぜ彼女たちは、永嶋がここにいることを知っているのだろう。
まさか。嫌な考えが頭をよぎる。
小泉繭香の友人だという女子を、永嶋と引き合わせようと胡南が呼んだのだろうか。
だとしたら、許せないことだ。
パタパタと、室内を歩き回る足音がする。それに動揺したのか、胡南がわずかに身じろぎした。こつ、と、永嶋の肩に固いものがあたって、体が強ばる。位置的に、きっと胡南の額あたりだ。
胡南は、あたった部分をあたったままにしていた。
どうして、離さないんだろう。早く離してほしい。
たった一部分が触れているだけだというのに、視界が閉ざされている暗闇の中では感覚が普段よりずっと過敏になる。触れた部分から熱が広がってゆくように、体が熱くなってくる。
足音は、まだ去らない。また、胡南が体をよじった。
どうして動くんだ。動くんじゃねえよ。
す、っと腿の内側を胡南の脚がかすった。電気が走ったみたいに、永嶋の背すじが震える。いい加減にしろ、と怒鳴りたくなるのをどうにか堪える。体の中心に、熱がたまってゆく感覚がする。自分では制御できない部分だ。そこから意識を遠ざけるために、永嶋はゆっくりと息を吐いた。
「おまえさ」
すぐ近くにある耳元にだけ届くように、永嶋は小さく言った。
「どういうつもりだよ」
「な、何、が?」
胡南の不安そうな声が至近距離から耳朶を震わせ、永嶋はますますイラだってくる。どうにもできないもどかしさが、怒りに変換されているようだ。
「……俺、ゲイだっつったよな」
「い、言った」
「おまえのこと好きだっつったよな」
「……うん」
「なんなんだよ、これ」
生殺しだ。わかっていてこんな真似をしているのだとしたらなおさら、怒りが増幅する。
「バカにしてんのかよ」
「え? そんなこと」
「じゃあなんで、こんな」
いないねー、いこっか。いこいこー。
そんな声を残して、突然の侵入者たちが部屋を出てゆく音がした。彼女たちが完全に遠ざかるのに充分な時間を置いて、永嶋は扉を押し開けて狭い空間から抜け出した。息が上がっている。脳に酸素が行きわたっていないみたいに、頭がくらくらした。
「あの、永嶋……」
「いいかげんにしろよ」
がまんしていたつもりだったが、強い口調になった。でも、止められない。
「ふざけんなよ。からかって楽しいのかよ」
「え、俺、からかってなんか」
「無意識ならよけい、たちが悪いだろ。そういう無神経なところが腹立つんだよ。どうせゲイがなんだかわかってないんだろ。わかってないからこういうことができんだよ」
「ごめ、でも俺、いろいろちゃんと、考え」
「もういいから俺には関わんなよ。彼女とうまくやってりゃいいだろ。おまえのことなんか」
言いかけて、やめようとした。でも、やめようとしたのを永嶋は、やめた。
「おまえのことなんかもう、好きでもなんでもない」
胡南に背を向けて、永嶋は足早に部屋を出た。そのまままっすぐ、一度も足を止めずに教室まで戻った。
途中で鳴り始めた予鈴が、永嶋の頭の中をぐるぐると回っていた。
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