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第7話 狡くていい

 季節はあっという間に過ぎて、八月も中旬になった。  とはいえ、地下で仕事をしている円にとって季節など感じはしないが。外から帰ってくる智颯が持ってくる匂いを感じる程度だ。  最近まで智颯が纏っていた雨の匂いが消えたから、梅雨は開けたんだろう。  今年は梅雨入りも梅雨明けも遅かったな、などと考える。  三重の扉を潜って、智颯が顔を出した。  その表情は心なしか、浮かないように見える。 「怪異対策担当のフロアに寄ってたら、遅くなった」  それだけ言って、智颯は黙々と作業を始めた。  智颯が呪法解析室で助手を始めてから、四ヶ月近くが過ぎた。今では簡単なプログラミング程度なら任せられる。  今日は仕入れた呪術の解体をお願いしている。  資料に目を落とす智颯は、どこか虚ろだ。読んでいるページも全く進まない。 「智颯君、何か、あった?」  肩に手を掛けて後ろから覗き込むと、目の下が落ち窪んでクマができていた。 (綺麗な顔が陰ってる。明らかに何かあった顔でしかないんだけど)  のっそりと顔を上げた智颯が、円をぼんやりと眺めた。 「直桜様が13課に所属したんだ。まだアルバイトだけど、きっとそのうちに正職員になると思う」  いつものハキハキした話し声はどこかにいってしまっていた。  まるで寝起きのような話し声で、夢の中の出来事のように語る。  しかし、まったく嬉しそうには見えない。どんよりした重い空気が智颯を取り巻いている。 「嬉しくなさそう、だね。直桜様に、13課に来てほしかった、んじゃないの?」 「……バディが。直桜様は、他の人とバディを組んでて」  それはいるだろうな、と思った。  13課は基本、二人一組で仕事をする。統括などの特殊な立場でない限り例外はない。智颯が円のことろに助手に来ているのは、そういう意味合いもある。  解析室は自然、機密事項が多く集まるので、誰でも円のバディになれるわけではない。しかし、一人にも出来ないという理由での、智颯の兼任だ。  とはいえ、直桜様とバディを組みたがっていた智颯にとっては、がっかりな状況なのだろう。それにしては、へこみ過ぎな気もするが。 「正式な、契約でもしない限り、バディはいつでも、解消、できるよ?」  所属部署や担当する任務にもよるが、バディを組むのも解消するのも、割と自由だ。しかも、直桜様が現在アルバイトなら、正職員に上がる時にあわせてバディ希望を出せばいい。そこまで気に病む状況でもない。 「…………その、バディの人と。恋人でも、あるらしい」  智颯とは思えないほど小さな声で話した。  なるほどな、という言葉しか出てこなかった。 (うわぁ……。そりゃ、へこむよな。世界中の不幸、全部かき集めてきたみたいな雰囲気にもなるわ)  長年想い続けてきた大好きな兄様を、どこの馬の骨とも知れない相手に持っていかれたのでは、納得も出来ないだろう。  自分では直桜様に選んでもらえないと話していたとはいえ、こういう形で初恋が終わるのは、消化不良だし辛いだろうと思う。 「そう、なんだね。相手って、どんな人か、知ってるの?」  バディを組んでいる以上、13課の職員なのだろう。円も全員を把握している訳ではないが、名前を聞けばわかるかもしれない。 「化野、護っていう、小倉山の、鬼」  ぽつりぽつりと零す智颯の言葉が、少しだけ引っ掛かった。 「へぇ、化野さん、か。良い人だよね。直桜様、見る目、あるね」  思った以上に身近な職員で驚いた。  化野護には、引きこもる前にお世話になった経緯があるので、円としては良い印象の相手だ。加えて化野護が霊・怨霊担当部署で、窮屈な立場を強いられてきたのも多少知っている。  だからこそ、思わず素直な感想が口を吐いて出てしまった。 「円は化野さんを知ってるんだな。僕はまだ、会ったことがないんだ」  それはそうだろうな、と思う。  智颯が所属する怪異対策担当と霊・怨霊担当は普段からあまり接点がない。 (あ、でも化野さん、怪異対策担当に助っ人に入ってたはずだけど。あれは智颯君が13課に来る前の話か)  まだ人員が足りなかった頃に、化野護は一時、怪異対策担当でバディがいないスタッフの援助に入っていた。 (化野さんの能力考えたら、霊・怨霊担当より絶対に向いてると思ったんだよね。何で移動しないんだろうって思ってた)  円の解析能力的にも、一般的な見立て的にも、化野護は戦闘特化部署の方が向いている。恐らく須能忍や統括の藤埜清人も考え得るところだと思うのだが。 「小倉山の鬼を、桜谷集落の人間は穢れと呼ぶんだ。特に直桜様のような高位の惟神を近づかせたりはしない」  智颯が俯きがちに語る。  ソファの後ろ側に立っている円からは、智颯の表情が見えない。 「でも直桜様は、その鬼を選んだ。律姉様も化野さんが相手なら安心て話してた」  律姉様とは、怪異対策担当統括の水瀬律のことだろう。  化野護には散々世話になっているはずだし、その為人も良く知っているはずだから、律の評価は疑うべくもない。  同じ集落の惟神の大先輩である律の言葉は、智颯にも強く響いたに違いない。 「円も、化野さんを良い人だって、話しただろ。きっと良い人なんだ。鬼とか穢れとか因習でしかない。為人には関係ない。なのに、僕は。僕は……、どうしても、納得、できなくて。僕は、嫌な奴だな」  頭では理解しているのだろう。  狭い集落の忌むべき因習が無意味である事実も、自分が化野護に嫉妬している心境も。皆が化野護を評価すればするほど、智颯の中のモヤモヤは大きくなるに違いない。 (俺も手放しで褒めちゃったしな。まぁ、素直な感想なんだけど)  草である円に化野護を蔑む気持ちなど塵ほどもない。むしろ草の方が、世の中の汚れ仕事を請け負う社会の穢れだと思っている。鬼よりよっぽど汚い。  しかし、部署や相手によっては、化野護を今の智颯と同じように嫌悪する。鬼は穢れであり、祓うべき妖怪だ。  特に霊・怨霊担当に多い浄化師や清祓師の家系は、家柄が良いほど鬼を忌み嫌う傾向が強い。  集落の常識の中で育ってきた智颯が鬼を穢れと感じるのは当然で、責められる感覚ではない。まして鬼《穢れ》が集落最高位の惟神《清浄》の恋人に収まったとなれば、そう簡単に納得できるものでもないだろう。    円は手を伸ばして、後ろから智颯の肩を抱いた。 「別にいいんじゃないの? 嫌な人で。無理して良い人になる必要、ないでしょ」  智颯の下がっていた肩が更に下がった。 「もし智颯君に恋人ができたら、俺、今の智颯君よりもっと嫌な人になると思う」  智颯の肩が震えている。  涙を堪えているんだろう。  泣いている所は見られたくないだろうと、円は腕を解いて体を離そうとした。  離れそうになった円の腕を、智颯の手が強く引き留めた。 「こんな時ばかり流暢に話す円は、狡い」  声が震えて、透明な雫がポロポロと落ちたのが見えた。 「そういえば、そうだね。最近、智颯君とだと、普通に話せる。智颯君がずっと傍にいてくれるお陰」  円の腕を摑まえる智颯の手に力が入った。 「円はいつも、そうやって、僕を甘やかして、普通でしかない僕を、特別みたいに扱うから、勘違いしそうになる」  何を言っているのだろうと、いつもとは違う意味で耳を疑った。 (俺にとっては充分特別だし、こう言っちゃなんだけど顔面偏差値高レベルのスパダリですよ、君は!)  とは思うものの、智颯は本気で自分を普通だと感じているのかもしれない。  四カ月近く、一緒にいて感じる。智颯のしている努力は自分を高めるためには違いないが、どこか必死で悲壮感すらある。 (周りが天才ばっかりで、努力するしかなかったのかもな)  その最たるが直桜様なのだろう。  憧れの大好きな直桜様に近付くためには、悲しくなるほど必死に努力しなければ手が届かないのかもしれない。  円は智颯の顎に指を添えた。  無防備な泣き顔が円に向く。 (やっべ、泣いてる顔も可愛い。泣かせたのが俺じゃないのが悔しいレベル)  涙を舌で掬いとる。  そのまま唇に、ふわりと口付けた。  智颯が、ぐっと顔を背けた。 「今は、ダメだ。キスはしない」  眼鏡を外して涙を拭いながら、智颯が円の腕を離れた。 「俺、今日も仕事し過ぎないで頑張ったから、御褒美欲しいな」  やんわりと肩を抱き直して、顔を近づける。  智颯はやっぱり顔を背けた。 「今日は、僕が円に癒されてしまうから、ダメだ。円の気持ちを知ってるのに、今の僕が、円にキスしてもらうのは、狡いだろ」  パチクリ、と円は瞬きをした。 (今の台詞、本当は俺とキスしたいって自分から言っちゃってるって、気付いてないのかな)  抱く腕に力を込めて、逃げられないよう、やんわり拘束する。 「狡くていいよ。俺は嬉しいもん。いっぱい、癒されてよ。ついでに智颯君が絆されて俺を好きになってくれたら、俺得だからさ」  唇を寄せる。  智颯は、避けなかった。 「流暢に話す円は、狡い。ただでさえ、いつも可愛いのに、格好良く見える」 「顔が良いのは生まれつきだもん」  自分の顔が一定以上の評価を受けるのは、知っている。  しかし、それは只の生まれ持った特性でしかない。花笑の家が仕事のために狙って残してきた遺伝子だ。円にとっては何の感慨もない事実に過ぎない。 「そうじゃない。顔がどう、とかじゃなくて。円が円だから、傍に、いてほしくなる。でも、そんなの……」  円の腕の中で俯く智颯を凝視する。  照れた耳が赤くて、恥ずかしさで肩が震えている。智颯の方がよっぽど可愛い。 (智颯君はちゃんと俺を見てくれる。俺を覚えてくれる。俺がそれをどれだけ嬉しいって思ってるのか、この子、全然気が付いてない)  ごくごく自然に円に寄り添ってくれる智颯が嬉しくて、愛おしくて仕方ない。智颯の気持ちが他の誰かに向いていても、構わないくらいに。 「狡くていいって言ってるでしょ。これは俺への御褒美でしょ。だからさ、こっち向いてよ、智颯君」  智颯が顔を上げて、円に向き合った。  涙で潤んだ瞳も、腫れて赤い瞼も、紅潮した頬も、総てが愛おしい。 (マジで最高、推しが可愛くて今日も幸せ。俺とちゅぅして癒されちゃう智颯君めっちゃ可愛い)    唇を重ねても抵抗しない智颯を強く抱く。  手を握って、その熱を確かめる。  せめて唇が重なっている間くらいは、辛い気持ちも嫌な自分も全部忘れてくれたらいい。その間くらいは、智颯の気持ちが自分に向いてくれたらいいと、ほんの少しだけ考えた。

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