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胃薬

  合宿の日、四年生で参加できる生徒は夕方から来ると連絡があった。 夕方からというと一日目の作業はほとんど終わり、あとは夕食と寝るだけだ。 翌日は一旦帰宅した中高生や女子生徒組も再び参加して昼過ぎまで活動となるけれど、四年生は朝食を食べたら解散するとも言っていたので、加瀬が言っていた通り本当に寝に来るようなものだ。 今年の折り紙同好会の展示物は日本の昔話を折り紙で立体的に再現するといった物で、人や動物、建物を折り、それらをすべて折り紙の山の上に一緒くたに並べて作る大きな作品になる予定だ。 服を着たような人を折るのは少々難しいが、都築や加瀬のような中等部から参加している生徒は、偉いもので見本を見ただけで8割方折り方を理解出来るようになっていた。 何の苦も無くさらさらと折っていると、都築自身いったい何のスキルが身についてしまったんだとふと冷静に考えることがある。 しかしそうやって都築のように折り紙に慣れた生徒や、毎年安定して保っているメンバー数のおかげで四年生が作品に参加しないことぐらい大した問題ではない。 彼らが合宿に寝るだけに来たとしても、文化祭当日までほぼ来なくても、作品は滞りなく完成するだろう。 夏季休暇とはいえ、設定された時刻に終業のベルはなる。 最終授業を知らせるそれが鳴る少し前に、部屋のドアが開けられた。 同好会の教室は、創設した学年の生徒が大学に上がった時から中等部二階の教室から文化部クラブハウス内の空き部屋に移動させられ、木造の古いガラガラと大げさな音を立てる引き戸ではなくなり、スチール製のスムーズに開く引き戸になった。 「おつかれ。」 一番に入ってきたのは柾だ。 顔が見えた途端、女子生徒の表情が緩む。 新入生勧誘の時、加瀬は7、8人連れてきたが、三年前それより多い10人近く連れてきたのはこの男だった。 優しく穏やかな性格は、柾の話し方にもう表れていて、低く響く心地の良い声は、聞きやすい丁度良い速さで相手に届く。 人の話を遮ったりはしないし、どんなにつまらない話も興味深そうに聞き、相槌を打ってくれる。 自分がとても楽しい人間になったのではないかと錯覚するのだ。 それに加えてこの整った容姿。 よく見るとそんなに流行りの服を着ているわけでもないのに、なぜかさらりとお洒落に見えるスタイルの良さ。 都築も背は高く、薄い顔立ちながらパーツは整っていて、流行りもそれなりに追う格好をしているけれど、柾ほど居るだけで注目を集めるような容姿ではない。 柾は大学に上がってから、それはそれはモテてていて、都築は何度同じ学部の女子生徒からどんな人物か教えて欲しいだの紹介してほしいだなと言われたか知れない。 そのたびに惜しげもなく知っている情報は提供し、紹介もした。 何でも二人が別れるきっかけになればよいと思っていたのだ。 結局都築の全く知らないところで別れ話が終わっていたけれど。 無駄にさわやかで今日もうざいな。 柾が入って来た時の都築の感想はこれで以上だ。 「おつかれさまですー。」 と方々で起こった高くかわいらしい声に紛れて、おつかれさまですと小さく言った。 それよりもそのあとに続けて入って来たメンバーに目を向ける。数人の四年生の中に、悠斗の姿をすかさず見つけた。 ネイビーのTシャツにグレーのシアサッカーのパンツ姿。 肩に下げられているトートバッグは見た目にぺちゃんこで、仮にも一泊するのに一体あの中に何を用意してきたのかと思う。 何にも入ってないんじゃないのか、あれ。 悠斗は繊細そうな見た目に反してこういうところが無頓着でおおざっぱだ。 寝れたら良いかくらいにしか思っていない。 そして例によってネイビーのTシャツはまた、華奢な悠斗の体のラインを見事に拾っている。自分の体形を気にするくせに、いつまでたってもそれを強調するような服を着る。   きゃあきゃあという声を縫って四年生が空いている席に着いた。 両手いっぱいに持ってきた差し入れは半分以上は女子生徒に渡され、もうすぐ帰るだろうから持って帰ってと伝えられた。 追うようにしてもう一度ベルが鳴り、中高生と女子生徒は帰宅の時間だ。 一通り片づけをした女子生徒たちが名残惜しそうに部屋を出ていくのを、都築たちは見送った。 彼女たちや中高生組を駅まで連れて行くのは一年生の仕事だ。 「本当にお前はモテるな。」 静けさのやってきた部屋で、一人が柾に言った。 「なんでそんな話になるんだよ。」 「出際に明日は何時までいるのかって聞かれてたじゃん。」 「ああ。いや、それは聞かれただけだろ。こんな時間にきて明日何にもするつもりないのかって気になっただけじゃないか?」 「本気で言ってんのか。お前は本当にそういうとこ疎いな。だからいつもすぐ彼女と別れるんだろ?」 その問いかけに、柾は笑顔でいやいやと苦笑しながら首を横に振っただけだった。 柾や悠斗が、彼女がいないのかと聞かれたところを都築は何度も見たことがある。 その時ふたりは、居る。と言っていた。 塾で仲良くなった子。 部活の試合の時に知り合った子 バイト先の同僚 そう答えては、数か月後には素知らぬ顔で別れたという。 どの子も写真なんか一枚もないのに、誰も不審に思わず信じていたところは、彼らの生まれ育ち故の人の良さに感謝するべきだろう。 都築だけが、二人の浅はかなウソに気付いていた。 宿泊組のメンバーは、寮のランチルームで夕食を食べた。 メニューはカツカレーにポテトサラダ、コンソメスープで、どれも大盛りに盛られていた。 中等部から顔馴染みの学食の女性スタッフが張り切って用意してくれたのだ。 正直食べ盛りも終わりを迎えそうな者が数名いる中で感触はきつかったけれど全員で残さないように平らげた。 これは四年生の持ってきた差し入れのお菓子も入らなさそうだと誰もが思っていた時、女性のスタッフが思い出したように声を上げた。 「忘れてた。女の子たちから渡すように言われていたものがあるのよ。」 言いながら、業務用の大きな冷蔵庫の扉を開き、中から大きな白い箱を三つ取り出す。 「なんですか、これ?」 一人が尋ねると、女性スタッフはふふふと意味ありげに笑った。 「さあ、開けてみて?」 促されて箱に手をかける。キッチンカウンターに置かれたそれは、少しバランスを崩せば床へ落っこちてしまいそうなほどのサイズだ。 慎重に取っ掛かりを外し、箱を開けた。 途端に甘い匂いがゆらゆらと充満する。 中で几帳面に並び置かれたそれは、作り手を再現したような小さなサイズのふわふわのシュークリームだった。 薄皮生地の上には、かわいらしくピンクや緑のチョコレートがコーティングされている。 「女の子たちがね、みんなに食べて欲しいって、作って来たんだって。大きいのは食べづらいだろうからって一口サイズにしたらしいの。かわいいわよねえ。」 うっとりと頬に手を当てて愛おしそうにシュークリームを見つめる女性スタッフは母性の塊だ。 娘のような年齢の女子生徒が男子喜んでもらおうと作った健気さに心打たれているようだ。 その気持ちを真正面から受け取り、嬉しそうに声を上げた男子の方が多かった。キラキラよ分かりやすく目を輝かせてこちらも感動に浸っている。 しかし胃袋を十分すぎる程充たした後では、いくら小さく作ったと言えどこんなにも量があるとその気の使い方はもはや間違いでしか無い。 けれど残してしまっては、明日彼女たちに何を言われるかも想像がつく。 どうぞ持って帰ってと女性スタッフにも土産にもたせ、残りを分け合った。 20人ほどのメンバーで、一人5個ずつほどになり、甘いものは別腹だと言っても、夕食にボリュームがあった所為でなかなかきつい。 けれど誰も何も言わず、スタッフに帰り際淹れてもらった珈琲といっしょに雑談しながら食べることになった。 四年生が差し入れに持ってきたビニール袋一杯に入ったお菓子たちは、同好会のストック菓子確定だ。 ああ、おれに無限で無敵な胃袋があればいいのに。 都築はかわいらしく紙皿に置かれたそれを見て思う。 ふう、と息をつきまずは珈琲をひとくち口に含むと、前に座っている悠斗の姿が目に入った。 どこも何も見ていないようなほぼ虚無の目でシュークリームに視線を落としている。 声に出して笑いそうになったのを寸前で堪えた。 そういえば先ほどもかなり量を減らしたカツカレーを頑張って口に運んでいたのを思い出す。 都築もかなりお腹がいっぱいだったが、おそらく悠斗はその比ではないだろう。 自分はまだ頑張れば入りそうだ。 そう思い、悠斗のシュークリームに手を伸ばした。 けれどその目的は達成されず、目の前に出てきた大きな手にそれは持っていかれてしまった。 腕をたどり、その持ち主へと顔を上げる。 「もらうぞ。」 そう言って柾が悠斗の皿からシュークリームをさらってしまった。 突然からになった紙皿に、遅れて悠斗も柾を見上げた。 「食べれるのか、まだ?」 驚きの声で尋ねる悠斗に、柾はすでに口にシュークリームをひとつ含みながら首を縦に頷いた。 肩手のひらに収められたシュークリームは、紙皿に乗せられていた時よりも驚くほど小さく見える。 それをそのまま吸い込むように立て続けに口に入れ、あっという間に食べてしまった。 そして呆気に取られている悠斗の言葉は待たず、彼の珈琲まで飲み切って自分の席へ戻っていった。 都築は行き場所を失った腕をぴったりと机に落として、目の前の光景をただ見ていた。 そして、うざい、本当に。と心の中で精一杯の悪態をついた。 11時の消灯時間を30分ほど過ぎた頃、都築は寝ていたベッドを抜けだした。同室の生徒を起こさないようにして部屋を出る。 初めて合宿に参加した頃から、喘息の薬は準備するようにしていたので、今夜彼に咳の心配はない。 目的は別にある。 都築は階段に備え付けられた手すりの電気をつけて、足元に注意しながら降りていく。 予想通り、ランチルームの明かりがじわりと漏れているのを確認した。 足音は最小にしてゆっくりと近づく。 「悠斗さん。」 常夜灯のみのランチルームで、悠斗は一人座っていた。 明かりの色がオレンジの所為で、顔色は確認できないけれど恐らく青白くて気分は最悪だろう。 「都築・・・?どうした?」 「悠斗さん、大丈夫ですか?」 「大丈夫って?」 何でもないように繕って話す悠斗の前まで行き、椅子を引いて座った。 近くで見ると、やっぱり体調は良くなさそうだ。 「胃、気持ち悪いんでしょ。」 言われた悠斗は、図星なのか唇をきつく結んで都築から視線を逸らした。 「あんなに食べたら、悠斗さんなら絶対しんどくなると思ったんですよね。そう思ってたら、やっぱり。風呂のあたりから変だなとは思ってたけど、言ったら悠斗さん気にするから。」 人より食べられないことを、悠斗はコンプレックスに感じていた。いつもより多めに食べただけで胃もたれしてしまう体を人に知られることもまた嫌うだろうと察していたのだ。 「どうぞ。」 都築はスウェットのズボンから個包装の包みを取り出して悠斗に手渡した。 「何、」 「胃薬です。市販のやつだし、飲んだことあると思うんですけど。」 加瀬が、合宿の日はカツカレーだって、と都築に言った時からもしかしたらと準備していたのだ。 自分の予想が当たったことが嬉しい。 ふ、と思わず笑ってしまった。 「なんで嬉しそうなんだよ。」 胃薬を素直に受け取り、怪訝そうな声で悠斗が言う。 「え、だって、悠斗さんが弱るなんてレアだから。滅多に体調悪くなったりしないじゃん。」 その出で立ちからは想像できないほど悠斗の体は頑健で、周りが流行り病でバタバタと倒れていっても、いつも悠斗だけはケロリとしていた。 咳や鼻水すら移らない。おかしい人間じゃないんだといつも友人たちに言われていた。 けれど胃もたれは別だ。どうしても彼のキャパを超える食事をとると、胃が悲鳴を上げる。 「悠斗さんの面倒が見られるなんて、こんなことないなと思って。」 立ち上がり、水を入れて悠斗へ手渡した。 納得のいかないような顔で胃薬を流し込む悠斗が愛しい。 好きだなと、心からそう思う。 「白湯でも作りますか。」 「いや、いいよ、こうしてたらその内治るし。」 言いながら悠斗が机に顔を沈めようとしたので都築はそれを制止した。 「こっちで横になった方が良いですよ。ほら、右側下にして。」 ランチルームの壁際には長椅子が一脚置かれている。 完全に足を延ばすことはできなさそうだが、しばらく休む分には事足りるだろう。 都築は手招きして長椅子を勧めた。 「大げさだよ。」 「大げさでも。ね、悠斗さん。」 小さな子供をなだめる様にして悠斗を呼んだ。 優しげなその物言いと送られる視線に、観念して悠斗が立ち上がる。 のらりくらりとゆっくり歩き、ポスンと長椅子に腰かけた。 「早く落ち着くと良いですね。」 「・・・・ん。」 懐きかけの猫みたいだ。 うまくいかないことの方が多いのに、垣間見える少しの愛らしさだけで充分だと思えてしまう。 もらえる物なんて何もなくても、こちらが与えることが幸せなのだ。 悠斗が返事をして横になろうとした時、ふと微かに音がして出入り口に人の気配を感じた。 二人が驚いて同時に音の方へ振り返る。 立っていたのは、またしても柾だった。 都築の充たされていた気持ちが一気に冷めていくのが分かる。 何の用ですかと言いそうになったのを喉の奥にしまい込んだ。 「胃もたれか。」 横になるところまで叶わなかった悠斗に、柾が声をかけた。 そうだよと、小さく返す。 返事を受けると、柾は何も言わずキッチンの方へ歩いていき、冷蔵庫の扉を開けた。 そこから何か取り出すと、また何も言わずに戻ってくる。 そして手に持ったものを悠斗の膝元へ差し出した。 「飲め。」 置かれたのは無糖の炭酸水だった。 「・・・炭酸水?」 都築は訝しむような声が思わず遠慮なく漏れてしまった。 胃が痛いと言っている人物に、そんな刺激するような飲み物を勧めるなんてどうかしている。 何考えてるんだ、こいつ。 怪訝そうな顔で見つめていると、悠斗が細い指をそろそろと動かして、その炭酸水を受け取った。 「ありが・・・と。」 そういうとふたを開けて一口、二口と素直に飲んだ。 その様子を、柾は黙って見つめている。 「え・・・。悠斗さん、胃が痛いんですよね?」 もう疑問でしかない一連の行動に都築はたまらず尋ねる。 「悠斗は胃もたれの時炭酸水飲むとましになるんだよ、昔から。要らないかと思ったけど念のため買っといてよかった。でも、加減して飲めよ。」 分かってるよと返して、悠斗がまた炭酸水を流し込む。 心なしか、すっきりとした表情に見える。 「都築も、胃薬ありがとな。すぐ直る予感しかしないわ。」 そうして笑って声をかけてくれたのに、慰めにしか聞こえず都築は返事もせずに押し黙ってしまった。 悠斗に優しくしたいといつも思っていた。 けれど、そんなことしたって悠斗が喜ばないことは早々に分かっていた。 それは自分の役目じゃないと承知していた。 だから、七年間してあげたいことが目の前にあっても、気づいてないふりをしてずっと柾に譲って来たのだ。 悠斗のことなら大抵のことは知っていて、いつも自分は二人のために我慢していると思っていたけれど、実際はそうじゃない。 そんなわけなかった。 柾は当然のように知っていて、都築の知らないことなんてたくさんあるのだ。 都築の知らない二人だけの時間が、鋭さをもって都築の心を切り裂いていった。

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