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第8話 甘いココア
九月に入った頃から、キナ臭い雲が増え続けている。
地下に住んでいる円は滅多に部屋を出ない。そんな円が珍しく外に出て、空を見上げていた。
「智颯君、大丈夫かなぁ」
ぽつりと零す。
智颯は今日、怪異対策担当の仕事で朝から出掛けている。
最近頻発している爆破事件で蔓延した呪術と妖気が雲に蓄積し、呪いの雨が降るとの予測が入った。
久々に13課に戻った生きる伝説・霧咲紗月からの上申というのもあって、動ける惟神が全員召集されたらしい。
十月から正式採用が決まった最強の惟神・瀬田直桜と化野護も勿論、参加する。
智颯は護に会うのが初めてだ。
今日は現場に出向く前にわざわざ呪法解析室まで来て、円の手を握ってから出掛けて行った。
(手、めちゃめちゃ冷たかったんだよね。相当、緊張してるんだろうな)
何となく、円はスマホを取り出した。
円にしては、そこそこ長いメッセージを打って送信する。
「余計なお世話かもだけど、何も知らないよりはマシでしょ」
メッセージの送信相手は化野護だ。
(智颯君がこれ以上、辛い思いしないと、良いんだけどな)
どんよりと重い雲を見上げて息を吐くと、円はまた地下に潜った。
〇●〇●〇
午後になったが、円にとっては変わり映えしない時間が流れる。
新しい呪術の解析フォーマットを作って一息ついていると、解析室の扉が開く気配がした。
(雲の浄化、終わったのかな。智颯君、だけじゃなさそう。誰か一緒に来た?)
まさかの直桜様の可能性もある。
円は無駄に緊張して、扉から入ってくる人を凝視していた。
「マジで重装備すぎない? 霊気でも弾かれるとかヤバいね~」
聞き慣れない女子の声がする。
入ってきた智颯が、そそくさと円に近付いた。
「すまない、円。妹がどうしても来たいって聞かなくて。一応、律姉様の許可は取ったから、問題ないと思うんだけど」
智颯が円を見下ろす。
統括クラスの許可を取った上で扉に弾かれないなら、この部屋に入ること自体は問題がない。
智颯が問題にしているのは、円だろう。
「あぁ、うん。えっと、見学?」
智颯の妹が何を目的に呪法解析室に来たのかが、円にとっては問題だった。
「いや、それが」
「どーも、ちぃがお世話になってまーっす」
智颯の後ろから、所謂その辺にいそうな女子高生がひょっこり顔を出した。
(顔、似てないようで似てる。二卵性双生児だろうに。性格は全く似てないな)
円の解析能力が早くも始動した。
「ちぃの双子の妹のぉ、峪口 瑞悠 で~す。呪法解析室って初めて来たけど、広いんだねぇ。このディスプレイの裏に呪物を入れる場所とかあるの? 監獄感がガチすぎてヤバくない? ここに住んでんの?」
一気に捲し立てられて、思わず仰け反った。
「えっと、うん」
何にどう返事をしていいかわからなくて、言葉も出ない。
「みぃ、一気に話すな。円はあんまり人と話すのに慣れてないから、質問は一個ずつしてやってくれ」
「はぁい。じゃぁ、名前教えて」
ぷぅと頬を膨らませた瑞悠が、円に向き合った。
「呪法解析担当の、花笑、円。諜報も兼任してる、草、だよ」
「円 ちゃん!」
突然ちゃん付けで呼ばれた挙句に指をさされた。
「こら、他人を指さすんじゃありません」
智颯が瑞悠の指を握って、ぐっと引き下げる。
そんな智颯を瑞悠がカラカラと笑っている。
「ちぃ、うるさ~い。ねぇ、みぃ、喉乾いたんだけど。アイスココア飲みた~い」
「アイスココア? また面倒なリクエストを」
「ココアの粉、キッチンにあるよ。甘くないヤツだけど」
立ち上がろうとした円を、瑞悠が制した。
「みぃ、円ちゃんとお話ししてるから、ちぃが作ってきて~。めっちゃ甘くしてねぇ」
「仕方ないな。円、大丈夫か?」
心配そうな顔の智颯に、とりあえず頷く。
「話したくなことは、話さなくていいからな。みぃも、円を困らせるなよ」
「わかってるってぇ」
キッチンに向かう智颯に瑞悠が手を振る。
円はとても心細い心境でその背中を見送った。
「ねぇ、化野さんに何て言ったの?」
瑞悠がパーソナルスペースを完全に無視した距離感で円に顔を近づけた。
逃げようにも椅子の背もたれが邪魔して下がれない。
椅子ごと動かそうにも、瑞悠の足が挟まって、邪魔している。
(この子、わざと俺を追い詰めてる。一体、何なの)
瑞悠の目が悪戯に笑む。
瞳の奥には強い好奇心と探るような色、少しの恫喝が滲んで見える。
「何って、智颯君のことを、少し伝えただけ、だけど。何か、言ってた?」
円としては、無駄な衝突を避けるための情報提供でしかない。
双子の妹に追い詰められるような内容のメッセージを送ったつもりはない。
「何にも。ていぅかぁ、みぃ、化野さんとほとんど話してないしぃ。ずっと、ちぃと話してたよ」
「智颯君と? 化野さんが? 何を話すの?」
もしかしたら一番、最悪の状況になってしまったのだろうか。
直桜様大好きの智颯と直桜の恋人である護がサシで話して平和である訳がない。
「よくわかんないけどぉ、仲良くなってたよ」
「へ? 化野さんと、智颯君、が?」
円の素っ頓狂な声に、瑞悠が普通に頷いた。
「そそ。だからぁ、円ちゃんが何かしたのかなぁって。化野さんが円ちゃんの名前、出してたしぃ」
とても安心した。
とりあえず、護と智颯の衝突は回避できたらしい。
「そっか、良かった。平和に、話し、できたんだ」
安心する円を、瑞悠がじっと見詰めている。
円は、そっと瑞悠に視線を戻した。
「俺は、何も、してないよ。ただ、化野さんとも、智颯君とも、知り合い、だから」
仲良くなってほしいとまでは思わないが、いがみ合わないでほしい。
何より、智颯が傷付かなければいいと思っただけだ。
瑞悠がニンマリと満面の笑みを浮かべた。
「円ちゃんて、ちぃが好きなんだねぇ」
ドキリとして、顔を上げる。
慌てる円を眺めて、瑞悠が椅子に掛けていた足を外した。
「好きって、いうか、手伝ってもらって、お世話になってるから、たまには、お返し」
「隠さなくていーのにぃ。ちぃも円ちゃんが好きだよ、きっと」
またビックリ発言が飛び出して、瑞悠の顔を二度見した。
「呪法解析室に通い始めてぇ、ちぃ、ちょっと変わったんだよねぇ。直桜様至上主義じゃなくなったっていうかぁ、好きは好きなんだけどぉ、ちょっと違うの」
人差し指を顎に当てて、瑞悠が考えながら話している。
(この子、馬鹿っぽい話し方してるけど、全然馬鹿じゃないな。本当はもっと色々わかってて、敢えて情報を小出しにしてる)
制服も智颯と同じ学校のものだ。
洞察力や思考力だけじゃなく、学力も高いらしい。
よく観察すれば、流れる霊気と神気も滑らかだ。あまりに自然で気が付かなかったが、良く練られている。普段からこの状態を維持できるのは並じゃない。
(能力は智颯君以上かもな。智颯君の一番身近な天才は、妹か)
瑞悠が円に目を向けた。
「円ちゃんてさぁ、能力高い人だよねぇ。意識してないかもだけどぉ。それとも、隠してる?」
「君に、言われたく、ないよ。隠してる、のは、君だろ。俺は、そんなに、優秀じゃない」
「やっぱ、無自覚かぁ。ちぃに似てて可愛いかも」
目を逸らした円の視線を追いかけて、瑞悠がにじり寄った。
「ダメなヤツだったら排除しようと思ったんだぁ。みぃはねぇ、ちゃんとちぃを想ってくれる優秀な術者しか、ちぃのバディとして認めないから」
ニンマリと笑んだ目が円を見詰める。
瞳の奥には、どす黒い愛がチラ見えする。
(まさかの超絶ブラコン⁉ この子、智颯君のこと兄妹以上の愛情で想ってない⁉)
先ほどと同じように顎に指をあてて、瑞悠がまた何かを考え出した。
「円ちゃんはギリセーフかなぁ。ちぃを想って動いてくれるし、ちぃも好きみたいだしぃ。もうちょっと強かったら、文句なかったのになぁ」
瑞悠が、ちらりと円を眺める。
その視線が、もう怖い。
「あの、さ。なんで、そういう、話し方、してるの? 不自由、じゃない?」
妙に間延びした語尾も、言葉のチョイスも、わざとやっているようにしか思えない。本来の瑞悠は恐らく、こういう話し方をしないんじゃないかと思った。
「だってさぁ、馬鹿な振りしてた方が世の中って生きやすくない? 初見の人が私に対してさぁ、どんな態度とるかでその人の程度がすぐわかるし、便利だよぉ」
可愛い顔が怖いことを言った。
馬鹿でないことは確定した。
(智颯君はあんなにピュアなのに、何で妹はこんなに闇に塗れてんの? 怖すぎなんだけど)
思わず俯く円を、瑞悠が覗きこむ。
「円ちゃんは頭のいい人だってすぐにわかったぁ。解析の霊能だけじゃなくってぇ。だから私も、ちぃと同じで円ちゃん、好きだよぉ」
「えっ?」
瑞悠の言う好きの意味が分からな過ぎて、震える。
「ちぃが信じた人は、あんまり疑わないんだぁ。でも、ちぃの害になりそうなら排除するって決めてるからぁ、気を付けてね」
ニコリと小首を傾げられて、頷くことしかできなかった。
「みぃ、ガムシロ何個入れる? どれくらい甘いのがいいんだ? いつもより甘めがいい?」
三人分のアイスココアを持って、智颯がキッチンから戻ってきた。
「みぃ、もう帰るから、二人で飲んでいいよぉ」
「はぁ⁉」
怒りを含んだ智颯の叫びを無視して、瑞悠が円に耳打ちした。
「基本は応援してるから、頑張ってねぇ。ちぃの直桜様の呪縛、解いてあげてね」
顔を上げた時には、瑞悠は扉に向かっていた。
身のこなしまで無駄がなく速い。
(最後の言葉は、実感が籠ってたな。もっとちゃんと話、聞いてみたいかも)
存在感が怖すぎて言葉を受け取るだけで精一杯だったが、次に会ったら、色々聞いてみようと思った。
アイスココアを持ったまま立ち尽くす智颯を見上げる。
「智颯君、化野さんと、話せた?」
智颯がぐっと息を飲んだ。
「うん、話せた」
「どう、だった?」
聞き方が微妙になってしまった。
少しだけ言葉に迷いながらも、智颯が表情を緩めた。
「良い人だった。さすが直桜様が選んだ人だって、思ったよ」
そう言って、はにかんだ智颯の顔を眺めて、円は胸を撫でおろした。
「円のことも、聞かれた。今、元気に仕事してるって教えたら、安心してた。本当に優しい人なんだな」
何かを思い出すように、智颯が笑んだ。
「化野さんが円の話を懐かしそうにしてたんだ。それを聞いた時に一番、良い人だなって思った。僕の知らない円を知ってる化野さんが、ちょっとだけ羨ましくって、……いや、何でもない」
智颯が顔を逸らした。
何故か、耳が赤い。
「化野さんには、引きこもる前に、仕事で、お世話になった、だけだよ」
「聞いたから、知ってる。でもちょっと、……妬けた」
聞き零しそうなほど小さい声に、耳を疑った。
(ヤキモチってこと? 直桜様もいる現場で? 俺の話をして、俺の話を聞いて、妬いてくれたの? 本当に?)
驚き過ぎて、逆に衝撃がやってこない。
「今の俺を一番知ってるのは、智颯君だよ」
心の声が口から流れ落ちた。
円をちらりと覗いた智颯が、顔を近づけた。
ふわりと唇を重ねて、ちゅっと小さな水音を立てて吸い付いた。
「今日の分の御褒美、あと、お礼」
「……お礼?」
智颯が円に背を向ける。
「妹と、たくさん話してくれた、お礼だよ。みぃが楽しそうに帰って行ったから」
ちらりと覗いた智颯の目は照れていた。
(ん? 本当に嬉しいの? それとも妹にもヤキモチ? どっち?)
円は智颯の服を引っ張った。
「じゃぁ、もう一回、キスして。ご褒美とお礼分で、二回して」
「ダメだ。一日一回まで」
「そんな決まりないよね?」
「今、決めた」
じゃれた衝撃でトレイから落ちそうになったアイスココアを慌てて掴む。
ガムシロップがたっぷり入った甘いココアは、心の奥まで満たしてくれた。
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