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第4話 仲間として

「お前っ……ゆ、百合子……か?」  綾人が百合子の名を口にした途端、遠くの方で何かが折れる音がした。その音に付随して、肉が潰れる音、血が吹き出す音、そして、陽太の短い悲鳴が一瞬聞こえた。  それは、どう聞いても腕か足を折られた音だった。ただ、押さえつけられたように潰れていく肺では、声を出して痛みを逃すことさえ出来ない。  悲鳴を上げる事も出来ない状態では、体は防衛反応を働かせて意識を遮断してしまう。陽太は直ぐに気絶した。 「陽太! てめ……何……」 「お黙りなさいよ、陰間。お前が口を開けば、今度はあの子の全てを潰すわよ」  口を噤むしか無くなった綾人は、痛みと屈辱に歯を食いしばって耐えた。その時、頭の中にぼんやりとヤトの記憶が蘇ってきた。  ヤトは、この話し方をする女性に向かって『百合子さん』と呼んでいる。 ——やっぱり。あいつに幸野谷百合子が取り憑いているんだな。  間違いない。この体の震えは、ヤトの魂が怯えているからだ。自分は少しも怯えていない。むしろ憤りしか感じていないのに、武者震いでもなく、体が震えている。  それは、遠い日のヤトとしての記憶が起こしている、不思議な現象だった。  一日しかいられなかった幸野谷の邸宅で、何度陰間と呼ばれただろう。蔑むような目で見下ろされ、名を呼ばれることは遂になかった。あの、鬼のような女。あの女がそこにいた。 「ああ、嬉しくて笑っちゃうわあ。やっと殺せるわね。どうしてくれようかしら。あー、あんたも蠆盆《たいぼん》にする? 大好きなイトと同じように、毒にのたうち回って死んでく?」  雅貴の姿のままであるはずなのに、綾人の目にはもう百合子にしか見えなくなっていた。  恨みに染まった目は、苦しんで死んでいく綾人を想像しているのだろうか。だんだん恍惚として、頬を染めていく。狂気に支配されたその仕草に、言い様の無い嫌悪感を覚えた。 「まあ、一度で殺したりはしないわよ。楽しませなさいよ、数百年分。まずは少しの毒蛇から、ね?」  そういうと右手をスッと上へ振り上げた。すると、どこからともなく、毒蛇がバラバラと大量に降ってきた。 「うっ……」  その大群は、綾人に向かってズルズルと不気味に這い寄って来た。もったいつけるような動きは、じわりじわりと恐怖心を煽っていく。綾人は、変わらず這いつくばったままで、全く動けずにいた。  迫り来る毒蛇を前にして、どうしたものかと考えあぐねていると、窓の外で祭りの開始を知らせる花火が上がった。その時、前夜のことを思い出した。 ——陽太の中にいた百合子を追い出した攻撃は……。  綾人は、迫り来る毒蛇の方へ向き直ると、その全てが燃え尽きて消滅する様を思い描いた。そのイメージが明確に浮かんだ瞬間、部屋中にバリバリバリバリッと音を立てて、稲光と閃光が走った。  そして、それに付き従うようにしてぼうっと上がった黄金色の炎は、あっという間に全ての蛇を飲み込んでいった。まるで金色の鬣を振り乱し、炎の獅子が蛇を餌として食らうような光景が広がっていた。 「ギィヤァアアアアア!!!」  断末魔の叫びが響きわたる。蛇には声がない。それがあれほどの叫びを上げるということは、あの蛇には声を発する生き物が憑いていたのかもしれない。それを使い捨ての様に扱う百合子に、胃の底から嫌悪感が噴き出すように感じた。  一匹の蛇の血が、少量雅貴の顔に飛んだ。それを舌でべろりと舐めとると、ニヤリと気味の悪い笑いを貼り付けた。 「何? 意外と強いのね、陰間。動けなくても雷飛ばしてくるの。そう……」  そういうと、また何か攻撃を仕掛けようとしているのか、右腕を振り上げようとした。しかし、その途中で何かに気がついたのか、ピクリと眉を動かした。そしてそのまま押し黙ってしまった。  綾人は、百合子の意識が逸れていることは理解していても、殺意が消えているわけでは無いことがわかっているため、警戒心を怠らずにいなければと、必死に意識を保とうとした。  百合子はしばらく視線を動かし、何かに警戒していた。そして、「チッ」と舌打ちをすると突然逃亡を決め込んだようで、そのまま消えていった。  それと同時に、それまでの支配が突然消えた。綾人と陽太の体にかかっていた圧力が消え、自由に動かせる様になった。  そして、百合子が抜けた雅貴の体は、その場にドサリと崩れ落ちた。  部屋の中には、生き物が燃やされた後に残る嫌な匂いと、その残骸だけが残されていた。それ以外はなんの音もせず、奇妙な静けさだけがあった。 ——静か……過ぎんだろ。なんでだ?  無音の状態に不気味さが加わったことで、静寂を鋭く痛いほどに感じた。何か言葉を発していないと不安になってしまいそうになる程、腹の底がザワザワしている気がした。 「陽太、なんか異様に静か過ぎると思わねえ?」  そう言って振り返った綾人は、部屋を見渡して言葉を失ってしまった。 「陽太?」  気がつくと、陽太が部屋からいなくなっていた。忽然と消えた、その言葉がまさにピッタリだと思うほどに、跡形も無かった。焦った綾人は、陽太がどこかに隠れていないかを確認しようと、痛む体を無理やり立ち上がらせ、部屋中を探し回った。 「陽太ー! 陽太! 隠れてるのか!? 出てこいよ! もう百合子はいないぞ!!」  凛華と桃花の寝ているあたりに隠れているかもしれないと思い、そこへも近づいて行ったが、やっぱり陽太の姿は無かった。それに、こんなに短時間で陽太が移動できるとも思えない。攫われたことに間違いは無さそうだ。  やや諦め気味に陽太が立っていた場所に戻った綾人は、ふとそこに残されていた金色の羽根を数本見つけた。それは、あの大天狗の翼から抜け落ちた羽根だ。 「ウルが来たのか。じゃあ大丈夫だな」  そう独言て、胸を撫で下ろした。  ふうと安堵の息を吐くと、ベッドに腰かけた。この後どうするのがベストなのだろうかと逡巡していると、気が抜けたのか、だんだんと眠気を感じるようになってしまった。 ——ダメだ、まだ眠っちゃいけない……。  そう思いながらも疲労に勝てず、ふっと意識が途切れた。そのままベッドの隅に倒れ込み、眠りに落ちていく。 『少し寝てろ』  夢の中で、ひどく美しい声をした男が、綾人に眠るように言っていた。そして、優しく背中を撫でてくれている。その手の温もりは、ヤトの記憶を刺激した。綾人の意思とは関係ないところで、昂った感情が、涙となって流れていった。 ◆◇◆  それからしばらく綾人は眠り続けた。その間ずっと夢を見ていた。その夢の中では、一日中眠っていたように思えるほどにリラックスする事が出来た。  だから、目が覚めた時にまだ陽が高い事に驚いたくらいだった。時間にして三十分ほどにしかなっていない。 「ん……、良かったー。まだ昼だ……え、まだ朝!?」  起き抜けにスマホで時間を確認すると、昼どころかまだ九時過ぎだった。短い時間ながらもしっかり眠れたようで、頭はすっきりとしているし、疲労も随分と回復した。  ふと気がつくと、すぐ目の前に人間の影があった。負のオーラのない気配だったため、タカトと水町が帰ってきたのかと思い、パッと顔を上げる。 「タカ……」  そして、そこに立っていた男を見て、驚いてしまった。 「よお、久しぶり」 「え……? なんで?」  そこにいたのは、タカトでは無かった。  赤い髪、スラリとした長身の、目を見張るほどの美形。百合子に負けず劣らず妖艶な瞳、所作。そして、その男は胸がざわつくほどの美しい声を持っている。  綾人が驚いて呆気に取られていると、男はうっとりするほど艶のある声で話し始めた。 「あの女に勝とうと思うなら、俺はいたほうがいいと思うんだ。積年の恨み、晴らしてやりてえんだけど。一緒にどう? ヤト」  そう言って、甘い匂いのタバコに火をつける。紫煙の先にあったその美しい顔は、とても穏やかに微笑んでいた。ヤトの記憶が、喜びに震える。 「イト……!」  それは、ヤトにとっては、その隣にいることが日常であった、誰よりも安心できる笑顔だった。二人で並んでたわいもない話をしたのは、柳家の二階の窓際だった。目の前のヤトは、そこで煙管を燻らせていた時と同じ笑顔をしている。 「……つっ!」  ただ、綾人はどうしてもあの顔を見ると、右脇腹の痛みが増幅されていく。去り際に少し改善されたとは言え、まだ少し恐ろしいと思ってしまう相手だ。 「なあ、なんでここに?」  そこにいたのは、貴人様に切り付けられて魂が消滅し、今地獄で罪の精算をしているはずのイト……佐々木恵斗だった。イトはまるでそんなことなどなかったかのように、これまでも今も当たり前に生きていたかのように、ゆったりとタバコを燻らせていた。 「今地獄にいるはずだろう? どうして? 逃げてきたのか?」  イトはフーッと煙を吐き出すと、やや俯き加減に首を捻り視線を落とした。そして、ゆったりと鏡の前まで歩いて行き、そこに置いてあったガラスの灰皿に、トントンと優しく灰を落とした。  その所作は、全てが滑らかで美しい。 「まあ、あれだ。最後のチャンスってやつだな。お前たちに協力して、幸野谷百合子を成仏させろって。そうしたら、俺こっちの世界で一度きちんと寿命を迎えるまでの人生を送らせてもらえるらしい。俺の人生は、何度転生しても百合子に唆されてダメになっていたから。今ヤトに協力すれば、恩赦を受けられる。だから、昔のことはとりあえず全部忘れて、お前に協力しようと思って」  そう言って、ニヤリと笑った。悪どい笑みだなとは思ったのだが、そこに隠れている純粋な思いに、綾人は気づいていた。 「ふうーん?」  軽口を叩きながらも、見え隠れするイトの愛情深さ。その向かう先を綾人は知っている。本当にこれからともに戦うのであれば、その人の良さを確かめておいたほうが信頼しやすいと思い、あえてきちんと言葉にして訊いてみる事にした。 「本当はシュウと一緒にいるため、だよね?」  イトは一瞬驚いた顔を見せたが、その後これまで一度も見たことがないほどの柔らかい笑顔を綾人に向けてきた。その表情の優しさが、シュウへの愛の深さを物語っていた。 「……そう。俺はシュウを幸せにしてあげたい。そのためになら、誰だって利用する。それがたとえ神であってもな」  敢えて悪者になろうとしているが、シュウとケイトの愛の深さを知っている綾人は、胸が暖かくも切ない気持ちで満たされていくのを感じた。  神の支配から抜け出すほどに恵斗を求めていた修司、恨んでいた相手に地獄に送られたにも関わらず、その相手に協力してでも修司のそばにいることを選んだ恵斗。その二人の思いの深さに感銘を受けた。 「わかった。じゃあ、俺の最後の善行に協力してくれよ。百合子を送って、俺たちの間の(しがらみ)もチャラにしようぜ」  綾人はそう言って、恵斗に手を差し出した。恵斗は綾人の手をしばらく見つめていた。そして、ポツリとこうこぼした。 「必ず幸せになろうね、ヤト」  絡まった人生の糸の中、初めて出会った頃の二人の約束の言葉だった。その頃も、その後いくら転生しても叶えられなかったその思いを、今ようやく二人で叶えようとしている。  綾人が力強く頷くと、ケイトは綾人の手を握った。強く、愛を込めて握った。二人はこれから、数百年耐えた苦しみを、自らの手で解消する道を進んでいく。 「望んだ運命を掴み取ろうぜ」  ケイトの言葉に、綾人も力強く頷いた。

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