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第10話 悪あがき

「そうですか……理解、しました。……でも」  瀬川(ウル)が鼻をピクリと動かした。また空間が歪む前兆が起きている。時折、ブウンと不快な低周波が聞こえ始めていた。  ウルは、恵斗と綾人に目配せをしてそれを知らせる。二人は軽く頷くと背中に手を回し、その手の中にそれぞれの武器を発現させた。綾人は柄の部分に蛇が巻き付いている剣、恵斗は一度凛華の体を貫いたことのある、あの金色の杵だった。  そして、百合子に対峙すると、それを持ち、半身で構えた。 「なんか……ヤバい感じがするよな」 「だな。一瞬で決まりそうな感じだ」  二人は、百合子の殺意に悲壮感が加わったことで、より捨て身の攻撃に走る覚悟が出来たことを恐れていた。数百という命を食い物に成長した悪霊は、これまで余裕で相手を倒し続けてきた。  それが、ここへきて絶望感に晒されたことで、より強さを増してしまったように感じる。まだ攻撃を受けていない段階でも、それを感じるほどに、状況は悪化したようだ。  パキパキと小枝が折れる音がし始め、それがだんだん圧縮音へと変わり、最後にはぺったりと潰れて板状になってしまう。古い木造の建造物はガタガタと変形していき、小石は割れ、さらに細かく砕かれていった。  憎悪に満ちたその空間は、次第に人間の体へと襲い掛かろうとしている。 「やっぱりだな。今まで人間に攻撃はしても、周りの物まで影響を及ぼしたりしなかっただろ? なりふり構わなくなったってことだろうな」 「……だな」  これまでの百合子の攻撃は、さすが商売をしていた人間だとでもいうべきか、無駄がなく効率よく相手を追い詰めていた。しかし、今はとにかく怒りの矛先を相手に向けられるなら、効率などどうでもいいのだろう。 「このままではやられてしまいますからね……」  百合子はそう呟くと、裂けた着物の隙間を利用して足を開き、乱暴にしゃがみ込むと地面に右手をついた。そしてそのまま一呼吸置くと、今度は一気に立ち上がり頭上に手を振り上げた。  するとその手のひらの下に、一人の男がくっついた状態で引き出されてきた。その男は、綾人がついさっき足蹴にしていた男、雅貴だった。 「えっ!? なんであの人あっちに行ったの? 今までここにいたでしょ?」  水町が動揺して一歩前へと踏み出そうとした。すると、見えない何かがそれを阻止しようとした。綺麗で艶のある黒い前髪が、ジリっと音を立てて燃え上がった。 「水町! 火……」  突然水町へと牙を向いた百合子のトラップに綾人が叫び声を上げた時、貴人様が「問題ない」と言って、手を翳した。その貴人様の手のひらから、水町の燃えた前髪に向かって、水の柱のようなものがするりと飛び出し、向かっていく。 「えっ! ……あれ、龍?」  その水は小さな水龍の形をしていた。スイスイと泳ぐように空を飛び、自ら炎に食らいついて行く。燃えていた前髪にかぶりついて火を消すと、そのまま水龍も一緒に消えた。  あまりに突然の出来事に水町が呆然としていると、貴人様が大きな声で水町に叫んだ。 「すまない、緊急事態だ。さくらと変わってくれ!」  一瞬呆けていた水町は、それでもすぐに我に返り、「はい」と答えて頷いた。その水町に向かって、貴人様は優しい微笑みを返した。水町は頬を赤つつ、すぐにさくら様と入れ替わった。  そして入れ替わったさくら様は、やれやれと言うように小さく手を上げた。 「最後はこの子に託すおつもりですか?」  さくら様は貴人様の隣に立つと、ぼそっと呟いた。貴人様は口の端だけを上げてニヤリとすると「いけそうだっただろ?」と返した。  さくら様は呆れたようにじっとりとした目で貴人様を見ると、「まあ、そうなるといいですね。少しでも恋心があれば、忠誠心は上がりますから」と返した。  そして、四人で百合子に向き合うと、百合子はフンと鼻を鳴らして蔑むように話し始めた。 「私はこの男の体を使えば、人間なんて簡単に捻り潰せます。お父様、あなたでさえ、この男は倒せませんよ。お分かりでしょう?」  百合子は不気味にふふふと笑うと、すうっと雅貴の体の中に入り込んだ。 ——やられた。  これまで貴人様が百合子に手が出せなかった理由は、主に二つあった。  一つは、百合子が実子ではなくとも自分の子であるため、霊力が普段の半分しか通じなくなること。もう一つは、雅貴に憑依することが多かったため、タカトの体が無意識に攻撃する事を拒絶するからだった。 「この男、お父様の弟さんの直系の子孫なんですよ。ご存知ですよね? あなたが亡くなった後の後継だった、次男の頼仁さんの子孫です。つまり、お父様とは血が繋がっていますね。だから、お父様は私に手出しが出来なくなります。お父様が容れ物に使っている男はこの男の息子でしょう? その体も攻撃したがりませんよね? それに、この男は本当に愚かなんです。いつも自信がなくて、狼狽えてばっかり。だから呪玉に染まりやすくって。今となっては私の傀儡です」  うふふと美しく、雅に、心底楽しそうに、百合子は笑った。雅貴を使えば、百合子は楽に戦える。厄介なことに、冷静さを取り戻したようで、若くして商売の全てを任されていた者の計算は抜かりないものだった。 「貴人様、俺たちが攻撃すると、タカトのお父さんはどうなるんですか?」  何度も命を狙われた相手とはいえ、恋人の父である雅貴を案じて綾人が訊いた。そのお人好し加減に呆れながらも、貴人様は綾人の優しさに目を細める。 「心配はいらいない。俺たちの攻撃は、人間の体に物理的な害は与えない。ただ、攻撃によって多少精神的に影響が残る可能性はある。井上邸でのタカトのような感じだな。ただ、あの時よりはずっと影響は大きくなるだろう。それでも、全てが終わった後に浄化してやれば大丈夫だ。この男も、まだ若いからな」 「……つまり、俺が剣で斬っても大丈夫だってことですよね?」  貴人様は百合子を見つめたまま、縦に首を振った。そうなれば、攻撃は綾人と恵斗とウルですることが出来る。三人は顔を見合わせると、同時にコクリと頷いた。 「私を手にかけるのですか、お父様」  百合子は、悲しそうに貴人様に問いかけた。ただし、感情の籠っていないその声が、それは演技であることを物語っていた。説得しても応じることができないのであれば、いくら子供とはいえ、祓うしか無い。貴人様は苦しそうに胸元を掴み強く目を瞑った。 ——信じろ。百合子を真の意味で救うためだ。  周囲で色々なものが潰れ続けている状況の中、『上』から受けていた使命を思い出していた。 『幸野谷百合子を今世のうちに捕らえ、更生させよ。もう次はないぞ』 「百合子、これが最後のチャンスだ。これを逃すと、消滅するか永遠に地獄の中だ」  その言葉を聞いて、百合子は心底楽しそうに吹き出した。腹を抱えて、大きな声を上げながら笑っている。 「お父様、何をいうのですか! 生まれてからずっと、私のいる場所は地獄ですよ。それがこれからも続くだけでしょう? だったら、自由がある今の方がまだマシです」  そう言いながら、指先に不穏な光の玉を弄んでいた。その玉から黒い煙のようなものが現れ、周囲に漂い始めた時、またウルが鼻をピクリと反応させた。そして、すぐに翼をはためかせて地上に飛び上がった。  その姿を確認した百合子は、ウルに攻撃を仕掛けようとした。そうするために上を見上げたタイミングを見計らって、ウルは上空から矢を放ってきた。 「っ……、このっ! くそ天狗がっ!」  百合子は、悪態をつきながら黒い煙をウルの方へと向かわせた。それと同時に、ザザザと雨のように大量の矢が降ってきた。それを射ったウルは、危険を察知したのか、すぐに地上へと戻ってきた。  着地のタイミングと同時に、それまでウルがいた上空が、カーテンが揺れるようにして空間が揺らぐのが見えてた。その周囲が中心に向かって黒く染まり始めると、急激な気流の上昇が起き始めた。  黒い部分を中心として、徐々に空が塗りつぶされたように消えていく。地上から眺めると、まるで絵を描いたキャンバスが切り裂かれたようになっていた。 「ブラックホールだ!」  そう叫んだのは、行方がわからなくなっていた陽太だった。戦うどころか逃げる体力が残っているのかも怪しかった陽太は、ウルから身を隠しておくように言われていた。  それでも、陽太にはブラックホールを見て黙っていることは出来なかった。これがどんな絶望的状況であるのかを、一番理解しているのはおそらく陽太だろう。  青空の広がる山間に、突然ブラックホールを作り出してしまった百合子は、金切り声のような笑い声を上げていた。その狂った黒目ばかりの目で陽太を見つけると、ニタリと笑って呟いた。 「無に還ることからは、逃げられ無いわよね? ヤン。いくらその頭脳を持ってしても、無理なものは無理よ。……残念です、お父様。ここでお別れですね」  不敵に笑う百合子の声が響き渡る中、地上にあるものがゆっくりと浮上していく。小さなホールだが、蒸発させられるかどうかはまだわからない。どうすれば蒸発させられるか、陽太は考えることにした。 「考えろ。一般的な科学的知識が答えじゃないのは間違いない。どうすれば……」  ブラックホールを計画的に蒸発させることなど、一学生に解決できるような問題ではない。それでも、陽太は自分に出来そうな事を探してやってみるしかないと思っていた。 ——消滅を待つだけだなんて、怖くて俺には絶対に無理だ。  陽太は、綾人に質問した「死を待つ恐怖」について、今自分にそれを当てはめていた。そう考えると、やっぱり自分は何もせずに待つことなど、恐ろしくて出来ないと改めて思っていた。  綾人も本当はそうなんじゃないだろうか、と陽太は考えている。怖いけれど、やれることをやって諦めようとしているのだろう。だから、陽太もそうしようと考えた。怖がるくらいなら、最後まで出来ることを探して過ごしたい。 「ブラックホールの消滅は、蒸発のはず。あの大きさを蒸発させるには……」  命の危機が迫っている場所で、冷静さを失ったまま論理的に物を考えようとしても、それはかなり難しい。それは陽太ももちろんそうで、いくら考えようとしても思考がバラバラになってしまっていた。 「陽太、落ち着きなさい。大丈夫だ。すぐ終わる」  陽太は心の底に温かい灯が燈るような、優しい貴人様の声が聞こえて来たので、そちらへと振り向いた。そして、その姿を見てハッとした。 「え? 貴人様ですよね? あれ? その姿は……?」 「え、え!? し、白い! 貴人様!?」

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