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第5話 運命を決めた日

◆◇◆ 「百合子、今日から一緒に暮らすヤトだよ。生活に関することは、ヤトには私から説明するからね」  あの陰間に初めて会った時、お父様は私にそうおっしゃった。その日、その言葉を皮切りに、私の運命は全てが狂っていった。 *  桜の花が咲き乱れていた季節で、私は近く開かれる宴席の準備のために、各手配が順調に進んでいるかどうかの確認をしていた。  招待状返信の有無、料理、酒、水やお茶、果実水、果実類、座席、食器類、動線、遠方からのお客様のための宿泊場所……確認することがとても多く、数日まともに眠れていなかった。  その最中に、まるで何かのついでのようにサラッと紹介されたのが、あの陰間との出会いだった。    新しい養子を引き取った場合、いつも生活に関する説明を全て任せていただくのは、長子である私の役目だった。それなのに、今回はそれをしなくていいとおっしゃっている。  しかも、こんなに忙しい時に連れてくることを、前もって相談してもいただけなかった。 ——どうして? この方は養子じゃないのかしら。確かに引き取るにしては育ちすぎているようだけれど……。  私は高住ヤトという名で紹介された美麗な女性を、失礼を承知でじっと見つめてしまった。スッと姿勢よく立つその方は、流行歌の示す通りの様相で、まるで芍薬のようであり、牡丹のようであり、百合の花のようだった。  隣に立つお父様も目を見張るほどの美しいお方だということもあり、お二人が並ばれるとまるで舞台の一幕を見ているように、その場が華やいでいた。  これほど美しい女性が、今更養子としてやってくるわけはない。それに、養子にしてはお父様との間に流れる空気がおかしい。養子でも使用人でもない……何かおかしいと思った。  ただこの時は、寝不足による判断力の鈍りを、殊更に助長するような春からの誘いに、夢現の状態であった私には、そのことを深く考えることができなくなっていた。 「それは、生活に関することの全てに於いてということでございますか? 私からは何もお伝えしなくてもよろしいのでしょうか」  訝しんで尋ねる私に、お父様は頬を染めながら微笑みを浮かべて「ああ。そうだよ」とおっしゃった。そのうっとりするほどの笑顔を見て、なぜか私は言いようのない恐怖を感じた。 「お父様、このお方は養子として来たのではないのですか? 使用人という感じでもありませんが……」  すると二人は静かに見つめ合い、言いにくそうに口を噤んだ。そして、ふふふと二人で笑みを漏らし合ったかと思うと、お父様が恥ずかしそうにはにかみながら、私にこう告げた。 「ヤトは今日から私の連れ合いになるんだよ。だから他の子達とは事情が違ってくる。百合子もそのつもりでいてくれ」  私はそれを聞いて、思考が全て奪われるうように感じた。体も心も冷たくなり、硬く閉ざされ、動きを止めてしまった。  桜が咲き乱れているはずなのに、景色は色を失っているかのように見えていた。目も口も、開いたまま閉じることができない。体の全てが、自分の支配を逃れてしまっているようだった。 ——この家に、奥様が……。  私には、その事実がどうにも受け入れ難かった。しかもそれを事前に知らされることなく、目の前で幸せそうにしている二人から聞かされるという事実が、私の胸を引き裂いていった。   ——どうして一言も相談して下さらなかったの……。  衝撃のあまり、言葉を失ってしまった。  私には事前に話す必要もないと思われていたのだろうか。自分が軽く扱われているようで、少々腹が立ってしまった。それでも、そのまま泣き喚いて自分の思いを訴えられるほど、可愛げのある性格をしていなかった私は、やや強気に返答するしか無かった。 「まあ、お父様。そういうことでしたら、色々と準備することがございますでしょう。もう少し早めに言って頂かなければなりませんよ。身の回りのことはどうされるのですか? 支援者の方々へのご紹介等はいかがなさいますか?」  妻となるのであれば、各方面に紹介することも必要で、手続きなども色々と煩雑で時間がかかる。お父様は、人と人を結ぶ役割をいつも難なくこなされて来たため、人脈が広い。その身に何か一つ変化が起きると、報せを送るだけでも大仕事になる。 「いや、実はヤトはこれまでも私と共に表に出ていたから、そのあたりはもう必要ないんだ。既に二人で挨拶も済ませてあるし、今回の宴席でまた挨拶をするよ。本当に、百合子の手を煩わせることは無いんだ。気を遣ってくれてありがとうね」  そうおっしゃったお父様は、ぽんぽんと私の頭に手を乗せて慈しんでくださった。とても優しい笑顔を向けられたため、喉に使えた小骨のような苛立ちは、スッと溶けて消えていった。  娘として大切にしていただけているだけでありがたいのだと、必死で自分に言い聞かせた。 「……わかりました。では、私は宴席の準備に戻りますね。何かありましたら、大広間におりますので、そちらにお越しください」  場を辞するためにお二人にお辞儀をした。  そしてそのまま、下男が酒や食器の数を確認しているところまで、急いで駆けた。 ——どうして?  涙が溢れて止まらなかった。こんなことは想定内のはずだ。いくらでも抑え込める感情だったはずなのに……。その時感じた胸の痛みは、それ以来ずっと、今でも心に張り付いている。 *  幸野谷は、お父様の商才のみで一代で築き上げられてきた商家だ。商才と人たらしの才のあるお父様に惹かれ、数々のお偉い様方との縁があり、いつの間にか地元の名士にまで成り上がった。  それを確固たるものにするために、後継者を早いうちから育てるという方針を執っていた。そこで運よく後継者に選ばれたのが、私だ。  私は、貧しい家から茶屋に売られたその日に、お父様に出会った。あまりに泣く私を不憫に思ったお父様が、宥めるために色々と話しかけてくださったのが出会いだ。お父様が茶屋で遊ぶ合間に、こっそりと私に教えて下さった算盤や先読みが、今の私を作っている。  出来が良かった私を引き取って下さり、更なる教養を与えられた。商売に向いた気の強い性格をしていたことが功を奏し、今となっては同年代の子供のみならず、一族の大半の人間から恐れられていた。ある意味、一族は(ほしいまま)になっていた。 「お嬢様、旦那様ご結婚なさるそうですね。おめでとうございます……どうされたんですか!? お顔が……」  下男の正男は私に好意を抱いているため、少しの変化も見逃してくれない。こういう時は、気づかないふりを出来る器量を持ち合わせて貰いたいといつも思う。  全てを馬鹿正直に話させようとするため、私はいつもさらに傷を深める羽目になる。そんなことを言いながら、いつも正男に話を聞いてもらうことくらいしか、私を癒すものは無い。だからどうしても頼ってしまう。  一覧に載っている酒樽の数量と現物の照会に集中するフリをして、正男の言葉を受け流した。流石に正男もそれには気がついたらしく、そのまま奥の酒樽の数を確認しに消えて行った。 「それにしても、あの噂は結局は本当だったということでしょうか」  正男が奥から大きく上擦った声で訊いてきた。正男は気が利かない上に噂話好きで、それが難点となって下男から格上げしてあげられずにいた。 ——これさえなければね。  そう思ってため息をつく。正男は、よく働くし愛想も良く、私が唯一気を許せる相手として夫にしてもいいのになと思っている。それくらい私は正男を気に入っていたけれども、どうにもこの悪癖は治らない。  家の当主が噂好きでは、品位が問われてしまう。ほとほと手を焼いていた。 「今度は何の情報を手に入れたと言いたいの? どうせまた信憑性の低い話でしょう?」  現物の中に無いのに、一覧に名前が載っているものがあった。それを確認しなくてはならず、正男の筆を借りることにした。受け取るために正男のそばまで行った時に、寝不足で足元がふらついていることに気がついた。 「それが、言われてみれば確かにそうかもなあと思うことはあるんですよ……お嬢様? お疲れですか?」  「何でも無いから」と被りを振って、正男の筆をベルトの道具入れから抜き取った。一覧にチェックを入れた時に、楽しそうに正男が告げた言葉が忘れられない。 「旦那様、お子様が成せないのではなく、男色家なんだという噂です」  カラカラと鈴が鳴るような楽しげな声が、蔵のなかで響き渡った。その音が潰えた後、目の前が真っ暗になっていったことだけは覚えている。 ——男色家? お父様が? 「何を根拠にそのようなことを言うの。今日連れてこられた方も、それは美しいお嬢様だったでしょう」  お父様が男色家など、あり得ない話だった。これまで何度も女性と遊びに出かけられていたし、その度に私は身が裂かれるような孤独を感じていた。あの日々を思うと、それはどうにも許し難い話だった。  そのため、正男に対する口調もいつもよりキツくなってしまった。その私の態度が気に入らなかったようで、正男はややむきになって言い返してきた。 「根拠ならあります! さっき来られたヤト様は、陰間茶屋の陰間だった方なんです! 旦那様はヤト様を身請けされたんですよ。さっき柳家(やなぎや)の楼主と遣手が帰って行くところに偶然会って、二人が話しているのを聞いたんですから間違いありません!」 「……うそでしょ?」 ——あの、美しい女性が……陰間?  正男は本当に気が利かない男だ。お父様が男色家であったとしたら、私がショックを受けると思わなかったのだろうか。どうしてそんなに楽しそうに報告してくるんだ、この阿呆が……と思っていると、身体中の血が体から抜け落ちていくような脱力感に見舞われた。 「お嬢様? お嬢様っ!? あ、あぶないっ……!」  周りの音が消えていく。正男の言葉の最後の方は、耳が詰まったようになって聞こえなかった。足元がグラグラと揺れたかと思うと、地面がぐるりと回った。その後、私の目の前は完全に真っ黒な闇へと変わっていった。 *  いつかお父様は奥様を娶られて、私はその方と家族として幸野谷を盛り立てていくのだと決めていた。お父様が私を養子にされたことで、私はこの家にずっといても良いことが決まっていたから。少しでもお役に立ちたいと、商売に関する勉強に励んだ。  私のそれまでの暮らしを思うと、こんな立派な家の子にしていただいただけで、感謝しかなかった。  何日も食べられず骨と皮になって死んでいった妹や弟、何日も強制的に働かされてボロボロになっていく両親、日照りが続いて食料はさらに手に入りにくくなり、食い扶持を減らすために、私は茶屋に売られた。  運よく顔が好かれたため、高く売れたのだという。大店の柳家が引き取ってくれた。それでも育ちすぎていたため、数日禿を経験したらすぐに新造に、という無理な話が出ていた。  恐怖に戦いて庭で泣いていたところを、「幸野谷の旦那さま」と呼ばれていたお父様に助けていただいた。思えば、私も身請けされてきたようなものだった。  恩を感じて精進し続けていたけれども、日々は私に残酷な変化をもたらした。段々と、お父様の隣に立つ人が現れるなら、それは私であって欲しいと思うようになってしまった。  そして、それが恋心であるということを理解したのは、私をずっと追いかけていた正男からそう指摘されたからだった。 「お嬢様、俺を旦那様だと思っていいですよ」  そう言われて正男に抱かれてから、私たちはずっと都合のいい関係を続けている。  義父を愛してしまった娘と、身分の高い後継を愛してしまった下男。どちらも叶うことのない恋だったが、正男にとっては半ば成就したようなもので、満足していたようだった。  正男は、面と向かって私に愛を告げることができるようになった事で、仕事の出来も良くなっていった。私も身を切るような孤独を、正男の温もりに癒されることで日々を頑張れていた。  全てが好転しているのだと言い聞かせて来た。実際、そうであったと思う。私は次第に正男に惹かれていった。このまま誰にも知られずに、ひっそりと二人で歳をとっていってもいいと思っていた。  ただ、この関係にはもう一つ秘密があった。私が一度もお父様に愛を告げなかった理由。綺麗事などに縛られることのない私が、お父様を汚しそうで、踏み越えられなかった線。  正男とであれば、それは簡単に超える事が出来た。その事を人に知られてしまうことが、私には最も恐ろしかった。 「お父様が男を愛せるのなら、私にも可能性はあったじゃない」  私は疲労とショックで気を失っていた。寝込む私の看病を任され、体を拭いていた正男が聞いた、うわ言。目を覚ました私に、正男は優しくとりなしてくれた。 「お嬢様、これからヤト様の存在に慣れるまで、出来るだけ俺の近くにいらっしゃってください。そのことをうっかり口にされてはいけませんから。お嬢様のお体のことは、墓場まで持っていくべき秘密です」  そう、これは誰にも知られてはいけない秘密。私を抱く、正男だけが知っていること。そして、お父様が陰間を娶られたことを、私が受け入れられない最大の理由。  幸野谷家後継の百合子。  私は、男なのだ。  お父様が男を愛せるのなら、私がお父様を手に入れたい。  そう思って以来、その想いにずっと取り憑かれている。

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