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第8話

 ひょっとすると風吹は、僕のせいで女性と付き合えないのかもしれない。  それこそ飲み会に行ったり、合コンに出たりしたいと思っていても、このどうしようもない幼馴染の世話を思い出すと、行くのが面倒になっている可能性もある。  僕は今日こそ風吹に、僕の気持ちを伝える決心をした。風吹にはもう、僕の〝オナニーの手伝い〟をしてくれなくていい、と言わなければならない。  手伝いをしてくれなくなることで、風吹から気持ちのいい事をして貰えなくなるのが残念じゃない訳じゃない。いや……きっと寂しくてたまらなくなるだろう。下手をすると僕の方からまた、して欲しいと頼んでしまうかもしれない。  だけど、一度は伝えなきゃいけないと思う。もう僕も大学生になった。このまま上手く卒業すれば、どこかには就職出来るだろう。  僕たちは大人になっていく。風吹がこの先出会うはずの、素敵な恋人への弊害(へいがい)に僕はなりたくない。  ひとりで色々考えて、勝手に決心していたら、何だか泣きたくなってきた。風吹という頼りがいのある大きな存在から〝巣立つ〟事は、僕にとって清水の舞台から飛び降りるくらいの勇気がいる。  僕は仏壇のある部屋へ行った。小ぶりの仏壇の上には菫の遺影が飾られている。たった十一歳で逝ってしまった菫。僕の双子の姉で、明るくて、みんなから好かれていた可愛い女の子。  写真の菫は、もちろん十一歳のままだ。男女の双子で二卵性なのは当然だけど、それでも僕と菫はそっくりだった。写真の菫は間違いなく美少女で、今生きていたらきっと男子からモテモテだったはずだ。  菫は僕の様に赤茶けた髪の毛ではなく、健康的に艶のある黒っぽいくせ毛だった。ほっぺがほんのりピンク色をしていて、生き生きとしていた。  菫は僕の肌を、白くて羨ましいと言っていた。僕の肌は白いというより青味掛かっていて単に不健康なのだけど、桜は肌が綺麗でいいな、と菫は言う。  あたしも桜みたいだったら良かったなぁ、と菫が何度か言ったことがある。僕はそのたび、僕の方こそ菫みたいに健康だったら良かったのに、と思った。  でも言わなかった。熱が出たり入院したりすると、どうしてもお母さんを僕が独り占めしてしまう。菫は文句を言うことはなかったけど、きっと寂しかっただろう。  風吹は菫とも、もちろん仲が良かった。僕は幼い頃ずっと、風吹と菫はお似合いだから、大きくなったら結婚するんだろうな、と思っていた。  僕は仏壇に線香を上げた。手を合わせて目を閉じる。そして僕の心の奥の奥にある、絶対に風吹に言えない想いを菫に告げた。  風吹は、ずっと菫のことが好きなんだ。風吹が僕に構うのは、僕を菫の代わりにしているから。  風吹自身はそんなこと言わないし、もしかしたら自覚すらしていないかもしれない。でも子供心に好きだと思っていた相手が突然死んでしまったら、辛くてその死を認められなくて当然だと思う。  僕はたまたま双子で、風吹が好きな菫とそっくりだった。その僕がまた自分の前からいなくなってしまったら……と思うと、風吹はすごく怖いのだろう。だから風吹は、普通の友達でも出来ないような事を僕にしてくれるんだ。  ごめんね、菫……。僕が菫の場所を取ってしまった。  風吹のためにも、僕の方が死ねば良かったね。そうすれば今、風吹の隣で、世間にも認められる形で堂々と恋人として歩いて行けるのにね……。  僕は目を開けて菫の写真を見た。菫は毎日同じ顔で、にっこりと笑っている。この写真は五年生の夏休み、風吹家族と一緒にプールに行った時に撮ったものだ。  菫は風吹の隣で楽しそうに笑っていて、その笑顔がとても可愛いかった。両親はその写真の一部を切り取って遺影にしたのだ。  写真を見ていても、菫が幽霊になって出てきて何か言ってくれるような奇跡は起こらなかった。僕はどこか残念な気分で立ち上がった。  暗い気持ちだったけど、生活する上でやるべきことは待ってくれない。風吹はまだ帰ってこないし、そろそろ晩御飯を食べてしまおう、と思った。  部屋を出る時、長押(なげし)に掛けてある能面が目に留まった。  僕の父方の祖父は面打師をしている。僕と菫が産まれた時におじいちゃんが能面を二つ掘ってくれた。小面(こおもて)と呼ばれる若い女性の面と、般若(はんにゃ)と呼ばれる鬼の面だ。  祖父になぜ、この二つの面を僕たちの祝いとして作ってくれたのか訊いたことがある。そうしたら「ひとの心のあり様を現したんだよ」と言われた。  ひとは美しい心と、恐ろしい心の両方を持つことができる。良し悪しは別として、時にどこまでも柔和に成り得るし、時に残酷なほどの怒りや恨みを持つこともある。それをお前たちに分かってほしかったんだよ、と。  僕を見下ろして来る二つの面は、僕の今の心のあり様そのものだと思った。柔らかな表情の小面は風吹とずっと一緒にいたいと思う僕の心。  でもきっとそれは叶わない。いや、叶えちゃいけない。風吹の人生がより良いものとなるために、僕はそばにいてはいけないんだ。  風吹と離れるために、僕は僕に対して鬼になる。風吹にこだわりたくなる心を、鬼の顔で睨んで打ち負かしてみせる。

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