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第3話 執拗な男

「ひっ……!」  男は後ろから肺と肝臓に受けた重い痛みによって、息が吸い込めなくなっていた。体が危険信号を灯したのか、その場に膝を折って座り込む。  必死になって息を整えようとしている姿を見ていると、二人の力の差は歴然としていて、倒れた男がやや哀れに見えるほどだった。  戦うべき時には、綾人も完全に勝つことしか頭に無い状態になっている。そこには、手加減や思いやりといった言葉は存在しない。  綾人が金剛夜叉明王に謂れがあるのであれば、それも当然だと言えるだろう。獅子を戴く戦いの神に、慈悲など存在するわけがない。 「どうも、お久しぶりです。ねえ、あんたさあ、タイミング悪いのよ。申し訳ないんだけど、ちょっと寝ててね」  そう言って襟首を掴み、男の上体を引っ張ると、壁際に追い詰めて思い切り男の腹を打った。 「ぐっ……!」  男は、そのまま声にならない音を出し、意識を失って頽れていった。 「こないだも俺にやられただろうが……。何考えてんだよ、おっさん」  綾人は、冷たい視線をその男に向けて警戒を続けたまま、隠れている陽太に声をかけた。 「陽太ー。出てきていいよ」 「う、うん」  ベッドの陰に隠れていた陽太は、その声を聞いてそっと立ち上がり、ドア付近にいる綾人の方へと近づこうとした。 「あや……わっ!」  陽太は、綾人の目を見て一瞬体を強張らせた。振り返った綾人の表情は、あまりにもいつもの綾人とのそれと違っていた。瞳孔が狭まり、瞳の色が金色になっていた。  しかも、元々大きな目が大きく見開かれていて、いかにも交感神経が昂っている状態だとわかるような状態になっていた。 「何……? どうかした?」 「え? あの……。顔が、さ」 「顔? 顔がどうかした?」 「その……怖い、んだよね」  それは、闘争心をむき出しにした綾人の姿を、初めて間近で見たからだった。さっきまで朗らかに笑っていた人と、本当に同じ人物なのだろうかと疑いたくなるほどに様相が違う。  特に、いつも温かく在る目が、今は冷たくギラギラとした嫌な光を宿していた。 「えっ? 嘘、本当に?」  それなのに、言葉はいつもの綾人のままで、怖いと言われてからの恥ずかしそうな反応もいつもの通りだった。  ただ、見た目は明らかに違っていて、肌がうっすらと黒っぽくなっているようにも思える。陽太は、まじまじと綾人の姿を観察し、恐怖によって震えながらも、その姿の気になるところを細かく確認していった。  綾人は、陽太のその様子が、普段の研究の時の様子のように感じておかしくなり、突然朗らかな笑みを浮かべ始めた。恐ろしい顔をしていたかと思えば突然優しく笑った綾人に、陽太は困惑の表情を浮かべた。 「え、どうしたの? 俺なんかおかしなことした?」 「いやいや、だってさー。今、俺のこと研究対象として観察して、挙句に考察しようとしてただろ? 怖がってたんじゃないのかよ。そんな時でも知的好奇心が優先なのがおかしくて……理系の人ってそういう人多いよな」  そう言ってあははと快活な笑い声を上げた。  その姿は、いかにもいつもの綾人という感じで、陽太はそれを見て安心し、ほっと胸を撫で下ろした。  気を取り直したように振り返ると、床に倒れている男を指差し、綾人に尋ねた。 「ねえ、この人って……」 「うん」  その男が綾人に襲いかかるのは、二度目だった。今回は完全なカウンターで、綺麗に綾人の攻撃が入った。そうなれば、武道の心得の無いこの男が、綾人に勝つのは不可能だ。完全に気を失っている。  腕を縛り上げられた哀れな男の顔は、綾人が愛する二人の男に嫌になるほど似ていた。短いけれど、艶のある青みがかった黒髪も同じだ。この瞼が開いていれば、そこにはきっと、深淵の瞳があるだろう。 「この男の名前は、穂村雅貴。タカトのお父さんだよ」  綾人は、その名を呼ぶのも辛いとばかりに眉根を寄せ、声を絞り出すようにして答えた。 「タカト……穂村くんのお父さん? 穂村くんのお父さんなのに……明らかに綾人を狙って入って来たよね? なんかわかんないけどものすごい殺意を感じたんだけど」  突然の襲撃を仕掛けてきた人物は、息子の恋人の命を狙っていた。それがどういうことなのか、陽太には全くわからないはずだ。混乱しても仕方がないだろう。  ただし、『生き霊がついたことがある者は、多少のことには怯まない』と言い切っただけあって、少々のことではもう怯まないようだ。全てが突然の出来事であったにも関わらず、冷静にしっかりと状況把握をしようとしている。 「そうだな。俺もドアの前に立っただけで、殺意持たれてるってわかったよ。俺がタカトと付き合ってるのが、どうしても気に食わないんじゃない? だってさ、ちゃんと話をしたことなんて、一度も無いんだぜ? それなのに殺意を抱くってすごくないか? しかも最初からずっとだぞ」 「え? 一度も話したことが無いのに、殺されそうになってるの? ……なんで?」 「俺にもそれがわかんねーのよ。ただ、一つ思うのは、タカトたちって貴人様の子孫なんだって。そうなると、俺の存在自体がよく思われてない可能性がある。幸野谷の直系が滅んだのは、俺の前世……つまりヤトのせいだと思われているらしいから」  綾人は陽太に、ヤトとしての記憶に残っているもの、タカトや貴人様、瀬川から聞いてわかっていることを伝えることにした。 「貴人様が人間だった頃の幸野谷貴人という人は、同性愛者だったため生涯独身で自分の血が繋がった子供を遺してない。正確には、一度俺の前世である高住ヤトと結婚しようとしたけれど、ヤトが殺されてしまって、それ以降は結婚しようとしなかったらしい。そもそも、自分の子孫は残さないと決めてからは、かなりの人数の養子をとって、その子達をとても慈しんで育て上げてたらしい。全員が巣立つまできちんと面倒を見ているらしいから、すごいよな」  貴人様が天界で力を持つ神になることが出来たのは、その人間時代に救った人数の多さが考慮されているからだと、ウルが言っていた。そして、その貴人様が育てたたくさんの子供達の中で、異例中の異例だったのが百合子だった。 「百合子は幸野谷家の長子として後継者になることが決められていて、とても大切に育てられたみたいだ。当時女性の、しかも血縁でも無い者を後継に据えた貴人様の方針は、かなり珍らしいものだったみたい。だから、親戚の中にはその柔軟すぎる思想を理解出来なくて、悪く言う者もいたらしい。それでも、貴人様は百合子を後継にすることを貫き通した。その百合子にしてみれば、ヤトは邪魔だったのかも知れない。妻がいたら、遺産が減るだろうからな。だからヤトを殺してしまった。そして、そのことが引き金となって、幸野谷家は廃れていったんだよ。そうなると、幸野谷家の子孫である人に俺が嫌われてたとしても不思議は無いんだ……」  綾人は、雅貴の手を縛り上げ、その体をゴロンと床に転がした。出会いから最悪だとはいえ、タカトの父であることに変わりは無い。だから決して軽く扱っているわけではないが、この男は少しでも隙を見せると、またすぐに命を狙ってくるだろう。 「いや、だからって、それだけの理由で、この人が綾人を殺そうとする理由になる?」  陽太は思わず大きな声を上げてしまい、慌てて口元を押さえた。 「ろくに話しをしたこともない相手を、最初から全力で倒そうとして向かって来る……。それも、明確な殺意を抱いて。意味がわからないよ」  背筋が冷えたのか、ぶるりと身を震わせた。 ——息子の恋人が気に食わないってだけで狙うにしては、気持ちが強すぎるからなあ。  いくら考えても、人を殺そうとしている人間の心理など、綾人には理解出来そうに無い。しかも、その相手は恋人の家族だ。この事実を突きつけられるたびに、辛いものがあった。 「なんでそこまでして俺を狙うのか、とでも思っているのか?」  突然、眺めていた綺麗な横顔から、そう問いかけられた。その声は、間違いなく雅貴の口から出たものだった。ただ、明らかに声が違っている。  人の声は、身長と首の長さで大体の高さが決まる。今聞こえてきた声は、雅貴の背格好とは釣り合わない、背が低めの女性に多く聞かれるような、丸くて高い声だった。  目の前の人物の声が、いつもと違ったものになるという状況に慣れている綾人は、すぐに雅貴が誰かに乗り移られているのだと言うことを理解した。瞬時に陽太を守らなければと判断し、視線を移した。  すると、陽太は血の気を失ったかのような顔色で、何かに怯えているように見えた。小さく震え始めたかと思うと、自分の体を抱きしめるようにして身を竦めた。 「どうした? 大丈夫か、陽太」  雅貴の顔を覗き込んだままブルブル震えている陽太が、綾人に視線を合わせた。目の前にいる綾人をしばらく見つめて何かを思い出そうとしている。 「綾人、この人……タカトのお父さんじゃなくて……」  陽太が何かを口にしようとした瞬間、ズンッと音がして部屋が軋んだ。その後も小さくミシミシと音が続く。 「なんだ……地震か?」  二人で顔を見合わせていると、今度は体がギシギシと音を立て始めた。骨が軋みそうなほどの重み、横からの圧力が体を襲う。 「ぐあ! なんだこれ! ……っ!」  その痛みは、まるで目に見えない壁に体を挟まれていくようなものだった。皮膚や体の中心に痛みが走る。目で確かめる限り、部屋の中には何も起きていないようだった。  ただひたすらに、自分たちの体が中から潰れるような感覚に襲われているようだ。周囲で何も起きていないにも関わらず、人間だけが圧迫感に苦しめられている。 「なんだ? 俺たちだけに起きてるっとことか?」 「わあああああ! 痛い! ほ、骨がっ……」  経験したことの無い状況は、必要以上に恐怖心を煽っていく。そうやって焦れば焦るほどに、痛みは増すように感じた。 「陽太、大丈夫か!? よ……」  痛みと圧迫感に姿勢が保てず、綾人は膝から崩れ落ちた。それでも圧力は消えず、今にも止まりそうな呼吸を必死にコントロールする。息が入らないというよりは、口を開けると大量の空気が押し寄せて来て、肺を破りそうな感じがしていた。 ——まずい、このままじゃ意識が飛んだ瞬間に体はバラバラだ。陽太だけでも助けないと……  床に這いつくばりながら陽太を助ける方法はないかと考えを巡らせていると、頭上に影が出来た。綾人はどうにか首を捻り、僅かに顎を上げた。  まるで油の切れたブリキの人形のように、体のあちこちからギリギリと音がする。それでも、どうにか相手の顔が見えるようにと必死になって目を向けた。  そこに立っていたのは、やはり雅貴だった。ただ、立ち姿がまるで違う。歌舞伎の女形のように、妖艶でしなやかな立ち姿をしていた。 「積年の恨み、晴らしてくれようぞ。って、言ってみたかったのよねえ」  雅貴はそう言ってぐにゃりと口の端を歪めた。 ——なんだあれ。笑ってんのか? 不気味すぎんだろ。  綾人は、これほど不快な笑い顔というものを見たことが無かった。それを見ているだけで足元から体が冷え、体がカタカタと震え出すのを感じていた。  今、綾人と陽太の目の前には、なんの躊躇いもなく数百の命を奪うような、冷徹な悪霊が迫っていた。

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