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第8話 奪われて
「まあ、何がどうだったとしても、俺は許せないけどな。何度生まれ変わっても、蛇のようにしつこくついて回って、ヤトを苦しめるために俺を利用し続けた。俺もバカだから、それに気がつくのはいつも死ぬ時でさ。今際の際に現れた貴人様から、憐れまれて終了って感じを繰り返してきた。二度と同じ目に遭わないためにも、あいつを成仏させないと気がすまねえよ」
「俺への恨みをはらすためにイトを……。ごめんな」
綾人は悲しそうに眉根を寄せ、恵斗へ頭を下げた。綾人の預かり知らないところで起きる不幸の引き金が自分だった。そんなことが二度も起きている。それを知らずに生きていた自分が恥ずかしく、やるせなかった。
「タカトだけじゃなくて、恵斗も俺のせいで不幸だったってことだろ? いるだけで不幸にさせるなんて、俺、なんのために……」
綾人は存在するだけで迷惑をかけるというのなら、自分は存在してはいけないのではないかと思い始めていた。それを見越した恵斗は、綾人の両頬を片手で掴み、むぎゅっと肉を寄せて悩むのを強制的に中断させる。
「ひたひ」
ひよこのように突き出された唇で、綾人がそう訴える。それを見ていた水町とタカトは、思わず吹き出してしまった。
「ちょっと、何してんのよ。笑わせるところじゃないわよ」
水町が恵斗にそういうと、「だからって、今そんなことでしんみりしても仕方ねーだろ?」と返してくる。その表情は真剣そのものだった。
「くだらねーこと言ってる場合かよ。今は戦闘中。そんなんで百合子を倒せると思うなよ。変な仏心を見せたら心に忍び込まれてお終いだ。気ぃ抜くなよ」
「ふ、ふわぁい……」
綾人の返事を聞いた恵斗は、満足したようでその手を離した。綾人はジンジンと痛む頬を手でさすりながらも、百合子に背を向けないようにと振り返る。
百合子は、かなりダメージが大きいようで、立ち上がるどころか身じろぎ一つせず、黙って目を瞑ったままだ。
「男であんなに華奢だってことは、食べないようにしてたってことなのかな」
綾人がそう呟くと、ズ……とあの嫌な重みがのしかかり始めた。
「……来たな。もうここからは倒し切るまで終わらないと思えよ」
「わかった」
そう答える綾人のそばで、タカトと水町は不安の色を濃くしていった。
「せめて貴人様かウルが戻ってこないと、二人で太刀打ちできるのか……」
「そうだよね。ていうか、私たちがいると足枷になりそうな気がして……」
二人がそう離していると、白いシーツの下で気がついたらしい百合子がゴソゴソと動き始めた。自分の今の姿を確認したのか、小さく息を呑む音が聞こえる。
被ったシーツがゆらゆらと揺れ始めた。悲しくて泣いているのか、それとも怒りに震えているのか。綾人が百合子なら後者だろうかと思っていると、突然その白い塊から大きな声が響いた。
喉の奥から捻り出したような、苦しみに満ちた金切り声。その響きは、絶望に満ちていた。
「お前ら……私が男だってことは……知られてはいけないのに! 絶対に! 誰にも!」
百合子はそう叫ぶと、突然その場に立ち上がった。こちらへ振り返り、面をゆっくり上げる。
「……目が!」
タカトがそう言うと、水町が小さく悲鳴を上げた。百合子は、完全に正気を失っていった。
恨みに飲み込まれてしまったのか、さっきまで辛うじて見えていた人間らしさも失くしていた。じわじわと瞳孔が開いていき、黒目が眼球を占める域が尋常でなくなっていく。僅かに残る白目は血走り、ほぼ赤と黒だけで構成されているように見える眼球は、ただ悍ましい。
顔に張り付いた小さな地獄のような目をこちらに向け、百合子は口から呪いの言葉を吐き出す。
「殺す……全員殺してやる……死ねェエ!!!!!」
その声が放たれた途端に、全員の身体中に痛みが走った。
「ぐっ、くそっ! 出遅れると反撃出来ない!」
骨が潰されるような痛みに耐えながら、タカトたちの様子を伺う。すると、ベッドで眠っていたはずの桃花が「っ、ぎゃー!」と大声で喚きながらのたうち回った。
最も体が華奢な桃花は、物理的な影響を一番に受けてしまったらしい。両手で体を抱きしめるようにしながら、呻き声を上げ続けている。
「雨野さん!」
誰もが呪い で眠らされている桃花にまで影響がいくとは思っていなかった。電撃による反撃が一番現実的だとは分かっていても、なかなか集中してイメージを固める事が出来ない。
なかなか手が出せず焦りの色が濃く出始めたところで、綾人の目の前に黄金色の大きな人影が現れた。
「瀬川 !」
ウルは大きな翼を一振りすると、桃花へと矢を放った。それが命中したと思うと、その体を黄金の光が包み、消えていった。桃花は呪いから解放されたのか、さっきまでと同じように、静かに寝息を立て始めた。
ウルはそれを見て一瞬ふっと表情を緩めたが、すぐにまた気を引き締めるて百合子へと鋭い視線を送った。
「悪い、遅くなった。桃花ちゃん、さっきので浄化出来てるから、安心して」
「おう、分かった。サンキュー」
綾人が答えると、ウルは口の端を上げて笑った。そして、百合子を睨みつけながら、少しずつ間合いを詰めていく。
「さてと……。お前、もういい加減にしろよ。どれだけの人を巻き込めば気が済むんだ。そろそろ観念して、地獄の鬼さんと戯れてこい!」
そう言って二本の牙を剥き出しにして咆哮を上げると、その大きな翼を力強くはためかせた。肌を泡立たせるほどの勢いで風が巻き起こり、その風圧で綾人の体はよろめいた。
どうやらウルは、圧には圧で対抗するつもりのようだ。巻き起こす風で、百合子の攻撃は次々と跳ね返されていく。
「くっそ……この天狗野郎! 邪魔するな!!」
百合子はやや怯んでいるようだった。ウルの霊力は、本来天界に行けるほどのものだ。さすがの百合子も、簡単には勝てないらしい。ウルはジリジリと百合子に近づくと、一瞬の隙をいて足の大きな爪で百合子を捕らえた。
「何するんだ! 離せ!」
百合子は、大人に対抗する子供のように、ウルの足を手で掴んだ。傍目にはどう見ても勝ち目はなさそうだった。しかし、気がつくと周囲に動物の肉が焼けこげるような匂いが漂い始めていて、ウルの足が焼け爛れていた。
ウルは顔を苦痛に歪めながらも、その足の力を一向に緩めようとはしなかった。恵斗同様に、ウルも今回が百合子を葬る最後のチャンスだと捉えているようだった。次は無いというその思いが、痛いほどに伝わってきた。
「ウル! 一旦離せ! 足がダメになるぞ!」
綾人が声をかけたが、ウルは被りを振るばかりで百合子の拘束をやめなかった。ウルの足が心配になって来た綾人が、何かできる事がないかとあたりを調べていると、タカトが綾人の前に出てきた。
「俺が行く。任せろ」
その顔にはあざは無く、右目は真っ赤に染まっていた。貴人様も戻って来られたようだ。じっと百合子を見据えている。綾人の肩に手を乗せて、大丈夫だと言いたげに軽く叩いた。
「貴人様! あの、ウルに足を離すように言ってください! このままじゃ足がダメになります!」
しかし、貴人様は何も言わないまま、ウルの爪に拘束されている百合子の元へと歩み寄った。そして、悲しげな目で百合子を見下ろした。ウルの足にしがみつき、一心不乱にその足を焦がしていく姿を見て、「百合子」と呼びかけて涙を流した。
「百合子……話をしよう」
ここにいる全員を殺しそうな禍々しさを持つ者に、貴人様は穏やかで優しい声をかけた。その声を聞いて初めて、百合子はそこに貴人様がいることに気がついたようだった。
「お、お父様?」
もう、自らの恨みの深さに飲まれてしまっていて、最愛の人がそこにいることにすら気がつけなくなっていた。恨んで、恨んで、憎いと思う対象しか目に入らない。それは、とても悲しい人間の姿だった。
「百合子。そろそろ罪を認めなさい。生まれ変わって、幸せになりなさい。そんなに傷ついて……」
そう声をかけられ、百合子は着物が裂けていることを思い出した。それはつまり、自分の体が貴人様に見られてしまっているということだ。途端に羞恥に襲われ、ウルの足から手を離した。
「あ……私を見ないでください。見ないで、見ないでください。あなたには知られたくない。知らないでください!」
百合子は必死になって、自分の性別を隠そうとしていた。
しかし、貴人様はフーッと深いため息を吐くと、覚悟を決めたように百合子に告げた。
「百合子、私はお前が男だということは知っているよ」
貴人様はさめざめと涙を流していた。百合子は息を呑むと「し、知っているって……どうして……?」と呟く。貴人様は、倒れている百合子の近くへと膝をつき、背中を撫でながら優しく言葉をかけた。
「お前がそのことを知られるのを、何よりも嫌がっていると分かっていたから、敢えて明確には言わなかった。それが良くなかったようだな。すまなかった」
「知っている……どうして……」
百合子は貴人様の言葉を聞いても、それを受け入れようとせず、ぶつぶつと同じ言葉を繰り返していた。貴人様は、百合子をそっと抱きしめた。体が百合子に触れると、僅かに肌が焦げる匂いがした。
——タカトの体が!
綾人がタカトの身を案じていると、驚いたことに百合子も同じ思いを抱いたようだった。「お父様、お身体が……離れてください」と言い、焦って体を引き離した。
貴人様は体を離されても、百合子のどこかに触れたまま話をしようとした。髪を撫で、背中を摩り、手を握る。優しい父が、小さな子供を愛でているような行動を繰り返した。
「私はお前と出会った日から、お前が男だということは知っているよ。お前には記憶が無い三年間がある。私たちが出会った場所から、お前は記憶違いをしているんだ。それを早く教えてあげれば良かったな。そうすれば、お前は修羅に落ちることも無かったかもしれないのに……」
そう言って、貴人様は嗚咽を漏らした。百合子は、貴人様の言葉に衝撃を受けたようで、「どういう事ですか?」と言ったまま、記憶の網へと囚われていった。その糸を手繰り寄せ、暗くなっている場所へと辿り着こうとする。
「私たちが出会った場所……」
「そう、私たちが出会ったのは、どこだったかい?」
百合子は、もう一度必死で記憶の糸を辿った。
八歳で幸野谷に引き取られるまで、柳屋にいた。貴人様と出会ったのは柳屋だ。
「柳屋……ですよね? でも柳屋は女郎もいるし、そこの新造にって……」
貴人様はうん、と頷いた。そして、その先を話すのが心底嫌だと言いたそうに顔を歪めていく。
「お前が柳屋にいたのは、一月だけだ。身を売るのが嫌だと言って泣き喚いて、楼主と遣手さんが手を焼いていた。だから私が学問を仕込んで、お前を身請けした。その手続きにかかる一月だけしかいなかったんだよ。でも、お前が売られたのは五歳の時だろう? それから八歳までの三年間は別の場所にいた。それを忘れているんだ」
百合子は必死に思い出そうとしていた。それでも、頭に靄がかかったようで、どうしても思い出せない。それを見て、貴人様が重い口を開いた。
「お前は、五歳の時に柳屋の芝居小屋に売られたんだ。だから陰間じゃなくて陰子だったんだよ。柳家の芝居小屋は、男しか雇わない。それでお前が男だということはわかっていた。俺は、お前の芝居を見たこともある。顔も綺麗で、才能もあって、とても印象に残る子役だった。それでも、三年で舞台に立てなくなったんだ。だから柳屋の茶屋に移された」
しん……と静まり返っていた。陰間と陰子。この二つは、似て非なるものだ。柳家の陰間は男娼、陰子は役者になるために修行している者のことを言う。陰子は基本的に体を売ることは無い。
芸を磨くために自らその道を選ぶ者はいたようだが、強制的に必ずしもやらなくてはならないと言うことは無かった。
「お前は美しすぎて、修行していた間に仲間に乱暴されたんだそうだ。その時、お前は腹を刺された。その恐怖がついて回るようで、舞台に立てなくなったんだよ。だから茶屋に……」
それを聞いた百合子がピクリと反応した。
——そうだ、そんなことがあった。
顔が舞台向き、芸も達者。今後の花形になれるねと言われていた百合子は、その未来に向かって必死に頑張っていた。そうすれば、親が助かると考えたからだ。
既に飢えで兄弟を亡くしていた百合子は、なお貧しさに擦り切れていく両親を、少しでも助けてあげたかった。だから、必死で修行に食らいついていった。
それが、一人の男の汚い欲望で全てを壊された。襲われたことなど、なんとも無かった。ただ、刺された痛みが、百合子を舞台に立てなくしていった。
百合子の努力は、その時、全て泡と消えた。
——女に生まれていれば、あの男に襲われることも、刺されることも無かったはずなのに。
その日以来、百合子はずっと地獄にいた。役者小屋にいても芝居が出来ない役立たずは、捨てられる。すぐさま茶屋へと移された。
「舞台に立てないのなら、身を売るしかないよ。もう親に苦労させたくないんだろ?」
そう告げられてからは、もう泣き叫ぶしか出来る事は無かった。男に襲われて全てを失ったにも関わらず、男女関係なく身を売れと言われる。
「操を奪われたのが辛かったんじゃないんだろ? じゃあ大丈夫じゃないか」
そこへ、救いがもたらされた。それが貴人様だった。
「私はお父様のために生きていく」
養子縁組をしたその日に、そう誓った。だから、いつの日か夫婦になれるように、女でいようと決心した。
——だから誰にも邪魔はさせられない。お父様の隣に立つのは、私だ。あの陰間じゃない。
過去を思い出した百合子は、綾人の方へと体ごと向き直った。そして、さらに恨みを強め、ギリギリと歯軋りをしながら睨め付けていた。
「百合子」
貴人様は、ずっと黙っている百合子の顔を覗き込んだ。そして、その目の禍々しさに危険を感じてその場を離れた。
「お前さえ、いなければ」
その恨みの矛先は、間違いなく一人に向かっていた。
「逃げろ、綾人!!」
その声と同時に、それまで静寂に包まれていた室内は、強烈な圧力と共にぐしゃっと音を立てて潰れていった。
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