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第3話

 教授の話を聞きながら浬は隣の空席を見た。  連絡先を交換してからというも、辻は毎朝「レジュメと代筆よろしく」と連絡がきて、週に一度溜まったレジュメを渡す決まりになっていた。  辻は毎回申し訳なさそうに手を合わせ、「浬がいて本当に助かる」と言ってくれる。大事な用がある友だちの役に立てているならと使命感に燃えていた。  ふと斜め前に座る男が視線に入る。  浬の名前を知っていた男は教授の話を聞き、ノートに書き留めている。  シャープペンの動きは滑らかで、それを握る男の指は長い。基本を忠実に模した握り方は知的に映る。姿勢のよさも相まって育ちの良さを感じた。  見つめている視線に気づいたのか男は肩越しにこちらを振り返った。切れ長の双眸は訝しげに細められ、何度も研磨した刃物のように鋭さに磨きがかかっている。  心臓を刺されるような恐怖を感じ、慌てて視線を逸らした。  なぜか男は講義がかぶると浬の前に座ることが多い。伸びすぎた前髪のように浬の視界に入ろうとしているのだろうか。  浬としては面識がない。  事故に遭ってからというもの両親以外とは会ってはいない。入院していたときも退院してからも、浬を見舞いに来る人は誰一人いなかった。  誰とも会わずに上京してきたから、昔の自分のことは本当のところよく知らない。  ただ金髪に染めていたり、自室の机の中に煙草が入っていた様子から不良と呼ばれる類なのだろうなと推察していた。  そして家の壁や窓に穴が開いていたり、家具が傷ついている様子から両親に暴力を振るっていた可能性もある。  やさしい両親を傷つけていたのかと思うと 『浬』はなんて下衆な人間なのだろうと軽蔑していた。  終了のチャイムが響き始める。  それを合図 に学生たちが出口へと向かった。男もいつのまにか席にはおらず、人波に乗って姿を消し てしまった。  男は浬の視界に入ってくるだけでなにもしない。声をかけられることもすれ違いざまに殴ってくるような卑劣なこともしなかった。 ただ「忘れるな」と胸倉を掴まれているように睨みつけるだけ。  このまま関わらずに平穏に暮らしていければ男の存在などそのうち気にならなくなるだろう。  「よ、浬」  「辻くん……どうしたの?」  珍しく教室に顔を見せた辻は普段の部屋着ではなく、アイロンがびしっとかかったシャツと黒のストレートデニムで小綺麗に決まっている。  「今日の夕方に新歓コンパあるサークルみつけたんだ。一緒に行こうぜ」  「行く!」  友人からの初めてのお誘いに飛びつくように首肯した。 辻は一瞬顔を引きつらせたが、すぐにいつ もの人懐っこい笑みを浮かべた。  「じゃあ六限が終わったら正門で待ち合わせしよう」  「わかった」  辻は教室を出て行き、浬はその後姿を見送った。 けれどそこで気付く。このあとの講義も辻は取っているのに一体どこに行くのだろう。

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