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第19話 どうかもう一度1
「孝哉さんの左手の傷の経緯は、お父様の和哉さんから伺ってはいました。だからこそ、彼が音楽の世界に復帰するのならば、チルカにバックを務めて欲しいと思われたそうです。彼のそばに隼人さんがいて、隼人さんの気心が知れたメンバーと共に演奏すれば、忌まわしい記憶が薄れる一助にはなるのでは無いかと思われたそうです。襲われたことに対する恐怖は単体のものではなくて、その先に音楽を奪われるという恐怖がついてまわるから、その心配がなくなったのだということを、何度も孝哉さんの脳に学習させて欲しいと言われまして」
俺から孝哉のパニック発作についての説明をする途中、仁木さんは父親である新木和哉氏から頼まれていたことを教えてくれた。それは俺が親父さんから頼まれていたことと同じで、孝哉には音楽さえあればどんなトラウマも超えていけるほどの充足感があると思っているようだった。
それでも、孝哉が歌っている時の表情を、性的なものとして捉えられがちであるということを、本人は決して好意的には捉えていないことは分かっている。ただ、人前に立って歌う以上はそれは避けられない問題で、いつか必ずこういうことが起きるということは分かっていた。
「俺たちが二人で弾き語りをするスタイルは、それも考慮してあの形にしたんだ。あいつがどんな顔をして歌っていても、俺はいつも後ろからあいつを守る。誰も邪魔出来ないほどに近くにいるって、肌で感じとれるようにしたかったんだ。今でも家で過ごす時間は、大体あのスタイルで歌ってる。何度も繰り返したから、孝哉にとっては俺は精神安定剤みたいなものなんだ」
「そうか、それであの不思議なスタイルは出来上がったんだな。つまり、そんな状態でもお前と一緒なら孝哉はやりたいんだよな? そんな目で見てくるやつは今後もいて、危険は付きまとう可能性の方が高いだろう? それでも聞いてくれる人がいるなら、ステージに立ちたいっていう気持ちはあるってことだよな?」
耀は孝哉を労わりながらも、優しい言葉で孝哉の背中を押そうとしていた。一部のファンが反対しようとも、チルカとしてステージに立ち続ける事が孝哉の望む事であるならば、迷いなく共に戦うことを選ぼうとしてくれている。耀も純も、そのあたりの感受性や共感能力はかなり鋭いものがある。まるで自分が傷つけられているかのように、その顔には苦悶の表情が浮かんでいた。
孝哉は、耀の問いに迷いなく頷いた。言葉を発することは無く、その代わりにはっきりと大きくその首を縦に動かしている。発することのできない音の代わりに、何度も行動でその意思を示した。
「よし、それならこのまま頑張ろうぜ。仕事中もプライベートでも安全に過ごせるように配慮してもらおう。俺たちも出来る事を探すよ。俺たちは孝哉が必要だ。お前も俺たちを必要だと思ってくれている。それなら、チルカはこのまま継続する、ただし、ツアーは安全面が確保されるまでは行わないっていう決定でいいよな?」
耀の言葉を聞いて、仁木さんも強く頷く。そして、手元の情報を睨みつけると、忌々しげに吐き捨てた。
「そうですね、ではそう報告しておきます。あまり口にしたくはありませんが、元々チルカにはツアーの予定はありませんでしたので、しないという意思を表示しても、今であれば損害は出ません。ですから、事務所としてもそこまでうるさく何かを言ってくることは無いと思います。大体、これまで何もして来なかったくせに、メンバー自身が頑張って来た事には全く触れず、舞い込んだ幸運をまるで自分のもののように掴み取ろうとしているところが私は気に入りません。そのことだけは、どうにも受け入れ難かったんです。ですから、メンバーの意思でツアーをしないと決定したのであれば、私はそれを押し通します。お任せ下さい。こういう時のために、昇進したので」
そう言って、ドンと音を立てながら自分の胸を拳で叩いた。しかし、どうやら力加減を間違えてしまったらしく、突然猛烈に咳き込んでしまった。
「ちょっと大丈夫ですかー? そのまま格好良く締まり切らないところが仁木さんだよねえ。そういうところが好きなんだけど。条野みたいになっちゃ嫌だからねー」
純はそう言いながら、仁木さんの背中を摩った。咽せた老人を労る孫のように見える二人の姿に、その場は穏やかな笑いに包まれていった。
「すみません、純さん。ありがとうございます。加減くらい出来ないとダメですよね、お恥ずかしい」
純が仁木さんにティッシュを手渡すと、彼はそれを使って目元を拭った。そして、それをゴミ箱へと捨てるため、純へ「失礼」と声をかけると、そっとその場から離れた。
「孝哉、不安な時は常にハヤトにくっついてていいからな。でも仕事中にチューはすんなよ、チューは。するなら隠れてやってくれ」
深刻な話をしていたはずなのに突然セクハラ発言で絡み始めた耀に、孝哉は目を丸くした。耳まで真っ赤になるほどに恥ずかしがると、大慌てで思い切り手を振り回す。
「な、何ですか、急に! しません! しませんよ、そんなの。するわけないでしょう? 人前でなんて……恥ずかしくて死んじゃうよ」
耀は孝哉のその反応を見て、口の端を持ち上げていた。そうやって、孝哉が暗く沈み込まずに済むようにとコントロールしていく。
過去の傷に引き摺り込まれて、そこから抜け出せずにいると、その先にいいことが待っていないということは、ある程度の経験を詰んだ者にとっては明白な事実だろう。
ただし、自力で抜け出すのが難しいほどの深さの傷であっても、他人が外から刺激を与えてくれるのであれば、それは案外苦も無くやり遂げられてしまうということは多い。
耀はそういうことを良く理解している。だからチルカは耀をリーダーに選んだのだ。
「嘘つけ、お前。初めましての時に、いきなりやったじゃねえか。ちゃんと見てたんだからな」
「えっ、嘘だ。俺そんなことはしませんよ!」
「いーや、してました。だから俺も純にしてやったもんね」
「はあ? なんだよそれ、どういうこと?」
「ちょっと待ってよ。それって、俺だけ寂しいやつじゃねーか!」
そんな無駄話を挟みつつも、自然と近づき合い、いつの間にか話題はアルバムに入れる曲の構想へと発展していく。
誰が声をかけるわけでもなく、すうっと自然に集まる快適さが、今のメンバー間にはある。そして、常にいい音楽を残そうという気持ちが同じレベルでつながり合っていて、その居心地の良さに、五人の表情はいつも自然と綻んでいた。
少し離れていた仁木さんは、そんな俺たちの姿を見て嬉しそうに笑っていた。そして、満足そうに何度か小さく頷くと、まるで小動物のように軽い足音を立ててこちらへ戻ってきた。
「みなさん、必ず私が守ります。以前のようにあなたたちを守りきれずに壊してしまうようなことがあっては、私ももう立ち直れないかもしれませんから。今回は絶対に、絶対にチルカとあなた方自身を守ります。どうかもう一度だけ、私を信じていただけますか?」
和やかな空気の中に、仁木さんの強い決意が張り付く。彼は敢えて穏やかに笑ってはいたが、それが表面的な振る舞いであることは、うっすらと漏れ出る悲壮感によって明らかだった。彼は、明らかに何か対象のはっきりしたものに対して、戦う意思を明確に表明している。しかし、その相手が誰なのかを口にしようとはしない。しかし、それがかえってその答えを言い表しているようでもあった。
「仁木さん?」
色田が声をかけても、彼は何も応えなかった。ただ目を伏せて、自らの胸の内を見つめている。
耀はそんな仁木さんを見て、小さくため息をついた。そして、
「一人で背負っちゃダメですよ」
と言いながら、彼へ近づいていく。
「五年前も今も、俺たちは仁木さんを信じてます。ただ、五年前の俺たちは、あなたに俺たちを信じてくれとは言えなかった。つつけば瓦解するのが目に見えているような、すごく脆い絆しか無かったからです。でも、今は言えますよ。仁木さんも、俺たちを信じて下さい。隠し事はするなとは言いません。業務上言えないこともあるでしょうから。でも、最低限にして下さい。せめてリーダーである俺とは、情報の共有はして下さい。俺にちゃんとリーダーの務めを果たさせて下さいよ。ね?」
仁木さんは耀の言葉に表情を強張らせた。俺たちは彼のその表情を見ただけで、彼が俺たちに何を告げなくてはならないのかを理解してしまった。
「チルカを壊すのは、あいつの趣味か何かなんですか?」
俺がそう問いかけると、仁木さんは勢いよく顔を上げて俺を見た。その目は、何も悪いことなどしていないはずの彼に、幾つもの重荷を背負わせた男の影がちらついていた。
「やっぱりそうなんですね。俺をクビにしたと思ったら都合よく戻して、その時に孝哉と一緒にって言ったのもあいつでしょう? 親父さんの機嫌を取るために。それが、今度は孝哉を苦しめたいんですか? 一体何が目的なんですか、あいつは」
俺はあまり負の感情を表に出すタイプでは無い。それでもやっぱり、この仕打ちだけはどうにも怒りを収めずにはいられなかった。都合よく人を利用するだけで、なんの手助けもせず、利用価値が無くなれば簡単に捨てようとする男。どうにもあいつだけは許し難いものがある。
俺は、用意していた手札の一部を、メンバーと仁木さんへ公開することにした。まだ追い詰めるための材料としては不足しているかもしれない。それでも、孝哉が最も言われたくないことをネタとして使ったことは、決して看過できない。少しずつでも、反撃を進める準備に入ることにした。
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