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第10話

「・・っ」 か細い息を吐いて、幸はトンと増田の身体を押した。 重なっていた唇が離れ、増田は少し寂しそうな顔をする。 「ごめん・・俺下手かな」 眉尻を下げて笑いながら増田は言った。 「そんなことないよ・・」 幸は腰掛けていたベッドから立ち上がる。 「それより、今日は増田君のオススメの映画見るんでしょ?」 「あっ、そうそう!タブレット持ってきたんだよ!」 増田は慌てたように両手を振ると、ベッドから降りて床に置いていた自身のリュックを探り出す。 「ありがとう」 幸は薄らと微笑むと増田の横にピタリとくっついて座った。 今日は明が久しぶりの部活に出かけたので、増田を家に呼んでみた。 増田と付き合って二ヶ月ほどが経ったがまだセックスはしていない。 二人になればキスはするが、どうやら増田はそれもまだ慣れていないようだ。 今まで付き合ってきた恋人の中ではかなり慎重なタイプである。 まさに清廉潔白という言葉が似合う人間だ。 そんな増田を自分が『汚して』しまっていいのだろうか。 その躊躇いから関係を進むのが億劫になってきてしまっているのが現状だ。 「今日は明君は部活なんでしょ?やっぱり運動部は大変だよなぁ」 タブレットを指で操作しながら増田が言う。 「それを言うなら昴の方がもっと大変だよ。ほとんど毎日部活行ってるもん」 幸は画面に映る映画のタイトルを見ながら答えた。 「えー、マジかぁ。夏休みなんてあってないようなもんだな」 興味を引かれたタイトルがあったのか、増田は画面をトントンと軽くタップする。 しかし幸にとっては好みの作品ではない。横からすっと手を出すと、別の作品のタイトルをタップして「こっちがいいな」と呟いた。 夏休みに入ってから昴とはほとんど会えていない。 この間の夏祭りで会ったのが久々だった。 それも明が誘わなければ来たかどうかは怪しいが・・ ここ最近、以前よりも昴に距離を置かれている気がする。 『彼氏がいるでしょ』と遠慮することはよくあるが、それでも幸が何か言えば必ず従ってきた。 あの日の罪悪感にさいなまれながら。 幸もそれをわかって言っている。 ・・だって、そうでもしなければ昴はこちらを見てはくれないから・・ 昴は自分が守ってあげるんだ。 そう思ったのは、七歳のあの日。 昴の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた瞬間だった。 それまでの昴は『明との間に入ってくるあまり好きではない友達』だった。 幼稚園で明と遊んでいても、すぐに昴が入ってくる。明もすぐに昴を呼びよせる。 怖い両親のいる昴を可哀想とは思いつつも、明との間に入ってこられるのは面白くなかった。 けれど七歳のあの日、そんな昴への気持ちに変化が起こった。 暖かいカレーの湯気の向こうで、いつも冷静な昴がポロポロと泣き始めたのだ。 両親の離婚が決まりきっと寂しくて泣いているのだろう。 可哀想な昴。そう思ったら自分も自然と涙が溢れてきた。 それまで自分より大きく強いと思っていた昴の、弱々しい一面を見て幸の心に庇護欲が湧いたのだ。 この可哀想な友達を守って幸せにしてあげたい。 寂しい思いをさせないように。 僕が一緒にいてあげるんだ。 それから幸は昴が寂しくないようにといつも側にいるようになった。 そして昴の隣がとても居心地がいいことも知った。 昴は穏やかで優しく、人見知りの幸のことをいつも気にかけてくれる。 それが嬉しくて大切にされている気がして、時々わざとワガママも言ってみたりした。 昴は眉尻を下げて少し困った顔をしても幸に付いてきてくれる。 昴を独り占めしたい。そんな欲が少しずつ増えていく。 こんなに側にいるのだから昴もずっと離れないで、と・・ けれどそんな幸の想いは、初めてヒートを起こしたあの日に粉々に打ち砕かれた。 明だと勘違いされたまま、疼く身体を弄られた。 屈辱的なあの日にーー 「この映画、つまんない?」 幸が無反応で画面を見つめていると、増田は遠慮がちに聞いてきた。 「・・ううん。でも思ったより単調だなぁって」 目元を細めて笑いながら幸は言う。 「俺はこういうのも好きだけど、増田君は大丈夫?アクション映画とかの方が良かったんじゃない?」 「いや!大丈夫!確かにあんまり静かな映画は見ないけど、だから新鮮っていうか!」 幸に気を遣わせないためか、平気そうな顔で増田が笑う。 しかしこの映画が始まってからすぐに増田が何回か小さく欠伸を噛み殺しているのを知っている。 このまま見続けたら、おそらくそのうち船を漕ぎ始めるだろう。 幸はコテンと増田の肩に頭を預けてみる。 ビクッと身体が揺れて「えっ・・四十万?」と増田が頬を染めて幸を見下ろした。 「気にしないで。映画見よう」 画面を見つめたまま幸はなんでもない顔で言う。これで少しは増田の眠気も飛ぶだろうか。 淡々と静かに映画が流れていく。その間も幸は増田に身体をくっつけたままだ。 ドクドクと揺れる鼓動が伝わってくる。 この程度でこんなに緊張されては、やはり先に進むのは気が重い・・ 中三の終わり頃には発情期の周期も安定するようになってきた。 発情期近くになると抑制剤を飲み身体を落ち着かせる。 それでも本能的に疼くものはある。それを表面的に出さないようにしているだけだ。 幸は部屋のカレンダーをチラリと見つめた。 もう少しでまた発情期が来る。 一人でその期間を我慢して過ごすのと、βでも誰かと身体を重ねて発散するのとでは心の安定が全然違う。 そのためにずっと恋人を作ってきた。 その行為を正当化するためだ。 ただ身体を重ねると、相手の依存や束縛が強くなる。そこまでの関係は望んでいない。 増田は優しく明るい好青年で今までの恋人とは違う。重い感情をぶつけてくることは無さそうだ。 しかし、だからこそこちらの都合に引きずり込むのも抵抗がある。増田の存在は幸にとっては綺麗すぎるのだ。 二人で静かに映画を見ていると、下の方で玄関の開く音がした。 「あ、あれ?誰か帰ってきた!?」 その音にいち早く反応したのは増田だ。幸から身体を離すと、慌てたように立ち上がる。 「俺、挨拶してこなきゃだよな!お邪魔してますって!」 「・・別に大丈夫だけど」 幸はそう答えながら誰が帰ってきたのだろうと考えた。 父はいつも通り夜まで仕事だし、母だって帰ってくるのは夕方のはずだ。 だとすれば・・ 幸がそう頭で巡らせている間に、増田はドアを開けて部屋の外へと出て行く。 そして大きな声で「お邪魔してます!」と言った。 「えっ・・あ、どうも」 明の驚く声が聞こえ幸も立ち上がる。 てっきり明も夜まで帰ってこないと思ったが、何かあったのだろうか。 「明?帰ってきたの?」 そう言いながら部屋を出て階下を見下ろすと、幸は明ではない人物と視線がぶつかった。 支えるように明の腕を掴んでいる基依だ。 基依はジッと幸を見つめていたが、ヘラっと表情を崩すと「ちわ。弟届けに来ました」と笑った。 「・・どうも」 幸は増田と一緒に下へ降りて行く。 「おぉ?どうした?明くん怪我したの?」 幸が聞くよりも先に増田が質問する。 明は靴を脱ぐとゆっくりと玄関から上がって言った。 「うん。膝がピシって急に痛くなって、今日は早退してきた」 「で、俺はそんな明が心配なんで送ってきました」 基依は自身を指差しながら横から顔を出す。 「基依、ありがとう。上がってよ。お腹空いてるだろ」 「明達、お昼まだなの?」 「うん。練習始まってすぐに足痛めたから。幸達は?食べたの?」 「まだこれからだけど」 幸はそう言って増田に目をやる。 「あっ、じゃぁ俺何か買ってこようか?コンビニあるし!」 気遣うように増田が言うと、基依が片手を前に出して言った。 「いいよ。お兄さん達デート中なのにお邪魔しちゃ悪いからな。俺は帰るわ」 「えっ、でも・・」 明が止めようとするが、基依はクルリと背を向ける。 「じゃ、明お大事にな。練習来れそうになったら教えてよ!お兄さんと彼氏さんもまたな」 そう言って基依が玄関を出ていこうとしたので、幸は追いかけるようにして言った。 「俺、基依君を送ってくるよ。わざわざここまで明を届けてくれたんだから」 「え・・」 明と増田が戸惑いの表情を見せる。 「増田君、明のことお願いできる?あと何か食べ物も買ってくるから。よろしくね」 幸はそう言うと、サンダルを履いて基依を押すようにして外へと出た。 それから扉をバタンと閉める。 ここまですればわざわざ後を追っては来ないだろう。 「・・いいのかよ?」 後ろについてきた幸を基依は訝しむような顔で見つめる。 「・・増田君は信頼できるから」 幸は口先を尖らせながらチラリと基依に視線を向けた。その視線に基依は不快そうな顔で聞く。 「なんか怒ってるだろ?」 「・・俺、お兄さんとか呼ばれるの好きじゃないんだけど。何なのあれ?」 ツンとした口調で幸が言った。 「あぁ。あれ?だってお前の彼氏の前で名前呼び捨ても悪いかなぁと思っただけだよ」 「・・別に増田君は気にしないと思うけど」 「何?名前で呼んでもらえなくて寂しかったってか?」 「はぁ?何それ?」 幸は頬が少し熱くなるのを感じながらも、眉間に皺を寄せた。 図星を突かれたのを隠すためだ。 わざとらしく距離のある態度をとった基依が気になった。そして苛立った。 だから追いかけてきたのだ。 基依とは実際に顔を合わせたのはまだ数回だ。けれど連絡を頻繁に取っているのでそんな気はしない。 むしろ他のどの友人よりも気軽に自然体で接せられる相手になっている。 基依は今まで周りにはいなかったタイプだ。 こちらの機嫌を窺わず、ずけずけとものを言ってくる。 俺にどう思われるか全く気にしていないような・・ これまで幸のそばにくる友人といえば、皆が幸にどう思われるかを気にする人ばかりだった。 だから幸としても気が楽だった。みんなが自分のいいように動いてくれる。 それなのに基依は、その反対をいくように平気で棘のある言葉を言ってきた。 こちらが怒るのを楽しんでいるかのように飄々と笑いながら。 その態度に幸は逆に興味が湧いた。 苛立ちながらも、こちらも変に取り繕わなくていいのだと思えたからだ。 皆が求める『四十万幸』でなくていい。 基依の前ではこちらも言いたいことを言い、素直に怒り泣き言も言える。 そんな相手、今までは家族以外なら昴しかいなかった。 基依との居心地の良さに昴を重ねている部分がある。そのことを幸は自覚し始めいた。 「で、どこまで送ってくれんの?」 基依がフンと鼻を鳴らしながら聞く。 「・・せっかくなら駅まで送ってあげようか?迷子になっても困るしね」 幸も負けないようにと強気な口調で返した。 「へぇ。彼氏はいいの?一人にさせちゃって」 「一人じゃないよ。明がいるじゃん」 「でも幸といるために来てんだろ?・・なに?もしかしてうまくいってないとか?」 「・・・」 そう聞かれ、明は無言で前を見つめる。 上手くいってないかと言われたらそうではない。 むしろ今までのどの恋人よりも平和である。 けれど・・ 「どうかな。増田君、いい人すぎちゃって。こっちが爽やかさにやられそうな時がある」 口元を上げてわざとらしく卑屈な笑みを浮かべてみる。 するとそんな幸を見て、基依はケラケラと笑った。 「あっはは!よくわかってんじゃん!幸には爽やかさなんて似合わねえもんな」 「はぁ?基依君が俺の何をわかってるわけ?」 愉快そうに笑う基依をジロリと睨む。 「わかってるって!周りが思ってるほど幸がお綺麗なわけじゃねぇってな」 「・・・」 「でも別に俺は気にしないけど。人間、汚いところがある方が普通だろ?」 「・・基依君にもあるってこと?」 上目遣いで基依をチラリと見る。 「・・まぁな。あるだろ、そりゃ」 「・・・なら、お互い見せ合おうよ。汚いところ」 幸はグイッと基依の両腕を引く。そしてつま先立ちをして首を伸ばすと、優しく自身の唇を基依の口へ押し当てた。 「・・っ」 ふいの口付けに基依は両目を開けたままだ。 幸は小さなリップ音をたててゆっくり離れると、そのまま正面に向かい合ったまま基依を見つめる。 基依も口をポカンと開けて幸を見ていたが、一息吐くとニヤリと笑って幸の耳に顔を近づけて言った。 「・・駅ビルの裏にあるホテル行くか?」 「・・・」 幸はゴクリと喉を鳴らす。 彼が明の想い人であることは、きっと間違いない。 けれど・・今彼が見てるのは明ではなく自分だ。そして、自分も今彼を必要としている。 それならば・・ 「・・いいんじゃない?」 幸はツンとした表情で顎を上げると、基依の小指に自身の指を絡ませて引っ張った。 ー 「・・っ」 基依の額から流れる汗がポタリと落ちてシーツを染める。 「ゃぁっ・・ぁ・・」 幸は腰を反らして、思わず喘声を上げた。 太腿を抱えられ幸の深い部分に基依の熱い屹立が打ち付けられる。その動きは強く激しくて、声を抑えるのを忘れてしまう。 「い・・やぁ・・あっ・・ぅん・・」 普段飄々とした顔でいる基依からは想像できない、欲望を思いのままにぶつけてくるようなセックスだ。 けれどその荒々しいセックスも、幸には初めての体験で我を忘れるくらい快楽で満たされていく。 「っう・・はぁ・・ゆき・・ゆき」 「ふっ・・ぅん・・ぁっ・・もっと・・もっと!」 幸は無我夢中で基依の背中に爪を立ててしがみついた。 「大丈夫なのか、増田君」 下着だけを履き、基依が首筋を掻きながら聞く。 「うん。基依君と駅で別れた後に昔の友達に偶然会ったってことにしといたから」 幸はさっさと半袖のシャツに手を通すとプチプチとボタンをとめ始めた。 セックスした時間はものの三十分程度だ。 長時間帰ってこなかったから、増田にも明にも変に思われてしまうだろう。 さすがにこれくらいが限界だ。 「幸、淡白なんだなぁ。切り替え早」 そう言いつつも、基依もすでに部活着のハーフパンツを履き手には半袖Tシャツを持っている。 「明の怪我も心配だし。早く帰らないと」 「明の方の心配?増田君はいいのかよ」 「・・増田君はいい人だから」 「いい人ねぇ」 基依は何か含みのある言い方をすると、鼻と鼻がぶつかりそうな距離まで顔を近づけて笑った。 「幸、今日ってまだ発情期じゃないんだろ?」 「・・うん、でももうすぐ」 「へぇ」 「・・何?」 幸は上目遣いで基依を見つめる。 「今度、発情期の時やらせてよ。俺βだから大丈夫だろ」 「言い方最悪」 「別に幸が断るなら諦めるけど」 「・・・」 幸がどう返事するかわかって言っているのだろう。 それでいて決定権は幸にあるように仕向けてくる。 やはり食えないやつだ。 けれど・・ これからやってくるあの体の疼きを、もう一度あのセックスで体験してみたい。 きっと今までで感じていた物足りなさを、満たしてくれるのではないか・・ 初めて昴に触られた、あの日を超える快感を・・ ずっとずっと求めている。

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