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悩めるオレンジ
『皆さんにご報告があります。出演の舞台ですが諸般の事情により降板することとなりました』
『カンパニーの皆さん、スタッフのみなさん、楽しみにしてくださっている皆さん申し訳ございません』
『気持ちの整理がついたらまたご報告します』
『すみません』
羅列された文字に、言いようのない不安を覚えた。
普段のあの子は快活で気持ちのいい男だ。しかし、その裏はとても繊細で、たまに憂鬱をこじらせてしまうときがある。
役者なんてやっていると、そういうことに悩まされることは珍しくない。俺もアメリカにいたときはよく悩んだものだ。
ラスティも思い悩むことはあれど、こうして降板をすることは今までなかった。しかし、今回はどうだ。
彼が長らく出演させていただいている劇団の公演を降りるとは、よほどのことである。
こちらから大丈夫かと連絡をとってもいいが、妙なとこで意地っ張りな彼のことだ。きっと、大丈夫、心配するな、と返ってくるに決まっている。
放ってなんておけるわけがない。大切な恋人である以前に、彼は俺の可愛い後輩で、親友で、同じ役者仲間なのだから。
俺は使命感に駆られて、ラスティのマンションへ向かった。
もらった合鍵で中に入り、彼の部屋の前までくる。インターフォンを鳴らすとすぐに応じてくれた。
「ラスティ、俺だけど」
「ひ、ひさひで、さん」
インターフォンの向こうのラスティは相当驚いたようだった。部屋の鍵が開かれ、中から彼が出てきた。
そこで驚いた。久しぶりに見た彼は、頬がこけているように見える。目の下に隈があり、顔色もよろしくない。
「大丈夫か?」
思わずそんな言葉が口をついた。ラスティはぎこちなく笑うだけで、答えてはくれなかった。
ラスティに部屋に通される。見慣れたそこは、とくに荒れているというふうではなかった。いつも通りに綺麗に整頓されている。
「お前、飯は食ってるのか?」
「いや……その、食欲なくて」
「ダメだろ。食べなきゃ」
俺が言うと、ラスティは困ったような顔をした。こういうときの彼はあまり大丈夫ではない証拠だ。
なにか簡単なものを作ってやろうと思い、キッチンを借りる。すると、背後で彼が言った。
「ごめん、久秀さん……なんか……」
その声は震えており、彼が泣いていることを示していた。心配になって振り返ると、彼は静かに泣いていた。
声もあげずにボロボロと涙を零している。俺は慌てて駆け寄ったが、その前にラスティは目元を拭ってしまった。
「なんで、謝んだよ」
「オレ、オレ……っ」
「とりあえず座れって。話なら聞くから」
ソファにラスティを座らせ、俺はその隣に腰掛ける。そして、彼の頭を引き寄せると胸に抱いた。
彼は俺の胸にすがりつくようにして泣き出した。年甲斐もなく泣きじゃくるその姿に、俺はただ背中を撫でながらあやすことしかできない。
「大丈夫だ。大丈夫だからな」
「ごめん、ごめんなさい……っ」
ラスティは何度も謝罪の言葉を繰り返した。俺はそのオレンジ色の髪を何度も撫でてやる。
しばらくすると落ち着いてきたらしい彼は、ゆっくりと俺から体を離した。目元が赤く腫れており痛々しい。涙を手で拭ってやると、彼は恥ずかしげに目を伏せた。
「オレ、もう芝居できへんかも……」
「なんで」
「……って、思ってん」
それだけ言って黙りこんでしまった。理由を話すつもりはないらしい。ただ、彼がかなりショックを受けていることだけは伝わってくる。
俺は彼になんて言ったらいいのだろうかと思案した。しかし、結局うまい言葉は思いつかず、当たり障りのないことしか言えないのだった。
「脚本が嫌なのか?」
すると、ラスティは首を横に振った。脚本のせいではない。なら何が彼をそこまで追いつめているのだろう。気になるがこれ以上のことは聞けない。
「久秀さん……オレ、どうしたらええんやろう」
彼は縋るような眼差しでこちらを見つめてくる。俺はたまらずその体を抱きしめた。すると、彼は弱々しくではあるが俺の背中に手を回してきたのだった。
「オレ……もう、わからん」
ラスティの声は震えていた。なにも解決策が思いつかないといった口調だ。
今まで積み上げてきたキャリアを捨てることだってあるのだ。簡単に決められることじゃない。
俺はもう一度ラスティを強く抱きしめたあと、彼の体をそっと離した。そして、ソファから立ち上がる。
「とりあえず、飯だ」
「え?」
「簡単なものでよければ作るから食えよ」
俺が言うと、ラスティは呆然とした様子で俺を見上げてきた。その頰に軽く口づけをしてやり、俺はキッチンへと向かう。
途中振り返ったら、彼は戸惑った顔をして固まっていた。思わず笑いそうになるのを堪えて、俺は調理に取り掛かった。
「できたぞ」
俺はテーブルに梅のおかゆを置いた。その匂いに反応してか、ラスティは鼻をひくつかせて顔を上げた。
「あんま食うの辛いなら無理しなくていいからな。とりあえず、一口でいいから食べなさい」
「ん……」
ラスティはスプーンを手に取ると、ゆっくりおかゆを掬った。そして、それを口に運ぶ。咀嚼し嚥下されたのを確認して、少しだけ安心した。
しかし、ラスティはスプーンを置いて、またごめんなさいと謝った。
「ごめんなさい、せっかく作ってくれたのに……」
「いいから」
俺は彼の隣に腰掛けると、その肩を抱き寄せた。すると、彼は素直に体重を預けてきたのでさらに強く抱きしめてやった。そして、言い聞かせるように何度も言う。
「大丈夫だからな」
「うん……」
ラスティは小さく、本当に小さく頷いた。
俺はその頭を優しく撫でてやった。
それから俺たちはぽつりぽつりと話をした。彼がなぜ舞台を降りるのか、降板したのは本当のことなのか。なにかトラブルがあったのではないかとか。しかし、彼は頑として口を割ろうとしなかった。ただ曖昧に笑ってかわされるだけだったのである。
結局、どうして彼がこのような状態になっているのかはわからなかった。
ラスティがここまで打ちのめされるのは初めてのことだった。
なにが彼を曇らせたのか。ネットでアンチに叩かれているのだろうか。
それはあとで調べるとして、今は少しでもラスティの心を晴らせることが大事だった。
「とりあえず、今日は泊まっていくから。な?」
俺はラスティの髪を撫でながら言った。すると、彼は黙ってこくりと頷いた。
「映画でも見るか? それかゲームするか?」
「久秀さんに抱いてほしい……」
普段はしないおねだりに、複雑な気持ちになった。彼が元気なときであれば、よろこんでお請けしたいところだが、今の状況ではとてもそんな気にはなれなかった。
「悪いけどね、俺は弱ってるやつを抱くほど飢えてないよ」
俺が言うと、ラスティは顔を伏せた。そして、ごめんと謝るのだった。俺はもう一度彼の頭を撫でた。
「元気になったらいくらでも抱いてやる。だから今はゆっくり休め」
「でも、オレ……」
ラスティはそこで言葉を詰まらせた。俺は彼の顔を覗き込み、どうしたのかと尋ねる。すると、彼は勢いよく顔を上げたかと思うと、すぐに俯いてしまった。
そして、なんでもない、と言うのだった。しかしその声は震えていて説得力のかけらもないものだった。
そんな様子に不安を覚えながらも、とにかく彼を休ませることを優先してベッドに座らせて毛布をかけてやると、ラスティは小さくおおきにと言った。
しかし、俺を見つめる視線には不安の色が滲んでいた。
「なあ、なにかあったのか?」
俺は意を決して尋ねたが、ラスティは首を横に振った。そして、再びごめんと謝るのだった。
「謝らなくていい。ただ、悩みがあるんなら教えてくれよ」
「ん……」
ラスティは少し悩んだ様子を見せたが、やがて口を開いた。
「オレのさ……芝居ってさ」
「……おう」
「なんか周りを不幸にさせてへんかなって心配なんよな……」
その言葉に、俺はすぐに答えられなかった。ラスティが何に悩んでいるのか理解したからだ。
彼は自分のせいで誰かが不幸になることを極端に恐れている節がある。
だから、これまであまり誰かと深い関係になることを避けてきたのかもしれない。
けれど、今ではそのことが障害になって苦しんでいるのだ。大切なものができる度に失うことへの恐怖心が大きくなるのだろう。
そしてそんなときに、ネットで心無い言葉を見てしまった。それでこうして思い詰めてしまったのだ。
「お前の芝居は観客を夢中にさせる。お前は人を笑顔にするために頑張ってんだろ」
俺はできるだけ優しく、言い聞かせるように言った。しかし、ラスティの顔は暗いままだった。
「でも、オレのせいで誰かが傷ついてんのは事実やん……」
「お前のせいじゃないよ」
「でも……っ」
なおも食い下がろうとするラスティの唇に人差し指を押し当てて、言葉を遮る。そして、そのまま続けて言う。
「もし仮にそうだったとしても、それはお前のせいじゃなくて誰かのせいだから。お前のせいになるわけじゃない」
「でも、オレが!」
ラスティは叫ぶように言って俺を見た。その目には涙が滲んでいた。俺はそれを優しく拭い取ってやりながら言う。
「大丈夫だって。お前はたくさんの人を笑顔にしてるじゃないか」
「でも……」
「もしそんなやつがいたら俺が怒ってやる。だから安心しろ」
俺はそう言って笑いかけたが、ラスティは納得していないようだった。唇を噛み締めて俯いてしまう。
そんな彼の頰を両手で包み込んで上を向かせると、その目を見つめる。
「もしなにか言われたんなら俺が代わりに言い返してやる。だから、お前は気にせず演技に集中すればいい」
「……うん……」
ラスティは小さく頷きながら返事をして、そのまま俺に抱きついてきた。俺はそんな彼を抱き留めると背中をぽんぽんと叩いてやった。
そしてしばらくそうしていると、彼は徐々に落ち着いてきたようで、ゆっくりと体を離した。涙の跡が残る顔で笑ってみせる彼をみてほっとする。
しかしそれと同時に、彼の抱えているものの深刻さを改めて思い知らされた。
彼の背負っているものは、それほどまでに大きいのだ。それを一人で抱え込ませるわけにはいかないと、改めて強く思うのだった。
「俺がついてるからな」
そう言って、額に口づけを落としたあと手を握る。すると、彼は恥ずかしそうにしながらも握り返してきた。そんな小さな反応すらも愛おしく思いながら、俺は彼をベッドに横たわらせた。
「おやすみ、ラスティ」
「……久秀さん」
「ん?」
どうした、と尋ねる前に彼が口を開いた。そして、消え入りそうな声で言う。
「抱いてほしい……」
二度目のお誘いに俺は一瞬躊躇ったが、彼の頬に優しく触れて言った。
「そういうのは元気になってからな」
「でも……っ」
まだなにか言いたげなラスティを宥めるように頭を撫で回す。そして、その額に軽く口づけを落としてやった。
「今はゆっくり休め。な?」
「うん……」
ラスティは小さく返事をすると、そのまま目を閉じた。
そして、しばらくすると規則正しい寝息を立て始めたので安心する。彼は眠るまで俺の手を離さなかったが、やがて眠りにつくことができたようだ。
そんな彼の寝顔を見ながら俺は思う。彼を支えてやらねばならないのは自分なのだと。
彼の苦しみや悲しみはできるだけ取り除いてやりたいと思うし、それができるのは自分だけだと思うのだ。そう考えながら、彼の手を強く握り返したのだった。
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