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第12話
あの日、あの時間にあの場所を通ったのは偶然で。
見なければよかったのに。見ないふりだって出来たのに。
けれど、気がついてしまった以上それはダメだと思ったんだ。
ーー
「珍しいねぇ。どうしたの?」
幸は昴の部屋のソファに足を組んで座ると、上目遣いでじっと見つめてきた。
この部屋で、幸と二人きりになるのはいつぶりだろうか。
小学生の頃が最後かもしれない。
幸を襲ってしまったあの時から、昴はなるべく密室の空間で幸と二人になることを避けている。理性ではコントロールできない、あの恐ろしさを知ってしまっているからだ。
「幸に、話があって・・」
今日も本当なら部活がある日だ。
けれど、それよりも早く話さなくてはいけない。そう思い、昴は部活動を休み自分の部屋に幸を呼び出した。
「・・ねぇ、エアコンの設定少し上げていい?この部屋暑いよ」
そう言って幸は首元を手で仰ぐ。そこには昔昴が渡した空色の首輪がいつも通り付けられている。
首輪を渡したのは言うまでもない。
αから強制的に番にされないための、防御策のためだ。
そのαにはもちろん自分も含まれている。
幸を守ると約束したあの日から、自分自身から幸を守るためにも首輪はすぐに渡さなくてはいけないと思った。
これをプレゼントとした日、幸は複雑そうな顔をしていた。
喜ぶとも悲しむとも違う、何とも言えない表情だった。
「幸・・」
昴は手を伸ばすとそっとその首輪に触れる。
幸の肩がビクッと動き、大きな黒目が昴を見つめた。
「なに?本当に、どうしたの?」
幸は怪訝な面持ちで眉間に皺を寄せる。
しかし昴はそんな幸の方は見ず、自身の親指で首輪を少し上にずらす。
そして隙間から見える紅く染まった肌の一点を指でなぞり言った。
「この、痕は・・基依君がつけたもの?」
幸の右側の眉だけが微かに動く。眉間の皺は無くなったが、代わりに黒い瞳が妖美に光ったような気がした。
「・・どうして?なんでそう思うの?」
こちらが聞いているのに、幸は質問で返してくる。昔からそうだ。
こっちの出方をうかがっているのだ。
「・・見たから。昨日・・駅裏のホテルから幸と基依君が出てくるのを」
「・・・」
スゥッと幸が鼻で小さく息を吸う。
それから肩をすくめるようにして言った。
「昴、昨日部活だったんでしょ。なんで駅裏の方なんていたの?」
「体育館の設備点検で部活は昼前に終わったんだよ。久しぶりに時間できたし本屋にでも行こうかと思ってYタウン向かおうとしたら・・見えたから。駅からYタウンに繋がってる橋の上から・・幸、本当気をつけた方がいいよ」
ハァと小さくため息混じりに言うと、幸はムッとした顔で昴を睨みつける。
「ちょっと、説教混じりで言うのやめてよ。それに、俺普段はホテルなんか使わないから。今回は・・」
「今回は、基依君だったから、家に呼べないからホテルを使った?」
昴が被せるように言った。
「明にバレたらいけないから、だから普段なら使わないホテルに行ったってこと?それってなんで明にバレたらいけないかわかってるって事だよね?」
責めるような視線で幸を見つめる。しかし幸は怯む様子はなく、眉尻を下げて頭を振りながら言った。
「仕方ないじゃん。そういう流れにお互いなっちゃったんだもん。別に付き合うわけじゃないし」
「・・幸、なんで・・増田君はどうするの?あんなに幸のこと大切にしてくれてるのに」
昴が落胆したように言うと、幸はハァァと大きくため息をついた。
「増田君がいい人だってことは分かってるよ。でもいい人過ぎて合わないってこともあるでしょ。それだけじゃ無理なことだって。だって俺は・・」
幸はそこまで言って口を噤む。
それから自身の首の後ろに手を回しカチャリと首輪を外すと、射抜くような視線を昴に向けて言った。
「・・俺はΩだから・・」
露わになった首には無数の紅い痕がついている。
求められた欲が目に見えるようだ。
「周期を安定させたって、どんなに抑制剤を飲んだって身体が内から疼いてくる。それを1人でやり過ごすのがどれだけ苦しいか昴にわかる?」
「・・・」
ゴクリと昴は生唾を飲んだ。
わずかにだが甘い匂いが鼻先を掠めたからだ。
「今、ちょうど発情期なんだ。昨日が一番酷かったんだけど、基依君がヒート中の俺とやってみたいって言うから相手してもらった。ちょうどよかったんだよ」
幸は首元に触れながら微笑む。
「βなら安心して首輪も外してやれるしね。これ、結構窮屈なんだから」
そう言うと、幸は人差し指でクルクルと首輪を回してみせた。
「・・それでも、これを付けてあげてるの。昴がくれたから・・」
「・・・」
苦々しい面持ちで昴は空色の首輪を見つめる。
それは幸を守るためにあげたものだ。そして、自分への戒めでもある。
自分の性を忘れるなという・・
昴は手のひらを握りしめながら小さく口を開いた。
「・・・幸、俺が出来ることは?」
「え・・?」
「・・その、疼きを抑えるためだけなら基依君じゃなくてもいいだろ?例えば、俺でも・・」
「・・・」
まるで時間が止まったかのように幸は無言で目を見張る。
「幸が辛いなら、俺が番になる。そうすればわざわざ他の奴とやる必要もなくなるだろ」
「・・本気で言ってるの?」
「うん・・」
幸の表情は変わらないままだが、目元が少しずつ赤く滲んできている。
それから微かに唇を震わせながら言った。
「・・昴が、番になるの?俺の?今まで俺に絶対に触れようとしてこなかったくせに?」
「それは・・もう絶対に幸を傷つけちゃいけないと思ったから・・でも、幸が許してくれるなら・・」
「別に、俺は許してないなんて言ってないよ。昴が勝手に罪悪感を持っていただけじゃない・・俺はずっと言ってたよ?昴に守ってほしいって」
「・・・幸」
幸はそっと昴の頬に触れる。ひんやりとしていて冷たい手だ。
「俺と番になるってことは・・わかってるよね?」
「・・・」
「明は俺達とは違うんだよ。だから、明のことは忘れなくちゃいけない・・」
「・・わかってる・・」
昴は小さく頷くと、ゆっくりと幸の首筋に唇を這わす。
「・・っ」
ピクッと幸の身体が揺れた。
「抑制剤飲んでるから。匂い、そんなにキツくはないでしょ?」
「・・うん。でも、さっきよりは濃くなってきてるかも・・」
「・・そう・・」
幸の手に持っている首輪がカチャリと音を立てる。
「これ、やっぱりつける?」
「・・・」
昴は幸の肩に額を乗せて口を噤んだ。
首輪を外した状態で、発情期の幸と身体を重ねるとどうなるのか。
そんなことはよく考えなくてもわかっている。
まず間違いなく、あの白くて細い首筋に噛み付いてしまうだろう。
そして幸と番になる。
ー何を迷う必要があるのか。
今日はそのために幸を呼び出したのだ。
昨日、幸と基依がホテルから出てくるのを目撃してしまったあの時。
昴には同時に二つの思考が駆け巡った。
『明がこのことを知ってしまったら傷つく。なんとか幸と基依を離さなくては』
『明がこのことを知ったら悲しむ。けれどこれで基依への気持ちがなくなるかもしれない』
明が知ることで起こる二つの未来だ。
どちらを選べば良いか。
本心を言うのなら・・
後者になって欲しいと思った。
けれど、明の傷つく顔はこれ以上見たくない。
そのためにできること。
それは自分が幸と番になることだ。
今まで罪悪感を盾にして、あえて触れないようにしてきたことと向き合う時がきた。
「・・幸は、本当に俺でいい?」
昴は幸の肩に額を乗せたまま呟くように聞いた。
「わかってること聞くの、ずるくない?」
掠れた声で幸が答える。
「俺が・・ずっと望んでいたこと知ってたくせに・・待ってあげてたんだよ、昴が明への気持ちに区切りがつくのを」
「・・区切り?」
「そう、昴が諦めるのを。だって、明は昔から昴のことを『そういう意味で』好きじゃないってわかってたから」
「・・・」
その言葉に胸がチクリと痛む。
そんなこと、改めて言われなくても知っている。
振り向いて欲しくても、明が自分をそういう対象から外していることはわかっていた。
だって明は『幸と昴が番になること』を望んでいたから。
それでも明のそばにいたかった。
だから卑怯な手を使って明に触れて、少しでも彼の中に自分を残せたら、なんて思ったりもした。
幸を傷つけた汚い自分が明に触れるには、さらに汚い手を使うしかなくて。
でも、それももう終わってしまった。
昨日、明に『好き』だと伝えられて良かった。
本心は伝わらなくても『一番大切な存在』であることを伝えられたのだから、満足だ。
「・・うん。そうだな。区切りはついたよ・・」
昴はそう言うと、スルリと幸の服の中に手を入れる。そしてその手を背中に回すと撫でるようにそっと這わせた。
「ぅん・・」
幸がこそばゆそうな顔で片目を瞑る。
「幸、番になったら・・増田君とちゃんと話して一緒に謝ろう」
「え・・ふふ。昴も一緒に来てくれるの?」
クスっと幸が笑う。
「当たり前だろ。増田君は幸のことも俺のことも信用してくれていたんだから」
「・・そうだね」
増田の顔が浮かんだのだろうか。笑うのをやめ幸は声を落とした。
「それから・・基依君とも関係を切って・・」
「もちろんだよ・・明の好きな人だからね」
幸はそう言いながら両手を昴の背中に回して抱きつく。
「だから・・早く抱いて」
「っ!・・・」
幸のその言葉を合図に、昴は捕食するように幸の唇に自身の唇を重ね合わせる。
「ぅん・・ふっ・・」
幸もそれに応えるように口を開きながら、昴の背中に爪を立てた。
「・・はぁ、すば、る・・」
溢れるように自分の名前を呼ばれ、昴はさらに押し込むように自身の舌を幸の口内に入れる。
「・・ぅう・・ぁ」
「・・はぁ、ぅん・・」
背中に回していた手を前に持ってくると、昴は熱をもって膨らみ始めている幸のそこに触れた。
「あっ・・・」
幸はビクンと大きく肩を揺らしながらも、はむように昴の唇を求め続ける。
それから衣服をずらし幸の火照ったそこを直接なぞると、優しく包み込むようにして握った。
少しの刺激でも感じるのか、昴が少し扱うだけでも幸の口から小さな喘声が漏れる。
「ぁ・・昴、ぅう・・ぁ」
幸は声を押し殺すように昴の肩に顔を押し当てながら、小刻みに肩を震わす。
色んな人と身体を重ねているはずなのに、その反応は初めて経験していると思わせるくらい甘くていじらしい。
鼻を掠める甘い匂いはまるで催淫剤のようで、頭がクラクラとしてくる。
なるべく理性を保っていたいのに・・
けれどこれが、αとΩの性なのだろう。
理性を超えて、本能で貪るように繋がろうとしていく。
「昴、俺もここ触ってあげる・・」
幸はそう言うと、昴のパンツのジッパーを下ろし熱くなっている屹立に触れる。
「・・ぅん・・」その刺激を我慢するかのように昴は目を瞑った。
「ふふ、一緒に触ろ」
幸は悪戯っ子のように笑うと、自身のものと昴のものを擦り合わせていく。
濡れた音が重なり、その音に合わせて昴の身体もゾクゾクと震えた。
「・・まって、幸。このままじゃいっちゃうから・・」
昴はそう言うとゆっくりと幸をソファに押し倒す。
幸はコロンとソファに寝そべると、蕩けたような瞳で昴を見つめて言った。
「・・昴、このままここでする?」
「・・え」
「ソファ、汚れちゃわない?」
「・・っ・・」
その言葉に思わず昴は息をのむ。
幸と身体を重ねているのに、思い出してしまったからだ。
ここは、このソファは明を抱いた場所だ・・
「・・昴?」
視線を横に向け黙り込む昴の腕に幸はそっと触れた。
「どうしたの?」
「・・・」
昴が気まずそうな顔をするので、幸も眉を顰める。
「ねぇ?昴・・」
「幸、あっちのベッドでやろう・・」
「え・・」
「ソファじゃなくて、ベッドで・・」
昴はそう言いながら幸の腕を軽く引っぱる。しかし幸は抵抗するように腕に力を入れると射るような眼差しで聞いた。
「なんで?」
「・・なんでって・・ここは、狭いし・・」
「別に良いけど?広いベッドでやるより興奮しない?」
「・・でも!」
咄嗟に大きな声が出てしまい、昴は慌てて自分の手で口を塞ぐ。
「・・・なに?」
先ほどよりもさらに幸は冷ややかな視線をぶつけてきた。
「このソファじゃダメな理由があるの?ちゃんと理由を言ってよ」
「・・・」
「・・黙るの?なんで・・」
幸はそこまで言うと、ハッとした顔で目を丸くさせて昴を見つめた。
「・・もしかして、やったとか?ここで、明と・・」
「・・・」
昴はゴクリと大きく生唾を飲み込む。
何か言わなくてはと口を開いたが、瞬時に取り繕う言葉が出てこない。これではその無言の反応が幸の質問を肯定してしまっているようなものだ。
幸の表情がみるみる険しくなっていく。先ほどまで蕩けるような顔をしていたのが嘘のようだ。
「・・そう、なんだ・・昴、明を抱いたんだ・・」
幸は昴を睨みつけながらも、身体から力が抜けたように背中を丸めた。
「ゆ、幸・・その・・」
口元を震えさせながら昴が声を発する。しかしやはり言葉が出て来ない。
そんな昴の声など聞こえていないのか、幸は勢いよく立ち上がると乱れていた衣服を直し始めた。
「幸・・?」
「家、帰る。明とも話したいし・・」
「え・・」
幸は床に投げていたスマホを手に取ると、部屋のドアノブに手をかけた。
「まっ、待って・・」
昴も慌てて立ち上がると、幸の細い手首を掴む。
「明と・・何を話すの?」
「・・・俺、昨日聞いたんだ、明に」
「聞いた?」
「俺に何か秘密はあるかって。明はあるって言ってた。それがきっと・・昴とのことだったんだね」
「・・・」
「明の秘密にしてたことを知っちゃったんだから・・だったら俺の秘密も言わないと。フェアじゃないでしょ?」
幸はそう言うと、掴まれていた昴の手を払いドアを開けて部屋を出ていく。
幸が『秘密』を明に話す?
なんの、どの秘密をだ・・
幸の階段を降りる音を聞き、昴も後を追いかける。
「幸、待って。ちゃんと俺の話を聞いて」
「いい。俺は明と話がしたいの」
「・・・でも」
「俺は、明のこと信じてたんだよ。明は『そう』じゃないって。でも違ったみたいだから・・ちゃんと明が何を考えているのか聞きたいし」
幸は素早く靴を履くとそのままの勢いで玄関を開けて外に出る。
力づくで止めようと思えば出来るだろうが、幸にはそれをしてはいけないと身体が拒否反応を示している。
仕方なく胸に石が詰まるような息苦しさを感じながら、昴は幸の後をついて行った。
「明いる?」
幸は自身の家の玄関を開けると、中に呼びかけるように言った。昴はその様子を後ろからうかがう。
ーどうか外出していてくれ・・・
しかしその願望はすぐに打ち砕かれ「おー?」と気怠そうな返事が上の階から聞こえてきた。
幸と昴が階段を上がり、明の部屋を覗くと明はベッドに寝転んでスマホをいじっていた。
それからこちらの方に目をやり、昴がいることに驚いたのか勢いよく起き上がる。
「え?昴も一緒?どうしたの二人で・・」
そこまで言って、明の視線がピタリと一ヶ所に留まった。
「・・幸、首輪は?」
首輪を外した状態でそのまま飛び出してきたので、幸の首元が露わになっている。
それを見て明は誤解したのか幸と昴、交互の顔を見つめた。
「え・・何?幸出かけるって言ってたけど昴のところ行ってたってこと?えっと・・ちょっ、ちょっと待って。ちゃんと順番に説明して」
明は両手を前に出して、困ったような顔をして笑った。
おそらく良い話なのか悪い話なのか、どちらの反応をすれば良いのか迷っているのだろう。
そんな明を見ながら、幸が一歩部屋に入る。
そして冷静な声で言った。
「俺じゃなくて、明に説明してもらいたいな」
「・・へ?俺?」
訳がわからないと言った顔で明が首を傾げる。
「そう。明と、昴のこと」
その言葉を聞いて、明の顔からさっと血の気が引くのがわかった。
それから困惑した視線を昴に向ける。
「・・聞いたの?昴から・・」
「聞いたっていうか、気づいたんだよ」
「・・・気づいた?」
明の声は震えている。まるで幸を恐れているようだ。
「・・・明は、昴が好きだったの?」
「・・え」
「だって、昴とセックスしたんでしょ?」
「・・・」
明は目を見開いたまま視線を下に落とす。
おそらく頭の中でどう答えるべきか考えを巡らせているのだろう。
自分の欲望のせいで明を巻き込み、そして今追い詰めてしまっている・・
これ以上明を苦しませてはいけない。幸の視線をこちらに向けさせなくては・・
昴は掌をキツく握るとゆっくりと口を開いた。
「違う。明は、俺が好きなわけじゃない。俺が・・無理やりやったんだ」
昴の言葉で明が上を向く。横の幸は睨みつけるような冷ややかな視線でこちらを一瞥した。特に驚いた様子はない。
「俺が『代わり』だって言って明に手を出した。明はそれに応えてくれただけで・・」
「代わり?」
幸の眉がピクリと動く。
「代わりって、何それ・・」
「まって!昴が悪いわけじゃないから!」
幸を止めるように明が大声で割って入った。
「俺もその方がいいなって思ったんだ。昴が抑えられなくて、その・・幸を襲っちゃうくらいなら俺が代わりになればいいって。だから昴が一方的に悪いわけじゃないよ」
「・・・明が、俺の代わり?」
「そう・・あっ、俺なんかが幸の代わりなるとは思ってないけど・・」
幸の冷ややかな視線をどう捉えたのか、明は急に謙遜した言葉を選ぶ。
「あの時は、そういう空気になっちゃったけど・・でも昴の気持ちはもちろん幸に・・」
「もういいよ」
「え・・・」
幸の凛とした声が響き明はピタリと口を閉じた。
「わかったよ。昴が俺を利用して明を言いくるめたってことが」
「え・・言いくるめるって・・?」
明が困ったような顔で幸を見つめる。
その幸は先ほどと変わらない冷たい視線をこちらにぶつけてきた。
その瞳が白状しろと、訴えかけてくる。
昴は握った両手に汗が滲むのを感じながら、ゆっくりと明の方に目をやった。
「ごめん、明。俺は明に嘘ついてた・・」
「・・う、嘘?」
「幸の代わりをしてほしいなんて嘘。ただ、俺が明に触りたかっただけ」
「・・・」
昴の言葉の意味が全く理解できていないのだろう。明はただポカンと口を開けて目をパチパチとさせている。
「俺が好きなのは明だから。でも明が俺を好きじゃないことはわかってた。だから・・」
「・・え?」
「俺は・・明に嘘をついて・・」
「・・それで・・代わりって言ったってこと?」
明の声は震えている。
「・・そんなの、信じられない・・じゃぁ今まではなんだったの?だって昴はあんなに幸を大切にしてたじゃん?幸のことを一番に考えてたじゃん?それはなんで・・」
「それは、昴は俺に償わなきゃいけないことがあったからだよ・・」
幸が二人の会話を割くように冷静な声で言った。
「え・・・」
「・・・」
昴の心臓の鼓動が急に速くなる。額からはジワリと脂汗が浮かんだ。
幸が今から何を言おうとしているのかわかっている。
止めたい・・けれどそれは、無理な話だ・・
幸は落ち着いた口調のまま続ける。
「前に・・一度だけ俺は昴に襲われかけたことがある。まだ性別検査をする前で自分がΩかどうかもハッキリわからなかった時に」
「・・・」
時間が止まったかのように目を見開いたまま明の動きがピタリと固まった。
まるで身体が硬直してしまったようだ。
「その時に昴と約束したんだよ。俺を他のαから守ってって。だから昴は俺のそばにいるの」
「・・・」
「昴は俺を守ることで自分の罪を償っているんだよ」
「・・そんな・・」
明の口元だけが少し動いた。
「・・・そんなの、知らなかった・・」
「そりゃ、二人だけの秘密だったから。ね、昴」
幸は同意を求めるように昴に視線を送る。
昴は小さく頷くと俯いたまま言った。
「・・明には知られちゃいけないと思った。明に軽蔑されると思ったから・・だから・・」
「・・でも、それはαとかΩの本能のせいで起こったことだろ?言ってくれたら、俺は別に・・」
「本能?別に?」
普段よりも低い幸の声が明の言葉を切る様に遮った。
「本能だから仕方ないって?だから傷つかないとでも思ってるの?」
「・・・そ、それは・・」
「身体は傷つくし、それに・・心はもっと痛かった。あんな屈辱的な思いはないよ。それは昴もわかってる。だから昴は俺のそばにいたんだよ。仕方ないでは片付けられない。βの明には分からないだろうけどね」
「・・・」
淡々と幸に責められ、明は苦しそうな顔で俯く。
「でもね、第二次性の本能がどれだけ怖いことか、俺はわかってるから昴を許したんだ。自分の意思とは別に身体が相手を求め始める。止めたくても止められなくて苦しい。すごく怖いことだよ。それを俺も昴も抱えて生きてる。何も問題がない明とは違うんだよ」
抑圧なく話しているように見えたが、幸の瞳の縁が少し赤くなってきている。
「これだって、そうだよ」
幸はそう言って自身の首元にそっと触れた。
赤い痕が点々とついている。
「これ、誰がつけたかわかる?」
「え・・・」
質問され明は首を傾げる。
それからチラリと昴の方を見た。
「・・昴じゃないの?」
その瞬間、昴はとっさに幸の肩を引っ張って叫んだ。
「幸!ダメだよ!」
幸は顔を顰めるとジロリと昴を睨みながら言った。
「なんで?明も秘密を言ってくれたんだから俺も言わなきゃフェアじゃないでしょ」
「それとこれとは違う。明が秘密にしてたことは俺とのことでしょ。俺に関する秘密なら幸だってもう言ったんだから・・」
「なに?何なの?」
幸と昴のやり取りを見て明が不安そうな顔を向ける。
「・・首の痕、昴がつけたんじゃないの?あ、そうか、えっと・・増田くんか!?ごめん、俺間違えた。幸が増田君と結ばれたってこと・・」
「違うよ。これは増田君がつけた痕じゃない。増田君とはまだ寝てないよ」
「・・・え」
「これは基依君がつけた痕。昨日、基依君とセックスしたから」
「・・・」
明が小さく息を呑んだのがわかった。
驚きとも絶望とも取れない複雑な表情をしている。
幸はそんな明を見つめながら話を続けた。
「昨日が一番ヒートが酷かったんだ。そうなると人の体温を求めるみたいに誰かに触って欲しくなる。それで基依君とセックスしたんだよ。基依君もΩとやってみたかったみたいだし」
「・・・」
「ヒートになるとね、身体が疼いて理性が保てない。誰でもいいから触って欲しいと思ってしまう。例えばそれが弟の好きな人だったとしても・・」
「・・う、嘘だ・・そんなの・・」
明はボソっと震える唇で呟く。
「幸と・・基依が・・そんな、そんなの・・嫌だ・・」
「しょうがないんだよ、明。それがΩやαの本能ってことだから。さっき明だって言ったじゃない」
「・・・っ!」
明は悔しそうな顔で幸を見据える。
「結局ね、αとΩじゃ仲良しの幼馴染ではいられないんだよ。そんなもの本能の前では簡単に崩れてしまう。もうとっくに俺と昴はただの幼馴染じゃなかったんだ。まぁ、明と昴もそうじゃなくなってたみたいだけど」
「・・・俺には・・」
唇を噛みながら明は幸と昴を交互に見る。
「俺には・・幸と昴にはお互いしかいないように見えた。だから・・今までの仲の良い幼馴染の延長線上で結ばれたらいいなって・・」
「そんなのは、明の勝手な理想だよ」
「・・・」
「もうとっくに崩壊してた。ごめんね」
「・・っ!」
明は手のひらをキツく握ると、そのまま幸と昴の横をすり抜けて部屋を飛び出して行く。
「・・っ!明!」
昴は咄嗟に明の名前を呼んだ。
しかし明が止まることはなく、勢いよく階段を降りていく音の後そのまま玄関がガチャンと閉まる音が聞こえた。
「・・・」
「・・幸」
昴は黙ったまま立っている幸に声をかける。幸はチラリと昴の方に目をやると口を尖らせて言った。
「追いかけたいんでしょ、明を」
「・・・」
「昴が俺を襲ったことを知って明はどう思ったかな」
「・・どう、思われててもいい。俺はそれを受け入れなきゃいけないから・・」
「・・・そう」
「・・幸、なんで全部言ってしまったの?」
「一つでも・・嘘や秘密があるとどんどん絡まりが大きくなっていくでしょ。明がとんでもない勘違いをしていたように。だから一度その絡まりを解そうと思ったんだよ」
「・・絡まり・・」
「俺は、明のこと大切で大好きな弟だと思ってる。でも、それでも狡いと妬ましく思う瞬間はたくさんある」
「・・・」
昴が黙っていると、幸は小さくため息をついて昴の胸をトンと押した。
「早く行ってくれる?俺、今昴といたくないんだ」
「幸・・」
「早く家から出てってよ」
「・・・」
昴はゆっくりと幸に背を向けると、扉から部屋の外に出る。しかし一度振り返り幸に目をやった。
「幸・・」
「・・・」
「あの、約束を・・」
「いい。その話は、明と話した後にしてくれる?」
「・・・」
昴は小さく首を縦に振ると、そのまま階段を降りていった。
それから靴を履き急いで外に飛び出す。
すでに明の姿はない。
どこに行ったのだろう。
居場所の見当はつかないが、昴は走り出した。
早く謝らなくては・・彼が守ろうとしていたものを壊したこと、それから騙していたことを。そして伝えるんだ。
そうしてしまった自分の本心を。
言うのならこのタイミングしかない。
全てが壊れてしまった今、このタイミングしか・・
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