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第28話

 とりあえず、帰ったら来てくれると風吹は言うので、僕は部屋の掃除をしてから休むことにした。無理が効かない身体というのは、地味に厄介だと思う。  掃除が終わってから、ふと思いついて菫の仏壇のある部屋に行った。風吹から母へ正式に生涯のパートナーとしての挨拶があった事を、せめて写真の前で伝えておこうと思ったからだ。  昨日見た夢を思い出すと、胸がツキっと痛くなる。菫と風吹の激しい絡み合いをいやに鮮明に覚えている。でもあれはあくまで夢で、現実では菫はとうに亡くなっているのだ。  僕は菫の写真の前で線香をあげて手を合わせ、風吹と一生を共にする事を伝えた。ごめん、とも思った。一昨日は風吹から離れる決心をして、ここで伝えたばかりだったのに……。  菫への報告を終えて部屋を出ようとした時、この前と同じく祖父の作った能面が目に入った。  僕は不意に思い立って、般若(はんにゃ)の面に手を伸ばした。素晴らしい作りで惚れ惚れする。僕も面打ちがしたくて、祖父からの教わっていくつか作品を作っている。段々上達してきたかな、と思うけど、祖父の技術を見ると足元にも及ばないと分かる。  何より面の表情──。たった数ミクロン違うだけで魅力が違ってしまう顔の作り込みが凄かった。恐ろしいのに美しい。角度を変えるとまた、表情が全く違って見える。それはいつ見ても驚嘆だった。  僕はほぼ無意識に、面を自分の顔につけた。ヒノキの香りに包まれ、世界が暗くなる。  面の目の穴からほの白い光が漏れている。僕は狭い視界を(のぞ)いた。当然、仏壇部屋のふすまが見えると思っていた。でも実際に見えたものは別の光景だった。  白く光って見えた場所が薄暗い灰色に変わる。その中に動くものが見えた。こらした僕の目がとらえたのは、床に屈み込む男の人の後ろ姿だった。腕を前後に動かしていて、それにつられて上半身も前と後ろに交互に動いている。  どうやら、何かを()いでいる様に見えた。僕は目をこらした。面の穴はその光景をもっと僕に良く見せるかの様に、男性の姿へと(せま)っていく。  頭にタオルを巻きつけた男の人が、両脚で挟んだ研ぎ石台の上で手を動かしていた。研いでいるのは小さな物で、何なのかはにわかには分からない。  ただ、男性の表情は鬼気迫るものがあった。髪もヒゲも伸びているせいか顔かたちは判別出来なかった。それでも彼の怒りがオーラの様にその身体を取り巻いて、ユラユラと立ち上っているのが分かった。  突如、男性の目だけが際立って映し出された。怒りをたぎらせた目からは涙があふれていた。(すす)が付いたような薄汚れた顔に伝い落ちる涙。  音として聞こえるのは、何かの金属を研ぐ音だけだった。シャッ、シャッ、と男性が押したり引いたりするたびに音が鳴る。  男性が急にギクリとしたように手を止めた。ゆっくりと、下を向いていた顔を上げる。面の穴は男性と僕の視線を正面から合わせる様に場面を変えた。  僕は恐ろしかった。出来れば目を合わせたくない。なぜならその人が放つ怒りのオーラの中に、深い哀しみが混ざっていたからだ。どうしようもない程の絶望と哀惜。それが痛みとなって僕へと流れ込んでくるかのようだった。  僕と彼の視線がぶつかる。男性の顔には煤を洗い流した涙の筋が際立っていた。落ちくぼんだ目から放たれる怒りのこもった眼差しと僕は対峙した。男性が少し手を持ち上げる。持っていたのは金属で出来たひし形状の物……。  ──矢じり?  そう思いついた瞬間に、男性が驚いたような顔になった。その顔を見て、僕は思い出した。遠い記憶の中にある顔──。幼い頃、僕を抱き上げ笑っていた顔……。  お父さん!  煤で汚れた父の顔が驚愕の表情になる。何か言うように口を開けた。そこで僕の視界は真っ暗になった。シャッターが閉じた様に、僕の視界から父の姿が消えた。  そして、僕の意識もそこで途切れた。  目が覚めた時、聴こえてきたのは母と誰かが話している声だった。相手も女性の声で、あまり頻繁には会わないけど、多分風吹のお母さんの声だと思った。  僕は布団に寝かされているようだった。仏壇の部屋は畳だけど、柔らかい敷物の上に寝ている感触がする。意識はあるのにまだ目が開かない。耳だけは敏感になっているみたいで、部屋の外の廊下から小さく響く話し声は聞き取る事が出来た。 「……つきくんから連絡はあるの?」 「そうね……時々は。いる場所が定まらないし、携帯もしょっちゅう変わるから、私からはなかなか……」  質問したのは風吹のお母さんだ。答えたのは僕の母。  『……つきくん』は多分〝達樹(たつき)〟くん──僕の父の事だと思われた。風吹のお母さんの由香里さんと、僕の父はまたいとこで年も近いから、小さい頃から仲が良く元々名前で呼び合っていたらしい。
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