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第17話 広がる

「おーつかれさあっしたー!」  コントロールルームにいるスタッフさんたちに声をかけ、チルカのメンバーと仁木さんは先にその場を辞した。相変わらず孝哉の髪をいじり倒している二人と笑っている孝哉を遠目に見ながら、仁木さんと俺は二人で廊下を歩いた。 「録音は予定通りでしたね。ミックスはチルカを長年見てくれていたエンジニアさんにお願いしてあります」  仁木さんはそう言って、名刺入れから真新しい名刺とうっすら茶色く変色し、縁がやや柔らかくなっている年季の入ったものを取り出す。その二枚に共通して書かれていた名前を見て、俺は思わず大声をあげてしまった。 「え、和気さん? この和気さんって、あの、俺が知ってる方ですか? うそ、あの方もうチーフなんですか? 本当に? だって俺が知ってる和気さん、めちゃくちゃ若い人でしたよ?」  名刺に堂々とかかれているチーフミキサーの文字を見ながら、自分がいかに長い間音楽業界から離れていたのかを思い知らされた。仁木さんもそう感じたのか、 「そうですね。あなたがいなかった時間は、本当に長いものでしたよ」  とポツリと呟く。放っておくとまた泣き出しかねないと思い、俺は話題の方向を変えることにした。 「まあそうか、そうですよね。だって五年ですもん、それだけあれば色々変化はありますよね。俺のいた会社だったら、五年いたら新人からチームリーダーになるくらいの時間ですから。あ、この間エンジニアさんたちと家の録音環境の話になって、SN比の話題になったんですよね。その時、最初は音響用語として話していたのに、気がつくと通信用語に頭の中で入れ替わってたんです。受信信号とそれに含まれるノイズっていう意味では全く同じものですけれど、会社の仕事内容とごっちゃになってたんですよ。この五年間で俺にとってのSN比は、いつの間にか通信用語としての認識の方が強くなっていた。そんな事は、以前の俺からしたら信じられないことです。まあ、これからスタッフさんたちと話していけば、戻るとは思いますけどねー」 「そうですね。電気工学と通信用語は混乱しますよね。ベースは同じだからこそわかりにくい」 「そうそう。しかもね、もう半年経ってるのにまだ混乱するんですよ。そこはなんででしょうね」 「何、またおじいちゃん発言してるの? ボケてるからなんでしょ、隼人さん」  ふと気がつくと、俺たちの間にキャンディブルーの頭がひょこっと覗いていた。その目が眩むほどに輝く髪を靡かせて、艶めいた笑顔で孝哉が笑っている。レコーディングが終わって力が抜けたのだろうか、いつもよりさらに幼さを滲ませていた。 「お前なあ、それが彼氏に言うことかよ」 「あはは、だっていつも老人みたいな事ばっかり言うからさ。腰が痛え、足が痛え、目が見えねえって。で、今度は物忘れなんでしょ? はい、おじいちゃん確定」 「……すみませんねえ、現役の大学生に比べたら、そりゃあ年寄りですよ。って、何度俺に自分を貶めさせたら気が済むんだ?」  孝哉の頭に拳をつけて、それをぐりぐりと擦り付ける。 「痛い痛い痛い! もーやめてよ。仁木さん、笑ってないで助けてー」  助けを求められた仁木さんは、孝哉と戯れ合う俺の顔を見て、菩薩のような笑みを湛えていた。彼は俺が楽しそうにしている姿を見ると、なぜかいつもあの顔をして喜ぶ。俺にとっとの仁木さんは、時折おばあちゃんのようなものを感じる存在でもあったなと、ふと思い出した。 「じいさんと付き合ってるんなら、介護までよろしくな」 「ええ? いやそこは若いって言い張ってもらったほうがいいな……。でも、面倒見るつもりだよ!」  そう言って無邪気に笑う孝哉に、思わず心臓を掴まれてしまった。 「いやいや、だから、そこはお前からかっこいいとか言ってくれても良くない? 俺に憧れてたんじゃなかったっけ?」  そうやってギャーギャー言い合いをするのを、メンバーと仁木さんは当たり前のことのように見守ってくれている。俺と孝哉にとっては、この空気感が最もありがたいと思えるものだった。  友人も少なく、多忙なお父さんと二人暮らだった孝哉は、あまりこういう戯れ方をしたことがないらしい。日常の生活の中でも、俺がこうやって構ってやると 「痛いよ、おじいちゃん」  と言って子供のように喜んでいた。  子供のようにとは言っても、孝哉曰く、これは『おじいちゃんと孫』の遊びらしい。俺がそれに対してなんと抗議しても、そこは譲れない拘りなのだと言って頑として聞かない。一時期は真剣に抗議したりもしたのだが、最近ではそれも馬鹿馬鹿しくなって来て、それならそれでいいとさえ思うようになっていた。 「仁木さーん、そう言えば今朝何か話があるって言ってませんでした?」  俺たちが戯れあっている所に、先を行っていた純が孝哉を追いかけて戻って来ていた。また捕まえた孝哉の髪を掴み、わしわしと触り続ける。遅れて耀と色田も戻って来ていた。 「ああ、そうですよ。その話をお伝えするのを忘れていました。そんなおじいちゃんあってこそのチルカですから。新録のスワングダッシュが、配信サイトの上半期のランキング入りしたんです! おめでとうございます! ……それをお知らせしようと思いまして。スワングダッシュはリリース当時から人気でしたけれど、どこのランキングでも十位以内までは行けなかったんです。それが、今回なんと八位だったんですよ! これは隼人さんが五人で演るためにアレンジし直して下さったものです。つまり、間違いなく隼人おじいちゃんのおかげという事になりますよね?」  仁木さんは一息でそういうと、徐に俺の手を取り、強く握りしめた。そして、結局はその目にまた涙をいっぱい溜めてしまうことになる。大きな瞳を涙が埋め尽くし、廊下のライトが乱反射してキラキラと輝いていた。 「今のチルカなら、きっと皆さん幸せに過ごしていけると思います。半年前の私たちのその予想は、やっと現実になりつつあります。大変なことはたくさんありましたし、あなたには償っても償いきれ無いものが残っていますが……私はあなたに感謝しかありません。戻って来て下さって、本当にありがとうございます」  彼は、俺の手を握りしめたまま項垂れるようにして咽び泣いた。嬉しくてどうしようもないほどの涙には、何度拭っても拭いきれない後悔も含んでいるようだった。それは色田も同じで、どんなに嬉しい事があったとしても、俺の右目が失明している事実がある限りはこの状況が続くかもしれない。俺は密かに、そのことに危機感を持っていた。 「仁木さん、俺がいくらもういいと言っても、あなたも色田もずっとしこりを抱えたままですよね? でも、それもこのアルバムが出るまでだと思ってます。もう少しであなたたちは自由になれると思ってます。俺の言いたいこと、わかりますか?」  俺の言葉に、仁木さんは 「それは、どう言うことですか?」  と困惑の色を滲ませた。 「スワングダッシュはいい曲です。自分で言うのもなんだけど、孝哉が入って五人になってからのアレンジは最強だと思ってます。でも、これは旧チルカの曲。いくらブラッシュアップしても、耀と純と色田は、俺がこれを歌うたびに過去の傷を抉ることになりかねない。でも、今の五人でベースを築き上げてしまえば、過去の傷も乗り越えられると思うんですよ。そうなれば、あなたも色田も、俺たち全員が、きっと過去から解放されると思うんです。どうですか、仁木さん。そう思いません?」  仁木さんの瞳の中に、希望を孕んだ戸惑いが生まれた。絶望の色はやや薄れ、その頭脳は可能性を計算している。俺は彼が納得するのを待った。言葉を多くかけるよりも、その脳内での会議が終了するのを待つ方が、きっと納得が行くのだろうと思うからだ。 「そ、うかもしれません、ね。確かに……。今の五人で正の感情を持つベースが築ければ、過去の負の感情は感じにくいかもしれません。消えはしないとは思いますが、あなたたちが心の底から楽しんでいる姿を見る事が出来れば……」  仁木さんの瞳の中の希望の色は、だんだんと濃くなっていく。それに合わせて、俺たちは五人で仁木さんを囲んだ。 「仁木さん、何言ってんの。違うでしょ? 俺たちはミュージシャンだよ。見て感じるんじゃダメだよ。音を感じて。あなたならわかるでしょう? いい音に共鳴して、俺たちの体から鳴る音が」 「体から鳴る音……?」  仁木さんは、記憶を辿るように視線を彷徨わせた。俺が言っている言葉の意味は、わかるようでわからないだろう。  チルカのメンバーは、みんな音の中にいるだけで幸せを感じるタイプの人間だ。その人間が五人揃い、五人で一つの曲を鳴らす。そこに感情の共鳴が発生するのは必至だ。  そして、そこに発生した波を、間近で誰よりも多く体感している人がいるとするならば、それは仁木さんに他ならない。 「楽器や声の楽曲としてのサウンドに、それを通して楽しいという反応が発生する。目に見えるものと同じくらいに、肌で感じるものがあるはずです。それは空間を伝わって他者の体にたどり着く。仁木さんは、その中でも特に情報量を多く受け取れる人だと思います。そうでしょう?」 「そう……かもしれません。共に過ごしてきた時間があるからこそ、他の方よりはそれを感じ取りやすく、また理解しやすいと思います」  俺はその答えに「そうですよね」と返した。報告書のような話し方が懐かしい。彼とのこのやり取りは、俺にプロのミュージシャンとして現場に戻って来たのだという実感を、何よりも与えてくれていた。 「で、俺は出来ればその体験をたくさんの人にしてもらいたいなって思うんです。つまり……」 「お前、ライブしたいのか?」 「うお、びっくりした。……おう、お前らが良ければな」  色田が、俺と仁木さんの間に割り込むように顔を出してきた。その表情は、まるで俺が馬鹿げたことを言っていると言わんばかりに愕然としていた。  それはそうだろう。俺は、色田にマイクを投げつけられて以降、一度もステージに立てていない。その場に立つと、体が震えて何も出来なくなるという無様な姿を、色田の頭にこびりつかせているはずだ。  でも、今の俺には最強の精神安定剤がある。 「大丈夫だから、心配するな」 「……本当か?」  胸が痛むのだろうか。色田が顔を顰めていく。彼の過去の罪は、彼にとってその存在を消すことがなかったのが奇跡であると思わせるほどに、重いものだったのだ。  真面目であるが故に誤解されやすいが、誰かが色田を意図的に追い詰めたりしない限り、本来の色田はどちらかというと優しい部類に入る。その証拠に、今目の前で俺のことを心配している彼の目の中には、常に罪悪感も覗いていた。  俺はそんな色田の肩を思い切り叩いた。色田の体に俺が力強く生きていると実感させるために、強く思いを込めて叩いた。 「おう。実は何度か変装してライブに出たんだ。リハビリしないとダメだろう? 大丈夫だったんだよ。ただし、孝哉が同じステージにいれば、だけどな」 「うん」と返事をしようとしている孝哉の隣で、仁木さんが目を見開いて震えていた。黙ってライブに出たとあっては、契約違反になるかもしれない。自分が管理するバンドで、まさかそんな不祥事を起こされようとは思っていなかったのだろう。震える仁木さんには悪いのだが、思わず笑ってしまった。 「仁木さん、大丈夫だよ。俺一応社長には相談したんだ。仁木に許可したって伝えておくって言われたんだけど、言われてないの?」 「言われてませんよ! もう、今めちゃくちゃ心配しました……寿命が縮む……」 「あーあ、社長が仁木さんに怒られてちっちゃくなる姿が目に浮かびますねえ」  遠くから見ていた耀がケラケラと楽しそうに笑った。俺がライブに戻ることを、誰よりも待ち望んでいたのは、耀だろう。その笑顔の中に、安堵の色が滲み出ていた。 「照明とかで考慮してもらわないといけない部分もあるから、色々ご迷惑……」 「かけて下さい! かければいいんですよ! いっぱいかけて下さい!」 「あ、ちょっと! 仁木さん、隼人さんに抱きつかないで!」  興奮して俺に飛びかかりそうになっている仁木さんの隣で、孝哉が焦って仁木さんに飛びかかろうとしていた。その姿を見ていた耀が、 「平和だなあ。この状況でいい曲作って、ガンガンライブやろうぜ!」  と叫んだ。  新生チルカは、足並みを揃えて歩き出した。それから半年を何事も無く、幸せに過ごしていた。今日という日は、これまでで最高に希望に満ちていた。  でも、俺はその後に思い知らされる事になる。  過去は権力に負けた。そして、これからは、見えざる敵に追い詰められる事になる。  幸せに笑い合う俺たちの後ろに、別れの日が迫っているなんて、この時の俺には想像もつかなかった。

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